囚われのシンデレラ【完結】


 四月の中旬を過ぎた春の日。私がモスクワへと旅立つ日がやってきた。

 母に別れを告げ、マンションのエントランスを出る。歩道へと出て、横断歩道を待っていた。

「あずさ……っ!」

背後から呼び止める声がして振り返る。

「……柊ちゃん」

その顔を見るのはいつ以来だろう。とても、遠い昔のような気がする。

「間に合って良かった。おばさんから、おまえがモスクワに留学するって聞いて。それで慌てて来たんだ」

青信号を見送り、柊ちゃんに向き合った。

「おまえに合わせる顔はないって、思ってた。もう、俺のしたこと全部知ってるんだろ?」

その問いに頷く。

「俺を殴ってもいい。罵ってもいい。真正面からは向き合えなかったくせに、裏で姑息な真似をして苦しめた。それで、今回も結局離婚することになったって……。俺、それ聞いて、どれだけ自分が酷いことをしたのか、今更実感したりして――」
「柊ちゃんは、私のこと好き? 本当に好きだった……?」

柊ちゃんの言葉を遮ぎるように静かに聞いた。

「え……っ。そ、それは、もちろん本当だ。そうでなければ、あんなことしたりしない」
「本当にそうかな」

子供の頃から近くにいた。それなのに、私は何も気付かなかった。友達としてだとしても、大切な人に変わりなかったはずなのに。

「最近、よく考える。人を好きになるって、根底は自分のことばかりなのかもしれない。自分を好きになってほしい、自分のことだけを選んでほしい、誰にも渡したくない……その中心にいるのは全部自分で。私もそうだったと思う。だけど、その先にあるものを知った気がするんだ」

"好きだから一緒にいたい"
その先にあるもの。

「私がそれを知ることが出来たのは、西園寺さんだったから」

私にとって、心から好きになった特別な人。これまでも、これからも。

「あずさ……」

柊ちゃんの目が微かに歪む。

「だから、柊ちゃんも。この先、本当に好きな人に出会った時、私だけじゃなく西園寺さんも苦しめたこと、ほんの少しでいいから思い出して」

その時に、自分のしたことの本当の意味を理解するのかもしれない。

「……ふっ」

柊ちゃんが、突然笑い出した。

「俺、どうしようもないな。
あの人に対して俺が負けているのは、あの人の持っているものに対してだと思っていた。生まれとか、金とか、容姿とか。だからこそ、あずさを想う気持ちだけなら絶対に負けないって思っていた。でも、最初から、何もかもあの人には敵わなかったんだ」

真顔になって私を見る。

「何より一番敵わなかったのは、あの人のあずさに対する愛情だったのにな。俺には真似できないし、それに、離婚して別れたにも関わらず、おまえにそんな風に言わせることが出来るなんてすげーよ。どんだけだよって、笑っちまうくらい敵わない」

少しも笑いもせずに、柊ちゃんはそう言った。

「それなのに、俺なんかが二人の邪魔をした。おまえの人生を狂わせた。本当に悪かった」

深く頭を下げるその姿からゆっくりと視線を前へと戻した。

「私、誰のせいにもしないように生きていきたいから。自分で決めた道を行こうと思う」

信号が青に変わる。

「あずさ……っ」

柊ちゃんの声を背中に受ける。

「頑張れよ! おばさんのことは、うちの母親が気にかけて見てるから大丈夫だ。心置きなく勉強して来い」
「……ありがとう。よろしくお願いします」

振り向き柊ちゃんに頭を下げ、再び前を見た。

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