夢のまた夢では 終わらない夢
その週は、仕事も忙しくて、少しずつ神楽さんの存在が薄まっていった。

……って訳でもないか。

悲しいかな。忘れなくちゃと思えば思うほど、その記憶は鮮明になっていく。

美咲の家に今日こそは訪れることになっているけれど、あのマンションの前に立ったらきっとまた思い出すだろう。

モヤモヤした気持ちを一掃するために、美咲の家に行く前に久しぶりに囲碁サロンに向かうことにした。

全神経が研ぎ澄まして、一心に碁石のその先を見据えながら打つと、色んな煩わしいことを忘れられる。

囲碁をやり始めたのは、私の十歳の誕生日に母が碁盤と碁石を贈ってくれたことがきっかけだった。

それまでやったこともなかったし、興味もなかったけれど、手元にあると気になっちゃう性分の私は必死に独学で覚えたっけ。

そして、一人で電車に乗って囲碁サロンに週末通って、気が付いたら高校生になる頃には五段まで取得していた。

それからも、時々時間ができたり、モヤモヤすることがあればこのサロンに顔を出している。

「樹ちゃん!久しぶりだねぇ」

サロンの常連小杉さんが私を見つけるなり、奥の席から手を振った。

小杉さんは御年七十五歳。

白髪でいつも老眼を手放せないようなおじいちゃんだけど、囲碁は八段。頭も切れ切れで未だ勝たせてもらったことはない。

手招きする小杉さんに私も手を振りながら駆け寄った。

「ほら、この子がいつも話している樹ちゃん。こちらは最近このサロンに来るようになった西城さんだよ」

小杉さんは、自分の相手をしている西城さんという人を私に紹介してくれた。

西城さんは顔を上げると、一瞬目を大きく見開き、そして目じりに皺を一杯寄せて笑う。

「初めまして、西城 徹(さいじょう とおる)です。樹ちゃんは若いのに囲碁の腕前がすごいらしいね」

「いえ、それほどでも。いつも小杉さんにご指導いただいてます」

彼はうんうんと頷くと、手元の碁石を取り一手打った。

その手に視線を落とした小杉さんは「いやー」と声を上げ右手を後頭部に当てる。

「参ったな、樹ちゃんに気を取られていてやっちまった。完全にわしの負けだな」

「小杉さんが負けるなんて珍しいですね」

そう言って碁盤を覗き込むと、とても美しい碁石が並んでいて思わず釘付けになる。

たまに碁石の並びが芸術的に美しい人っていうのがいるんだよね。小杉さんと西城さんもまさにそうだった。

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