殺すように、愛して。
 聞こえていた音が一度止み、でも、黛の存在は耳からも、空気からも感じていた。すぐそこに、いる。扉を挟んだ向こう側に、黛はいる。高揚感に気持ちが急いで、イヤホンが外れないよう探るようにスマホに手を伸ばした俺は、ネクタイで目隠しをしたまま手探りで床を触って身を引きずった。四つに這った。扉の前を目指す。頭の中は黛一色で、自ら視覚を奪っていることも相俟って、現実から乖離していくようだった。それに妙な心地よさを感じていた。自分で目隠しをして彼の前に姿を現し、その状態のままたくさん触ってもらいたい、酷いこともしてもらいたいと思ってしまう俺は、ASMRのように声や音、言葉に過敏に反応し、気持ちよくなってしまう俺は、所謂マゾヒストなのだと、今頃になって、やけにすんなりと腑に落ちた。そういう嗜好があると思っていても、その言葉を使うのは自然と避けていた。マゾヒスト。オメガ。サディスト。アルファ。もうそれだけで、危険な匂いがする。から、避けていた。

 一つの音が、二重に響く。部屋の空気が変わり、動き、揺れて。重くなる。甘ったるい匂い。しばらくお預けを食らわされていた匂い。まだ、言葉を発さない黛が、俺の目の前に立って、俺を見下ろす、ような、そんな雰囲気を感じた。まゆずみ、と息を吐き、足でもいいから、彼に触ろうと手をあちこちに動かす。触れない。掠らない。届かない。自分が思っているよりも、黛は離れた所にいるのかもしれなくて。まゆずみ、まゆずみ、ともどかしくなってしまった俺は、目を隠すネクタイに無意識に触れてしまいそうになった。と、その時。言葉もなく、前触れもなく、いきなり、手を、弾かれた。いや、弾くというよりも、蹴飛ばされるような勢いだった。思わぬ衝撃に反応が遅れ、まゆずみ、と言い終える前に、今度は左肩を乱暴に押される。いや、違う。これもまた、蹴飛ばされるような衝撃だった。一回。二回。受け身が取れずに、床に仰向けに押さえつけられる。手ではなく、足で。足だった。なんとなく足だと思った。瀬那、と呼ぶ声が、微妙に遠かったから。遠くても、イヤホンから聞こえる声と重なって、力が抜けそうなほどの心地よさを感じ、あ、と喘ぐような声が漏れてしまった。
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