囚われのシンデレラ【完結】


 とうとうこの日が来てしまった。セルゲイ・ソコロフの個人レッスンの日だ。

 センチュリーホテル東京の、スイートルーム。肩にかかるバイオリンケースのストラップが、いつも以上に食い込んでいる気がする。ここずっと、空いた時間はすべてバイオリンに充てて来た。多分、今の時点ではこれが限界。

 大きく深呼吸をして、呼び鈴を押した。するとすぐに声がする。

「はーい」

日本語――。

そのことに少しホッとした。

「し――西園寺あずさです」
「はい、今開けますね」

女性の声だ。扉が開くと、若い日本人と思われる女性が出迎えてくれた。

「あずささん、お待ちしてました。どうぞ」
「は、はい。失礼します」

部屋へと案内される。ホテル上階にあるスイートルームは、ドアから少し行くとリビングルームのような部屋が広がっていた。グランドピアノも置かれている。
 緊張のあまりガチガチになっていると、本物のセルゲイ・ソコロフがソファに座っているのが視界に入った。

 音楽雑誌でも見たことがある。

コンサートのチラシでも。テレビの音楽番組でも――。

緊張はさらに上昇する。でも、緊張ばかりもしていられない。教えてもらう立場だ。

とりあえず英語で挨拶をして、日本の有名なお菓子を手渡す。そうしたら、英語で挨拶は返って来たけれど、その後の会話は違う言語になった。

「―――」

多分、ロシア語――。

全然分からない――と焦っていたら、この部屋にいた女性が私に声を掛けた。

「先生が、あずささんのご主人にはお世話になっていますと。厳しくレッスンするようにと言われているので、甘い言葉はなくレッスンします。とのことです」
「は、はいっ」

西園寺さん、そんなことを――。

「挨拶が遅れました。私、木藤瞳(きとうひとみ)と言います。ソコロフ先生の音楽院時代の門下で、今は、演奏活動をしたり講師をしたり、先生の助手をしたりしています。あずささんのレッスンには基本的に私も一緒について、ロシア語の通訳をしますね。それから、先生は超多忙なので、そう頻繁にレッスンをするわけにはいきません。その間は、私がみさせていただきます。よろしくお願いします」

木藤さんが私に軽く頭を下げた。サバサバとした喋り方で、すらりとした素敵な女性だった。

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」

勢いよく頭を下げると、木藤さんがくすりと笑った。

「私の実力については安心してください。これでも一応、音楽院は主席で卒業しているし、国際コンクールも本選までは行っているので。あと、私へのレッスン代も破格の値段をお支払いいただいてますから、あずささんは何の遠慮もせず私をしっかり利用してくださいね。講師は使い倒してなんぼですよ!」

それから、早速レッスンが始まった。

 先生から、なんでもいいから一番得意なものを弾くように言われ、バイオリンを構える。

 ソコロフ先生が、一人掛けのソファで脚を組んで座っている。その隣には、木藤さんが立っていた。人前で弾くのは7年ぶりだ。震えそうになる身体を押し殺し、弓をはじく。演奏したのは、クライスラー作曲の『愛の悲しみ』だ。かつて、サロンコンサートで弾いた中の一曲。

”止めて”

弾き始めて少しも経たないうちに、先生に止められる。

”君の今の実力はよく分かった”

そう通訳された言葉は、ソコロフ先生の表情を見れば、それがどんな意味を持つかすぐに分かった。
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