90日のシンデレラ
 「あ、その、慣れなくて……緊張もしていて、気が付きませんでした。ごめんなさい」
 「謝ることないよ。そういうところが、いかにも真紘らしくって、いい」
 「…………」
 「じゃあ早速、実践ってことで、呼んでみてよ。瑠樹って」

 また別の意味で、ぱぁあっと真紘の頬に朱が差す。
 こんな公衆の面前で、カレシといってもできたばかりのカレシの名を、まだ呼び捨てにできない。

 「ここで、ですか?」
 「うん、ここで」
 「社宅まで、待てません?」
 「うん、待てない」

 渋る真紘に、ニコニコ顔で瑠樹が要望する。
 真正面からそのスマイルを受け止めてしまえば心臓が爆発するから、真紘は視線を瑠樹の後ろ側に泳がせた。
 真紘の視界の片隅に入るは、初夏の日差しに茶色の髪が輝く瑠樹である。悪戯を仕掛ける子供のような瞳をして、今か今かとカレシは待っている。
 物腰は柔らかく、満面の笑みの瑠樹であるが、真紘は今までの経験から知っている。ここで真紘が「瑠樹」と呼ばなければ、彼はここから一歩も動かない。梃子(てこ)でも動かない。

 「…………」
 「真紘」

 再度催促されて、根負けする。「えい、ままよ!」と、真紘は声を絞り出した。

 「瑠樹、さん」
 「うん、何? 真紘、きこえない」

 そんな訳、ないだろう。そう突っ込みたくなるが、ぐっと真紘は堪える。
 ここには、わかりやすい嘘をついて真紘を困らせるカレシがいるばかりだ。

 「瑠樹さん」

 恥ずかしさを抑え込んで、今度は少し大きな声。さっきよりかは大きな声でいえたと、真紘は思う。

 「うーん、きこえなーい」
 「もう、勘弁してください」

 今まで経験したことのないシチュエーションであれば、真紘はただただ恥ずかしい。そんな小さく縮こまる真紘をみて、瑠樹は朗らかに笑うのだった。
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