甘い災厄
「きみは、酔っぱらった自分がどうなるか、知らないでしょう!?」
まつりに言われるが、確かに知らないし思い出せない。大体、飲酒した覚えなんて。
「バレンタインとか、貰い物のチョコのレベルですごいことんなったんだから……」
「どうなるんだよ?」
「こんなとこじゃ、言えないよっ」
そいつは、なぜか頭を抱えてしまう。え、何なの?
「サディスト鬼畜小悪魔に変身するって言ったら信じる?」
そんなわけないじゃん!あははは、と笑うぼくに、まつりはなんとも言えない顔をした。
嘘だよ、ね? 冗談ですよね?
「い、言える範囲で言ってみてよ」
「『寝るなぁー構えー』って駄々を捏ねてみたり、急にキス魔になったり、『寂しいのぉ!』ってじたばたして抱っこを迫られたかと思ったら『まつり、大好きぃ……』って上に乗ってきて」
「ひいいい、やめて! なんかやめて!」
ぞわっと鳥肌が立つ。
いつも冷静なぼくがそんなことをするわけが無い。よね?
「今度、録画見せてあげるからね」
満面の笑みで言われて、ぼくの表情が、ピシッと貼り付いた。
そ、そんなぁ……
「まあ、あれはあれで可愛いんだけどさ。いつになく積極的だし」
「や、やだやめて」
話しながら道をしばらく歩いて、あれこれお店を回ってから、目の前のバス停に寄った。
バス停のそばで、まつりが泣いたのを思いだす。
ぼくのために、いっぱい考えてくれるまつりは、世界で一番愛しいと思うし、あのときには、触られても怖くなかった。
こんな風に、ひとつずつ、普通を取り戻せたらいいな。
「兄貴にも、何か、買おうかな」
まつりが、驚いたような顔をする。
彼は、ぼくを恨んでいた。
努力する自分よりも、努力しないぼくの成績が良い、という焦りなどがあったと聞いているが、実際の彼のことは、ぼくには判断できない。
けど、彼の視界に入るたびに、蹴られたり殴られたりしていたものだから、あまりいい関係ではなかった。
努力だけではどうにもならないことも、なることも、確かにある。
けれど結局他人は他人だ。
そして、自分は自分でしかない。他人と同列で努力を語るのはとても不毛なことだと思う。
わかりあえなかった。
わかることができなかった。
傷自体の痛みよりも、ある日突然止んだそれと、ぼくを置いて急に出ていった彼の、そのことが、悲しかった。
何も聞かなかったから。何も言えなかったから。
「そんなに意外かよ?」
「いや、もう、平気なのかなって」
「えっ?」
平気?
兄とぼくのことは、まつりには内緒にしていたはずだ。心配されたくないから。
――まつりは兄と知り合いなのだろうか。
そんな言葉が出てくるとは思わなくて驚く。
「そうだよ、少し、いろいろ、あったんだ」
まつりはそう言って笑う。ぼくはどうしていいのかわからなかった。
まさか、まさか全部知っているのか。
兄にされてきたことまで。
だけど。
彼はただ、感情が昇華出来ないだけだ。ひどく言って暗示をかけて思い込んでいなければ、もはや自分の正しさを保つことが出来ないくらい、両親からプレッシャーをかけられていた。
それは知っている。
可哀想だった。
あれだけ頑張っているのだから報われれば良かったのに。
本当に許せなかったのは自分自身だろうに。
「きみは」
まつりは言う。寂しそうに。
「きみは、優しすぎる」
ぼくは何も言わない。
「どうして、そんなに、自分を責める?」
ぼくは、何も言わない。キーホルダーとか、そんなのがいいかな、と考える。
「みんなは、怒鳴って、喚いて、泣いて、それで終わりなんだ」
ぼくは言う。
うまく笑えただろうか。
まつりはぼくよりも苦しそうに眉を寄せる。
なんで、そんな顔するんだよ。
自分以外に何を責められるんだろう?
まつりは、ぼくよりも辛そうにした。
泣きそうだった。
ぼくは泣かないのに。
うまく息が続かなくて、俯いた。
なんとなく、まつりに今の顔を見られたくなかった。
ぼくの腕をひこうとしたそいつは、迷ったように手を引っ込める。
それから、おいで、と言った。
「彼は、どんなものが好き?」
どうやら、一緒に選んでくれるみたいだ。
えーっと、えーっと。
考える。
なにがいいかな。
「可愛い女の子が好きだった」
まつりが、吹き出した。
「あはははははははっ!」
「ふふふ……」
ぼくも思わずつられて笑う。二人でしばらく笑い転げたあとで、正気に戻る。
不思議なことに、それは悪い気分じゃなくて、信じようとしていた自分に気付いた、それが嬉しくて、成長を感じた。
途中で小雨が降った。お土産を両手いっぱいに抱えたまつりが、慌てているのを少し楽しい気分で見守る。
「少し持とうか?」
聞いてみると、無表情で3つ、袋が差し出されたのを持つ。
しばらくそのまま停留所の屋根の下に二人で居た。
ぱらぱらと跳ねる雨音を聞きながらいろんなことを考える。
時計の時間を正確に話したら、それはずれた時計で、間違っていると怒鳴られたこと。
友達の忘れ物を庇って怒鳴られ、さらに周りが雰囲気だけで判断して荷担したこと。
『きみは、優しすぎる』
そうだろうか。
わからない。
『全く。そんなんじゃ損しかしないよ』
兄のこと。
それから、他のこと。
学校とかでも言わなかった。相談もしなかった。エイカさんだけ、気づいてた。
ぼくは、彼がかわいそうで、助けたかった。
止めようとするたびに殴られた。
彼はきっと、ぼくをまだ、恨んでる。
生きてるだけで、恨まれてばかりだ。
まつりに会ったこと。
まつりだけは、ぼくが何をしても、なぜか見放さなかった。
まつりの知り合いも、みんないい人だった。
一見怖い人も、話したらわかってくれたりした。まつりが信頼するだけのことはあると思う。
「ねぇ、まつり――」
「ん?」
ありがとう。
まつりに近づいて、背伸びをした。
頬に軽く唇で触れると、そいつは真っ赤になった。
「え、え? 何」
「何でもないよ。水族館、楽しみだね!」
すぐに冷静さを取り戻したまつりが、ふふ、と笑う。
「そうだね。お魚がいっぱいいるところだよ」
「食べられる?」
「食べません。見るだけ」
見るだけか。
それでも、図鑑でしか見たことがない生き物に会えるんだと思うと、わくわくする。
「あのさ」
「ん?」
ぼくは前々から考えていたことを、話す。
「ずっと考えてたんだけどね、やりたいことが出来たんだ」
「へぇ」
そいつは特に興味を持つわけでもなく、けれど愉快そうにこちらを見る。
「花嫁?」
「そ……ちがっ。だいたいぼくは旦那の方――」
「じゃあ、なにかな?」
「ぼくたちみたいに、理解されにくい人を、少しでも助けるための場所を作りたいんだ」
「うんうん。それで?」
「今より、いっぱい勉強して、研究してね、それで――――」
ぼくの将来の夢。
それを聞いたまつりは、じゃあ、これからももっと勉強しようと言った。
「大丈夫。信じていればどうにかなるから」
えへへ、と満面の笑みで、まつりは笑った。
すべては自分の可能性を肯定してあげて、それをめげないで信じることだよ、と。
水族館行きのバスに乗った。
休日だから人が沢山いたけれど運よく、目の前のおばあさんが降りていって、譲ってくれたので座ることができた。
景色を見ながら、このまま記憶も前へ進んで昔のことは遠くに置いてくる想像をする。
がたごとと、揺れる車内。前方を埋め尽くす家族連れ。
パンフレットを見て話し合う若い二人。
隣を見ると、まつりは退屈そうだった。
「暇なの?」
「夏々都がずっときょろきょろしてるから暇なのです」
「だって、ほら、バスの中って新鮮で!」
はしゃいでいたら、楽しそうだねと言われる。
「まつりが楽しいのが、ぼくは一番楽しい」
「楽しそうに見えてる?」
「うん。だから楽しい」
そいつは楽しそうに呆れる。
バスが停止したので、降りた。目の前に公園があってお土産の販売所が見える。
そいつは、『ほら』と、ぼくに一枚の紙を手渡してさっさと中に入って行く。
『かばってくれてありがとう』と、つたない子どもの文字で書いてあるメッセージカード。
ああ。あの子か。
たった、それだけで、ぼくは生きていける気がした。
それからね、とまつりは言う。風で、そいつの上着の裾が翻った。
「全部捨てても――きみは、なんてことない顔をしてね、まつりにだけ、笑ったんだよ。『大丈夫』って」
「覚えてるよ」
だって正しいことは、ひとつだけだった。
見えているものは、一人だけだった。
ぼくが殺されたってきっと、まつりを助けた。
それは変わらない。
「いつだって、たった一人を守るために、きみは全部犠牲にしてしまうね」
損だよ、ばかみたい。
まつりは苦笑する。
でもね。
「でもね。何も要らないんだ。ぼくは」
何もないから。
実感しないから。
理解できないから。
大事な誰かが、笑ってくれるためなら。
まつりは、切なそうに顔をゆがめる。
「ご主人様としては、もう少し自分を、大事にしてほしい」
ぼくは首を横に振る。
「ほんとに大事な人だけは、ちゃんといつでも、残ってくれるんだ」
だから大丈夫。
まつりはぼくをそっと抱き寄せた。目を閉じる。
海が近くにあるらしい。視界の端に、最後に青が映った。
□
何回か、見てしまう夢。
いまだに後悔しているみたいだ。顔の傷も、心も、まだ癒えてない。けれど、前に進まなければいけない。
「ななと」
「ん?」
「大丈夫、大丈夫」
「うん……」
まつりの腕の中で安心して眠っていた。初めてのことだった。ちゅ、と額に口付けられて、ぼくは恥ずかしくなる。やめろ。いつのまにか人混みに囲まれていて、ぼくらは慌てて中まで走る。
水槽のトンネルをくぐって歩く。
ガラスに映る魚たちを見ながらきれいだなぁと思う。銀色の群れが目の前を通過するのを見ながら家族のことを想った。
父さん、母さんは、まだ見つかっていない。
どこにいるのだろう。
ぼくのことを覚えているだろうか。
「まつりってさ」
「んー?」
「たまに、お母さんみたいで、安心する」
「ふふふ……」
隣で魚を見ているまつりは、愉快そうに笑みを溢した。
「そうだご飯食べる?」
時間を見ると、13時くらいで、ちょうどお昼だった。と、そのとき上着に入れていた携帯が震えた。ボタンを押す。
「はい」
『なぁちゃん、元気』
「なんだよ……」
兄だった。どうしてぼくの番号を。あれから教えたのだったっけ。
『なんだよとはなんだ。大好きなお兄ちゃんに』
思わず冷たくなってしまった。長年の冷戦状態のせいで距離感がつかめない。
「今水族館にいる」
『彼女と?』
「まつりと」
『うっそ、カノミヤさんそんなことするんだ。俺とはデートもしてくれないのに!』
相変わらず軟派な兄だけど、なんだか嬉しい。
懐かしい。
「だって」
まつりにふると、そいつは苦笑しながらいつかねと言った。
「うるさいやつは無理」
『ひどい!』
ふん、とまつりがそっぽを向く。
「兄とも遊んであげてよ」
思わずぼくが言うと、そいつは穏やかな顔で笑った。
「いつかね」
「兄」
『なんだ弟』
「おみやげ、何がいい」
『お前とカノミヤさんのらぶらぶ話でも聞かせてくれたらいいぜ』
「なっ……!」
身体が熱くなる。
誰が言うか。
『大好きな気持ちは、改めて伝えたらどうだ』
「なんでそんなこと」
『何度聞いても嬉しいもんなんだよ』
わからなかった。
ぼくは、どうせ嘘だろうとしか思わないから。
「そんなことはないと思うんだけど」
だから、素直にそう伝えた。
『じゃあお前は、何を聞くと嬉しいんだ』
なんだろう。
「いい天気だ、とか、ご飯がおいしい、とか、その人の、幸せなことかな」
そのひと自身のための、その人だけの、幸せを、ぼくは嬉しいと思う。
『変なの』
「そうか?」
『お前のおかげだとか、ありがとうとかさ』
「勝手にやってることだから、感謝されるかどうかなんてどうだっていい」
『ああ。わかる』
「え……」
まさか、共感されるなんて思わなくて驚く。
金髪の、あの彼女を思い出す。あれが、彼女なりの優しさだった。
ただまっすぐに、結果だけを遺した。
愛情だけを、遺した。
言葉にしなきゃ伝わらないとは言うけど、ちゃんと伝わる。言わなくたって、別に伝わっている。
わざわざ聞かなくても、わかっている。
心の中だけで思っておいてくれればそれだけでいい。
じゃないと逆に自分が異常なことをしたみたいで不安な気持ちになってくる。
自信なんてないから。
そんなことはないと言われたって、ぼくたちはそう感じるのだから、仕方がない。
『でも世の中、形式やただの礼儀としてじゃない人もいるから』
「そうなの?」
手元にある紙を見ながら、改めて、ありがとうの意味を考える。
自分がやりたいからやったことを、ありがとうと言われても、たいしたことはしてないのにと、不思議な気分になる。
何がなのか。
なぜなのか。
ありがたくはない、
当たり前、なのだ。
助けるのも、助けたいのも当たり前なのだ。
当たり前だからこそ、この紙を見たときも首を傾げていた。
けれど、まつりに感じたありがとうは、ぼくには奇跡だった。
そばにいてくれたこと。受け入れてくれる人。
奇跡だから、ありがたかった。
まつりには当たり前なのかもしれなくても。
もしかしたら、こういうことだったの?
『俺今度結婚するわ』
「え!? おめでとう」
誰となんだろう。
『あ、カノミヤさんとはどこまでいった?』
「い、言うわけないだろ!」
『その反応はまさか?』
「実は、つい最近……」
小声でごにょごにょ話していると、まつりがぼくから電話を奪った。
「お昼ご飯食べるから切るね!」
そう言って切ってしまう。
「なにするんだよ」
「電話ばかりしないの。おなかすいたし!」
「もしかして……妬いてる」
頬を膨らませるまつりに言うと、そいつは、かあっと赤くなった。
「よしよし」
「ななと……」
まつりをぎゅっと抱き締めていると、また人だかりが出来はじめて、慌てて退散する。
「ご飯何がいい?」
「レストランは夜だよな」
「そうだよ。ここ、食べるところあったと思う」
一旦、ロビーに向かって、それからさらに歩くとレストランがあった。
あちこちに、海を思わせるモービルがゆらゆらしている。
なんとなく、エリさんとも来たかったなと思った。
父さんや母さんは、いま何をしてるんだろう。兄は何をしてるだろう。
何を望むわけでもない、愛されたいとか、そんなわけじゃないけど、元気ならいいな、と思う。
引き戸を引いて、店内に入る。中は豪華な海の家みたいになっていて、涼しげだった。
いくらかある白い木のテーブルのひとつの席に、向かい合って座ってみる。
二つ折りの、メニュー表が3つ置いてあったので、ひとつずつ手にして内容を確認した。
たらこスパとか、お寿司、海鮮丼、と、こちらは食べるお魚が充実している。
「女性側の値段が書いてないお店もあるんだよー」
とまつりは言っていたが(ぼくは女性ではないけどね)、あいにく、これは値段が書いてある。
「割り勘?」
一応聞いてみると、そいつは得意気に笑って言った。
「今日は、奢ってやる」
「いいの? その代わりにぼくをもらいたいとか言わないよね」
まつりは少し、ぎくっという顔をした。
「店内に売ってるおさかなさんきぐるみパジャマを着て添い寝してもらうだけ」
「相変わらずだな、お前」
「全5種類買うけど、いい?」
「ご主人様の好きにしてください……」
5種類あるの?
思えば、こういうところで、食事を食べさせてもらえるってだけでもすごいことだ。
せっかくまつりがおごってくれるんだから、甘えておこう。
「お誘いですか」
「アイスクリーム頼も。頭冷やせ」
テーブルの上の鐘をりりりん、と鳴らす。
これは、入るとき他のお客さんがやってるのを見た。
すぐに店員が来る。
「ご注文をお伺いします」
「アイスクリーム二つ、サンドイッチ、あとこのスフレケーキセットと、海鮮丼」
ぼくの横から、先にまつりが注文した。
「かしこまりました」
店員が去っていくのを見届けてから、息をつく。
「楽しみ。海鮮丼ってどんな味なんだろう」
まつりに話題を振ってみるが、そいつは目の前で夢見心地なだけだった。
「えへへ……」
「おい」
口もとがゆるんでいる。
「で。お前の頭の中ではぼくはどうなってるんだ?」
「そりゃ、こう、お腹のところまでパジャマがまくれて、そこから指――何でわかったの」
「バレバレなんだよ……」
はあ、と呆れているうちに、まつりはサービスのお水をグラスに注いで口をつけていた。
昔に比べたらよく笑うようになったそいつを見つめていると「見すぎだよ」と笑われてしまう。
こうしていたら忘れてしまいそう。何もかも嘘になって消えていくんじゃないだろうか。お屋敷でのことや、家族のこと。いろんなこと。
背後で、がしゃん、と音がした。振り向くと、女子大生風の、ピンクのワンピース姿のお客さんの一人の目の前で、ガラスのコップが割れている。
「大丈夫ですか!」
店員さんがあわてて駆け寄りに行く。女子大生風の人が、胸を押さえてうずくまる。
何かの発作?
店内が混乱する中で、ぼくとまつりも席から見ていた。
どうやら何かが喉に詰まったらしい。
ガホガホと苦しそうな咳をしている彼女の背中を店員さんが心配そうに叩いているがなかなか出てこない。あれはつらそうだ。
少ししてから、ようやく何かが口から出てきた。
紙ナプキンでつまみながら、店員が下げようとする直前にそれが何かを見た。未開封の一枚の絆創膏だった。
「まつり、あれ」
「女性が料理に混入させたのか、それとも不手際があったのか。わからないな」
「店員が怪しいよ」
ぼくが言うと、まつりは驚いた顔。
そんなに珍しかった?
「なぜわかるかと言えば、ぼくは動作を目線の端で思い出すから。彼女は一人で黙々と食事をしていた」
まつりは、彼女が居た席を、ぼくの身体をすり抜けた先からしか見えないので、見えなかっただろう。
「それだけでは」
「店員のミスとは言い切れないけどさ、店員の中には確実に怪我をしている人が居る」
「なぜわかる?」
まつりに聞かれて、ぼくは、若い男性店員の一人を目で追いながら小声で言う。
「気になるのはまず膝より下までのズボンを少しまくっているあの人。緩いズボンを履いているときは、ずれて空気が入って擦れると痛い」
ぼくも昔は制服を着るときでも、別に暑くないのにうでまくりをしたりした。今日もそこまで気温は高くない。
「シャツをぴっちりボタンでとめないあの人も気になるかな」
先程注文をとりにいった女性店員を見がらぼくは言う。
「確か、決まってるはずだろ? きちんとした服装」
「そうだね、彼女は前髪もまとめていて、帽子もしっかりかぶっている。靴も綺麗。シャツだけはややだらんとしているね。これも、擦れて痛い可能性があると」
「うん。それから」
と、ぼくは、慌ててガラス掃除に来た女性店員を見ながら呟く。
「あの人の歩き方は、数ミリほど前のめりだ。まるで靴が合っていない」
「靴擦れ防止か、なるほど。少し外に出るなどして、はがれて、替えを出せないのかもしれないね」
「まつりはどう思う」
まつりは、少し考えた顔をした後で、くすくす笑った。
何がおかしいのだろう。
「今日は事件なんか絶対おこんないと思ったのに。はあ、全く、退屈しないや」
がた、と席を立ち上がり彼女の注文した皿、これから下げられ行くそれを見る。
皿はそれぞれメニューで分かれるが、それだけでは、わからない。
「夏々都」
「注文メニューの中で、そのクジラの絵が描かれている皿に乗るものは、そうだな、パスタ系だよ」
頭の中でメニューを広げて言うと、他には、と言われる。他……
「サラダ、オムレツなどの大きめな単品にも使っているね」
「ありがと」
ふっ、と笑ったまつりはぼくの目の前でターンすると、女子大生のもとへ向かった。
「こんにちは」
「こ……こんにちは」
ゆるく毛先を巻いた茶髪の彼女は、優しげな声でまつりに頭をさげて挨拶する。
「きみが食べていたサラダには、タバスコか何かがかかっていなかった?」
まつりは目を合わせながらゆっくり微笑むと言う。
「いえ、私が頼んだのは、イカと海老とトマトの、シーフードスパゲッティ」
彼女は、ふるふると首を横に振ってから言う。
「ああ、やっぱりそうか」
「そうかって、何が」
ぼくが言うが、そいつは答えない。
その女の人はまつりに見とれている。既婚者らしく、薬指に指輪があるのだけど、まぁ、よくあることだから妬いたりはしない。
昨日だって、ぼくはまつりに……
「なんで赤くなってるの」
まつりが白けた目を向ける。
耳元で、『それだけお前が大好き』と言うと、まつりは、ぼくよりも赤くなった。
「ばか。今、そういう場面じゃないでしょ!」
「あー。彼女は、見える範囲においては怪我をしていないよ?」
照れているそいつを無視して、ぼくは彼女をざっと見た。
「っ――もう!」
ペースを乱されて、まつりが頬を膨らませる。
すぐに店員がやってきて不手際があったことを謝罪し、料理代金は無料にすると言う。
ぼくらはそれを聞きながら、ぼんやりと食事を再開した。運ばれてきた料理はどれも美味しくて、満足したけれど、まつりをじろじろと見ている周囲が少し気に入らない。
「あの人、特製ソースが指輪についていた」
食べ終わって、ぼくに顔を拭かれながらまつりは呟く。
「そうだね」
「犯人はわかったかな?」
「そうだね」
ぼくは淡々と返しながらもそいつの口回りを拭いた。
「怪我してるのは」
「たぶん、靴の人。それから、絆創膏は靴の人から抜き取った、シャツをゆるく着てる人が入れたんだろうね」
「へえ」
まつりは、ぼくがあげたアイスクリームを食べながら、くすくす笑う。
「彼女は、たぶん指輪を首にかけてる。なかなかの美人だから、きっと言い寄られても断るためにつけている」
「……それから?」
「靴の人だと思った理由?そんなの、ガラス掃除に来ているときに屈んだから、見えたよ。ポケットにある、使い終わった、同じメーカーの絆創膏も、靴擦れが痛まないようにと浮かせたかかとのそばの傷も」
「ふうん」
まつりは愉快そうに相槌をうつ。
「シャツの彼女が犯人な理由は単純だ。注文をとりながらも、彼女はパスタを食べている彼女の方ばかり見ていた。案外、飲み込まないか心配してたんじゃないか?」
「なるほどね。だからわざと辛めにしたわけだ」
「え?」
「見ただけでわかる。他よりもありゃあ、からい。皿にソースがたくさん残っていた」
「注文を聞きに行くのも、彼女だけには、やたらとスムーズだったし、あの人が率先して聞きにいっていた。そして何か相談していた」
背後で、手を洗う音がした。ちらりと遠目から目で追うと、シャツの人が腕を洗ってすぐにまた注文をとっていた。
タバスコが、かかったかなにかしたのだろうか。
「まあ、証拠にならないし、推論じゃあ、どうしようもないんだけどね」
「だね……」
それに絆創膏の出所やら、入手方法は曖昧なままだ。
ぼくらは言い合いながら席をたつ。たとえ店の人とグルだったところで彼女はもう帰ってしまっていた。
「お魚見る続きしよっか!」
「うん」
会計を済ませて店の外に出てから、薄暗い、洞窟のお魚コーナーへ向かう。
ライトアップされている水槽は幻想的だ。
名前のわからない魚たちを見ながら、きれいだなあとか、この魚たちは楽しいのかな、とか、考える。小さな水の音以外、静かな場所だった。
「まつり、これ食べられる?」
「あれと、あれとあれとあれは食べられる。オコゼとかは、毒があるね。あ。あの魚の毒はタンパクだから、まぁ、加熱するんだけど、そしたら今度は火傷する……」
「うわあ、大変だなぁ。あ!」
目の前に、イソギンチャクとカクレクマノミを見つけて、水槽をじっと見る。この前、映画で見たのだ。
……結構ちっちゃい。
橙と白の縞模様がきれいな魚だ。
さっきまで見てきた魚について考えてみる。
ふと、深海魚コーナーに行きたいなぁと思った。
深海魚は好き。
深い底で生き延びる知恵がそのまま形になっているようなあのストレートな逞しさにドキドキする。
「なんか、まつりに似てる」
「何それ……」
存在しているだけでしかない。良いとか悪いとか、そんなんじゃなくて生きてきた。
生き抜いただけ。
たくさんの努力と、多量の痛みを、全部抱えて、押さえ込んできた。
ただそれが、普通はそうまでしなくてもいきられたんだっていうその違いだけなんだ、ぼくらは。
その姿が、不気味に見えようが、嫌に映ろうが、それは何も知らないってだけ。
かわった形をしていたって、生きるべく特化するのに必要なことだったっていうだけの話。
――こんなにも、シンプルな話。
「とても純粋で、綺麗な存在だと思うんだ」
まっすぐ、そいつを見て言う。
「気色悪い、いつからロマンチストになった」
まつりは、ばさっと切り捨てた。
あう……
ぼくを放置したまま、そいつは歩き出す。
長い上着の裾が、ひらりと翻るのを見ながら、ゆっくり後についていく。
「大体、昨日のだって。まつりの身体、それ自体が肉体とは言えないものだから」
「き、昨日の話はするなって」
「ちゃんと聞け」
鋭い眼光とともに、顎を掴まれる。
まつりは、ときどきこんな風に、驚くほどの冷たさで周囲を突き放す。それが、優しさであることも知っているけど。
「はい」
「味覚以外、皮膚感覚はほとんどが機能してない」
「知ってる。お前が、ぼくを舐めたがるのも、そ、その……」
引き寄せて、ぼくに口付けてから、まつりは笑う。
「これ?」
「う、ん……。それを、したがるのも。恋的な愛情とは違、う」
確かめてる。
存在するのかを。
肌触りや、におい、味で。知っていた。ずっと知っている。
まつりはただ、そいつの基準があるだけなんだ。ぼくには、ぼくの基準がある。
「肉体関係というのかな、これは」
「さあね。繋がりが、意味をなしてないもの」
「……ぼくだけか」
「ん?」
「だから……ずるいよ」
「確かに、きみだけが感じてしまっても、まつりは何も感じない。少し公平ではないか」
「っ――」
「もっと、依存してよ」
びく、と肩が震える。
「きみは、まつり以外、まともに見えないだろう? 他の人間なんて、ただの違うイキモノ。きみには価値がない。価値がない。どうなろうが、ね」
耳元で囁かれて、背筋が粟立つ。
「支配して支配して支配して支配して支配して支配して支配してあげる。身も心も、世界も、何もかも」
「ばか……もう、手遅れだ」
まつりが大好き。
世界が壊れようが、なんだろうが、他の人間が消えようが、それがなんなんだ?
まつりは、ずっと、ぼくの世界にいるのだし。
それなら何も問題がない。手遅れなくらいに、ぼくはこいつのことしか視野に入らない。
「手遅れ?」
「……っ」
まっすぐ見つめられると何も言えなくて、うっとりとそいつを見上げると、まつりはとても嬉しそうに、こちらを見てきた。
「かわいいね、夏々都」
「本当は、そんなこと、思ってないだろう?」
「んーん。思ってるよぉ。怯えて、震えて、まつりにしか従えなくて、哀れで、惨めで、美しいね。まるで子犬のようだよ」
真っ暗な、目。
きれいな目。
吸い込まれそうな闇。
あぁ……こんなに、こんなに、素敵なものは無い。
「ありがとう、ご主人様」
ふ、と笑ってぼくが言うと、まつりは売店に寄ろうと言った。
ああ、パジャマを買うのかと思ったが、どうやら真っ先に視界に入ったのはソフトクリームだったようだ。
しばらくして、両手に二つ、それを抱えて戻ってきた。
「はい、あげるー!」
紅いもソフトを渡され、ありがとう、と口を付ける。
甘すぎず、でも優しい甘さで、美味しい。
まつりはぼくの隣で、同じようにそれを食べた。
「おいしいね」
「そう、だな」
「もしも、まつりときみ、どちらかが死なないとならないなら、どうする?」
「なんだ、それ。この前の続きか?」
「うん」
「決まってる」
『お前に助けられるくらいなら死ぬ』
二人で声を揃えて、それから、クスクスと笑った。
「恋人じゃないんだから、最終的には自分が大事だよ」
「だな」
「そういえば、思い出すなぁ」
ソフトクリームを食べ終えて、口を拭かれながらまつりは呟く。
「夏の時期だった。
広い裏庭にね、こっそり基地をつくったの」
「へー、どんな?」
「小さな小屋なんだけど。まぁ、子どもにできる精一杯レベル」
ぼくは、そういえばそんな遊びはあまりしなかった、と思う。
まつりは、してたのか。一人でも。
アクティブなのか、ぼくが、あまりに動かないのか。
「そこでよく、おやつを食べてた」
まつりの家は、健康管理が厳しくて、市販のお菓子はあまり食べさせてもらえなかったらしい。
ただし、いただきもの、があるときは、入手する大チャンスだったってわけで、きっと、そういうもののことを言ってるんだろう。
「まつりは、その秘密基地の場所、誰にもいわなかったから、みんな本気で知らないってことを、確認したかったんだ。わくわくしていた」
「わかるよ」
「誰も知らない場所があるって、それだけで、夢だったよ」
「そうだね」
「で、お姉ちゃんに聞いたのね、知らないと思って。『ああ、裏庭なんか知らないわよ』って、みんなの前で言ったの」
「あー……」
「なんだろ。直接言われたわけではないのに、すごく裏切られた気分になったよ。悲しくて、辛くて」
幼いまつりの夢は、無惨に砕けた。誰も知らない場所では無かったのだ。そうでなかったとしても、そう思わせておいてほしかっただろう。
「お前としては、心から黙っててもらいたかったんだよな。せめて孤独に、心の中での抱える孤独として共有したかった」
寂しさは、居心地がよかったのに。
誰にも見られない儚さは、居心地がよかったのに。
悲しさは、居心地がよかったのに。
「そうだよ! メイドさんたちまで『裏庭のことは知りません』って言うからさぁ。そのときは、ついキレちゃったの……」
あははは、とぼくが笑うと、まつりは心外そうに頬を膨らませた。
「間接的に、ばかにされてる気がしたの?」
「間接的に脅迫されてる気がした。
秘密って、誰にも、ひとことも言わないものでしょ? 具体的じゃなくても。本人にさえ気づいているとは言わないものだと思い込んでたんだけど。正直むかついたんだよ」
「まあまあ、お姉さんは、からかいたかったんだよ」
言いさえしなければいい、という考えの人もいるものだから。そこは、考えの相違なんだろう。
「夏々都までそんなこというー!」
じたばた暴れるそいつを抱き寄せる。すねたようにこちらを見上げるのが可愛くて、つい、じっと見つめてしまう。
「たくさんのメイドさんに、『裏庭は秘密にしていますからご安心ください』って、言われるたびに、日に日に苛ついて」
そういう問題じゃないんだろうなと、思った。なんにも、ひとつも聞きたくなかっただろう。
「秘密にしているという秘密を秘密にして欲しかったんだけど。なんか、聞かされるたびに夢も希望もなくなってきたよ」
「あらあら……」
まつりは、裏庭に作っていた基地をその日破壊したようだ。
未開の地、という、大きな夢を期待したのに、まるで間接的な脅迫を受け続けるみたいになってきてて、辛かったんだろうと思う。
夢が欲しかったはずなのに、期待とは違う愛情を、ひたすら押されるのが重くて、つぶれそうになっていたのだろう。
ぼくも、同じ状況にいたならパニックくらい起こしそうだと思う。
「メイドさんたちも、みんなお前が好きだっただけじゃないかな?」
そいつは何も答えず、腕の中で、ふい、と顔を背けた。
「……どーせ、これもコウカとかにネタにして話すんでしょ。きらい。あいつになんでも情報売ってさ……」
ぎく、と肩を揺らしたぼくに、まつりは呟く。
「ちなみにまつりに黙っていたって、別の筋から話入ってるんだからね? なめないでほしいよ」
まじかよ!
コウカさんに、まつりの弱味を教える耐価で、まつりが喜びそうなこととか、教えてもらっているぼくとしては、少し焦る話だった。
「話してないのに嫌わないでくれ……言わないよ」
「ほんとに?」
「うん」
頷くと、まつりは嬉しそうに笑った。そして、すっと近づいてくる。
「じゃあ」
ぼくは、ゆっくりうなずいた。
「どう、ぞ……」
少し照れながら、そばにあったベンチに腰かける。かじかじと首筋を噛まれながら、ぼんやり、天井を見上げる。食べ終えた、コーンの入ってた紙は、にぎったまま。
「……っ」
「夏々都は、なかなかこれ、させてくれない」
「なぁ。ぼくを、あまがみする癖は、いつ治るんだ?」
「なおんない」
いつのまにかパーカーをはだけさせられて、範囲を拡大され、ひたすら噛まれていると、近くを店員が、ささっと通り過ぎた。少し顔が赤い。
「まつり……! もう」
「夏々都の血の味が、する」
「ばか、はなせ」
ぺしぺしとそいつをつついていると、少ししてしぶしぶ、まつりが離れた。
「だいたいね――」
そう言いながら。
「きみと二人だけの場所のはずだったんだから!」
こちらに背を向けて歩くまつりを追う。
「大人なら。知ってたって黙ってなさいよね――」
「っ……!」
なんだか可愛いので、どんな表情をしてるか気になって歩幅を合わせようとするが、ずんずんと前へ向かうものだから、見えない。
「待って!」
「やだよーだ」
「ぼくと遊んでくれるんじゃ、ないの?」
「はぁ。きみは、ずるいよね、ほんと……」
腕を引かれて、そのまま抱き上げられる。
「うわ、離、せって!」
「いやです」
まつりはそう言うと、ぼくを抱き抱えて歩く。
……めちゃくちゃ恥ずかしい。
「おろしてよー」
「服を?」
わかっている癖にそんなことを言う。そいつはいつのまにか、頬の赤みも戻っていて、なんだかつまらない。
「ぼくを床に」
「可愛いよ」
脈絡がない。
いや。いつも、ないけど。そのまま歩いて売店にいこうとしたので、さすがに止める。
「ちょ、待て。邪魔になるから」
「えー……」
大体、なぜ、ぼくを抱えるのだろう。
不満そうな声を無視してそいつから飛び降りる。まつりは、女の子の方が好きなのだと思っていた。
今も思う。なのに、最近はぼくの扱いもそれに少し近くて、少し腹立たしい。まさかぼくを代わりにしてるんじゃないだろうな。
そう思うとなんだかむかむかして、距離を取って売店に入る。
ぬいぐるみや、ポスター、モービル、お魚のクッキー。
そこでしか変えないグッズたちが、賑やかで、楽しい店内は、すごい賑わい。
あっと言う間に人波に飲まれてしまうぼくを、まつりの指が止めた。
「……ありがと」
「ぼんやりしてたら、危ない。どうかしたの?」
聞かれて少し、本音を躊躇う。その間にまつりがぼくを置いていくので、むっとして、その服の裾を掴んだ。
「お前は、ぼくの性別とか、は、気にしないのか」
「は?」
「だって……」
うつむくと、まつりは笑った。
「きみがきみなら、他のことを気には、しないけど。もしかして、まつりが女の子の方に流れていくと?」
「……よく、会話したり、遊んでる」
「そりゃ、近いからね。デフォルトは」
居心地はそりゃあいいさ、とまつりは笑う。
「でも、近くたって――」
近くたって違うじゃないか。まつりはまつりだから。だから、だからきっと、ぼくから離れる。
少し、胸が苦しくなる。
「あのさぁ。まつりは、男でも無いからね」
「知ってる……」
「っていうか、どちらかというと、まつりは、自分より強そうな男って嫌いなんだ」
「あ。知ってた……」
お父様や、実兄を嫌い、リュージさんも嫌ってた。今は、多少は改善してるけど、まつりは基本的に、自分が圧倒的に支配できるもののみが、好きみたいだった。好みが歪んでいる。人のことは言えないけれど。
「お父様は、怒鳴り付けるわ、酔うとやかましいわ、機嫌がいいときさえ変態ジジイだから邪魔だわ」
「おう……」
さんざん言われているお父様に、多少は同情するが、まつりが嫌がるならぼくも嫌だ。
だってぼくがもっとも大事なのはまつりだけだからだ。
同感でもあった。ぼくも乱暴そうな人はいやだ。
「でも、まつりより腕力があるから、無理矢理言うこと聞かせようとする」
「いるよな、そういうの」
「トラウマなんだよね、ああやって大声やら、体力やら、力を振り回す人間。それを、男らしいとか言ってるけど。まつりは、それにすごく怖い思いをした」
「ぼくもそう思うよ」
「ふふ。ななとは、弱そうに見えても精神的には案外頼りになるし。力を振り回すような体力も無いし」
「ばかにしてないよな?」
まつりはクスクス笑ってから言う。
「んーん、尊敬しているよ。それにきみが少年だからこそ、余計に背……」
「わかった、わかったから、それ以上は言うな」
「つまり、きみをちゃんと男性として見ている」
「……そ、そう?」
それはそれで、よくわからない気分になる。
それにしたって……
(なんか恥ずかしい……)
無視して、キーホルダーのかかっている棚を見上げる。綺麗な貝殻や、魚を模した飾りがついたそれらは、見ているだけで涼しそうだ。尊敬されることって、あったのかな。よくわからない。
ぼくを置いて歩いていくまつりは、次々と目当てのものを探していく。
少しして、パジャマを見つけたようで、満面の笑みで、両腕で抱えて戻ってきた。
「えへへー!」
幸せいっぱいな表情。
見ていると、自分が着せられるというのさえ忘れて、こちらまで幸せになる。
「ぼくは、どれから着ることになるんだ?」
「帰ったら、全部着てみようか」
「……はいはい」
やがて、大きな紙袋をもらってきたようでそれに入れてもらっていた。
「かさばるだろうけど、一度ホテルに置いてくるか?」
「コインロッカーに入れたら忘れそうだものね」
でも結局荷物を持ったまま深海魚コーナーにむかう。ダイオウイカやミツクリザメは居たけど、他にお気に入りの生き物は居なかった。
コーナーを出て、ヒトデやザリガニと触れあうコーナーにいってみる。
小さい子で賑わっているのを遠巻きに見ていると、きみはいいの? と聞かれた。 ぼくは、さっき、さりげなく買っていたサメのぬいぐるみをまつりに押し付ける。
今のお金じゃ、手のひらサイズしか買えなかったけれど、いつか大きいのをあげたい。
「わぁ」
「……これ。まつりのために買った」
そいつは、目をきらきらさせて小さなジンベエザメを眺めて、かわいいねと喜ぶ。よかった。
「だいじにする」
「うん」
満面の笑みで言われて、少しドキッとした。
なんだかたのしい。薄暗い道を歩いていき、やがてパネル展示がメインの場所に来た。古代魚の化石が飾られている。
「楽しい?」
アンモナイトとか、アノマロカリスとかを見ていたら、まつりが突如聞いてきた。
「うん」
お出掛けは少し疲れるけれど、まつりが笑うのがたくさん見られるからすきだ。いつもと違う顔が見られるから。
一通り展示を見て、それからまた売店に寄り、いくつかお菓子を買ってから、満足して外に出る。
それから隣接した公園に寄った。
様々な遊具がならんでいる。
「あれが、滑り台ってやつだよね」
「もしかして、やったことない?」
ブランコなら、まつりの家の敷地に小さいのがあったが。
「こんなの、何が楽しいのかな?」
子どもが並んでる。
滑るだけの、何が、魅力なのかわからない。
目の前にあるのは、ぐるぐる、2周くらいして、地面に着く長めのものだが、大きい。
「ふふふ、やってみたら、わかるかもよ」
まつりはぼくの手をとり先へと進んでいくから、ぼくも付いていく。
少しの間待って、自分の番になった。
しゃがんで下を見たら、案外高い。うう、怖い……
やっぱりこんなの楽しくない。
帰ろうと振り向くと、まつりに口付けられた。
「ん……っう」
顔が離れたので、何するんだよ、と抗議しようとしたら、さっさといけ、と背中を押される。
慌てて体勢を整えつつ、ぼくは滑り降りる。
「わ、わわ、まつりの、鬼いぃ!」
するるるるる、と体が風を纏い、下へ進む。
全身に感じる疾走感。
「わ……」
遊具、侮れない……!
「うわぁあ」
くるくる回って、着地。ぼくは滑り台の虜になっていた。
何回か滑っていると、気付いたらまつりが居なかった。
……?
空は夕暮れで、赤くなってきている。
「別に、寂しくないけど」
さっきのは、何だったのだろう。昨日だってあんなに……。
まつりが、さんざんぼくを弄んで放置するのは珍しくないけれど、こういう知らない場所で意図してというのは無かったはず。
「全然寂しくないけど……」
勝手に胸元に付けられた跡を思い浮かべる。
かわいいね、とか、たくさん、言っていたのに。
「まあ全く寂しくないけど」
まさか迷子になっちゃったのかな。仕方ないな、探しにいこうか。ぼくは全く寂しくないんだけども、あちこち出歩くまつりのことが心配なのだった。
ポケットに入れているミニまつりさんを、取り出してぎゅっと握ってみる。微笑みを浮かべて、ぼくを見つめている。
「……ぼくは、ぜんぜん、寂しくないんだけどね」
立ち上がり、やれやれと思いながらも、遊具コーナーから離れる。
子どもの楽しげな声。
親子連れ。幸せそう。
「……っ」
胸が、痛い。
いたい、いたい。いたい。
「まつり――」
いろんな光景が、耳障りで、怖くて、不安だと思う。
「……ど、こ」
ふらふらと、おぼつかない足取りで歩き回る。
まつりは、どこなんだろう。どこだろう。
どこにいるんだ?
事件のあった、あの日にそいつが居なくて――ぼくがお屋敷に向かう頃には、あいつはボロボロになっていて。
「う、あ……」
笑っていた。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタ……
壊れてて、でも、優しくて。大好きな。
少年でも少女でもなくて――――けれど、唯一の。
辺りが真っ暗になった気がして、意識がぼんやりする。
しゃがみこんで、踞る。
『や、やだ……っ、まつり――、……あ、待ってって言って、っ……!』
「おい」
耳元に何か聞こえて、思わず低い声が出る。
振り向くと、まつりがイヤホンを付けたプレーヤーを手にして、背後でにこにこ笑っていた。
片側を、こちらに向けていたらしい。
「いやー、きみがあまりに楽しそうに滑り台で遊ぶからさぁ、もう、可愛くて可愛くて」
「なっ」
そいつは悪びれずに、そう言って、こちらに向かってくる。
「それで――なんか、止められないで見るうちにだんだん遠い存在に見えてきて寂しいから、これを取りに行ったんだ。まあ、ホテルから部下にとってきてもらったわけなのだけど」
「……そん、なの」
ぼくは、たくさん心配していたのに。
いや、途中からだが。
「そんなの、より……」
「あら。寂しかった?」
「っ……」
そいつを見上げていると、ごめんごめん、と笑って、ぼくを撫でようとして、なんだか腹が立ち、払い除ける。
「まつりは、こんなに楽しいものを、やらないのか? なんで見てるんだよ!」
ぼくだけ夢中だなんて疑問で仕方なくて、聞いてみた。
一緒に遊べばいい。
なのに、なんでわざわざ見てるんだ?
「っ――!」
まつりはなぜだか、ふわっと頬を染め、口もとを押さえて悶える。
なんなんだよ。
「滑り台楽しい?」
「そう言ってるだろ!」
いらいらしながら言うと、まつりはやはり、何か悶絶するように顔をうつむかせる。
「そっかぁ。きみは案外、こういうの好きなんだぁ……」
「案外ってなんだ」
「んーん。今度、そういうのが、もっと沢山ある公園にいこうね」
まつりは、幸せそうに笑う。それが嬉しくて、ぼくも頷く。
「最後に、まつりもやろうよ」
「うん」
手を引いて、滑り台の方に向かう。順番を待ちながら、楽しいなあと思った。