蒼く恋しく

始まりの放課後

   GW明けの学校の昼休みの教室では、お弁当を食べながらGWの思い出話しに花を咲かせていた。 その教室の廊下側の右から二列目の後ろから二番目の席で河口夏音《なつね》は親友の滝川茜と机を向い合わせにしてご飯を食べていた。

 夏音と茜は一昨年と去年同じクラスで、誕生日が近いので、入学当初の席順が前と後ろだった。二人の仲が良くなったのは、大人気のファンタジー映画のストラップを夏音がカバンに付けてるのを茜が気付き、話しかけたのが切っ掛けだった。茜もその映画の大ファンであり、二人は映画の話しで大いに盛り上がった。

 明るく溌剌としている茜と控え目でおっとりしている夏音。性格こそ正反対の二人だったが、不思議と馬が合い、何をするにも一緒に行動するようになった。ほどなくして夏音と茜は親友と呼べる間柄になった。今年はクラスが別々になってしまったが、お昼は一緒に過ごしていた。茜には別の高校に通っている彼氏がいて、そんな茜の彼氏とのGWの思い出話しを夏音は聞いていたが、あまり集中して聞いてはなかった。

 時折、前の方の窓際で話している五人組の男子達に目を向ける。五人組もGWの話しで盛り上がっていた。その中で中心となって会話を盛り上げている一人の男子に夏音は視線を向けた。

 その視線に気づいたかのように藤沢健吾も夏音の方に視線を向けてきた。一瞬、目が合ったものの、夏音は恥ずかしくて慌てて視線を逸らした。

 もう一度視線を向ける。健吾は話しに夢中でこっちに視線を向けることは無かった。

 不意に声が聞こえてきた。

 「ねぇ、夏音聞いてる」

 「え?」

 茜の方に目を向ける。

 「さっきから心ここにあらずって感じだけど、どうかした?」

 「ううん。何でもないよ。ちょっとぼーっとしてただけだよ」 

 夏音は誤魔化した。

 しかし、茜にはお見通しのようで「さっきから窓際の方をチラチラ見てるけど、何を見てたのかな」とニヤニヤしながら聞いてくる。

 「な、何って天気を見てただけだよ」 

 更に誤魔化す。

 「カーテン閉まってるのに?」

 「あ・・・」

 恥ずかしさのあまり俯いてしまう。

 「そんなに気になるなら、話しかけたら良いのに」

 「話しかけるなんて、藤沢君に迷惑だよ」

 「誰も藤沢だなんて言ってないんだけどな~」

 茜はますますニヤつく。

 「い、今のは違うよ」

 夏音は顔を真っ赤にして否定する。

 「何が違うのかな?」

 茜はなおもからかうのやめない。趣味と言ったら語弊があるが、何でも素直に顔に出る夏音が可愛くて、ついつい意地悪をしたくなっしまうのだった。

 「もう止めてよ。怒るよ」

 夏音は唇を嚙み顔を横に向ける。

 「ごめんごめん。大体、話しかけられるのが迷惑な訳ないじゃん」

 そう言うと、先程までのニヤついた顔を引っ込めた茜は少し身を乗り出して、小声で「本当は藤沢と仲良くなりたいんでしょ」と聞いた。

 夏音は少しの間を置いて、真っ直ぐ目を見据えて小さく頷いた。

 「でも、藤沢君は私なんかを相手にしてくれないよ」

 「そんなことないって前にも言ったでしょ」

 「でも・・・」

 「私はいつも部活で藤沢と一緒にいるから分かるけど、藤沢はそんな冷たい男じゃない  

  し、何より夏音は可愛いから、むしろ嬉しく思うって」

 「私より可愛い子なんてこの学校にたくさんいるよ」

 「いないよ」

 茜は強く否定した。そして続けた。

 「この学校の女子を見たけど、夏音の可愛さは中身も含めて圧倒的だっていつも言ってるでしょ。だから、夏音と仲良くなりたい男子はたくさんいるよ。ただ、夏音が大人しいから話しかけづらくなってるのよ」

 実際、夏音は入学当初から男子の間で評判を呼んでいた。

 茜も初めて夏音と会った時、こんなに可愛い子がいるなんてと驚いた。モデルのようにスラッとした体型。顔は小さく、目は大きく黒目がち。鼻は高く、本人は気にしているそうだが、少し鉤鼻になっている所がまた可愛い。さぞ、自分の可愛さに鼻に掛けてきたのだろうと思っていたが、少し会話しただけで、そんなことはないとすぐに分かった。

 顔と同じくらい性格も可愛いかった。そんな女子は漫画や小説にしかいないと思っていた。そんな素敵女子が自分の後ろの席に座っていて、しかも趣味が合い親友になれたのである。だから、夏音には誰よりも幸せになってもらいたかった。

 仲良くなってからと言うものの、夏音の噂話を何度も耳にしたり、何人からは紹介してほしいと話しを受けたが、その全て断っていた。夏音をチャラいだけの奴らなんかに紹介したくなかったし、夏音がそんなことを好まない事も理解していた。そもそも、恋愛そのもに興味が無いのではと薄々思っていた。

 だから、夏音から藤沢の事が気になっていると聞いた時は驚きを隠せなかった。と同時に、自分の事をあまり話さない夏音が、そうゆうことを打ち明けてくれたことが茜には凄く嬉しかった。それからと言うものの、茜は夏音と健吾が仲良くなれるようにあの手この手を尽くしたが、消極的な夏音は「私と藤沢君は釣り合わないよ」と言い、健吾を遠くから見つめているばかりだった。

 ただ、夏音がそうしてしまうのも無理はなかった。健吾もまた女子の間で評判を呼んでいた。スマートなハンサムで、バスケをやっているだけあり背も高かった。加えて性格も優しく勉強も出来る。絵に書いたような学園の貴公子である。

 当然、女子がほっとくはずもなく、校内のほとんどの女子が彼のファンであると公言している。今は健吾に彼女はいないが、出来ればその彼女は大変だろうなと想像がついた。下手な相手と付き合えば陰湿ないじめを受ける可能性もある。女の嫉妬の怖さはよく知っているつもりだ。夏音はいじめられることはないだろうが、好奇の目に晒されるのは間違いない。少し気の弱い夏音にそれが耐えられのか心配だった。それでも、茜は夏音に健吾と付き合ってほしかった。

 だからこそ、同じクラスになれた今年はチャンスだと考えていた。

 「せっかく同じクラスになれたんだから、もっと積極的にならなきゃ」

 茜は先程と同様に声を潜めた。周りの誰かに聞かれて根も葉もない噂を流されては困るからだ。

 「そうだけど・・・・・・」

 「それとも何?他に気になる人でもいるの?」

 「いないよ!」

 思わず声が大きくなり、周りの何人かが夏音達の方に目を向けた。その中に健吾もいたことに気付いた夏音はまた顔を下に向けてしまう。

 その時、茜の頭に妙案が浮かんだ。と言うより、何故今の今まで気付かなかったのだろ

うかと自分を叱咤した。茜は夏音が顔を上げるのと同時に切り出した。

 「今日の放課後は藤沢と一緒に帰って、駅の近くに出来たカフェに行こうよ」

 「え?」

 あまりにも突飛な話しに目を丸くする。

 「もちろん、二人きりでね」

 突然すぎる提案に夏音の思考は一瞬停止してしまった。ややあって、夏音は言葉を絞り出した。

 「な、何を言ってるの?」

 「何って夏音が喜ぶこと」

 茜はさも当たり前のように言う。

 「喜んでなんか・・・・・・」

 「嫌なの?」

 「嫌とかじゃなくて。一緒に帰るのすら無理なのにカフェなんてもっと無理だよ。第一、他の女の子達に何て言われるか」

 「カフェに行くくらい何ともないって。私も行ったことあるし」

 「茜はバスケ部で一緒だから」

 「藤沢と帰るの嫌なの?」

 「嫌なわけないよ」

 「じゃぁ、いいじゃん。行こうよ。藤沢は私が上手く誘うから」

 「でも・・・・・・」

 夏音は戸惑いを隠せない。

 ここまで来ればもう一押しだと茜は思った。

 「藤沢のこと好きなんでしょ」

「好きっていうか、気になっているだけだよ」

「なら、好きになるために少しでも近づかないと。彼モテるからすぐにでも彼女出来ちゃうよ」

 その手の話しを聞くと、夏音の胸にモヤモヤが広がる。

 「藤沢君は今日部活でしょ。どっちにしろ一緒に帰れないよ」

 「大丈夫。今日はバスケ部休みよ。だから思い付いたのよ。ね、だから帰ってみようよ」

 夏音がまだ何か言いかけようとした時、昼休みを終えるチャイムが鳴った。各々が弁当をしまい席を元に戻し始めた。健吾の周りにいた友人達も立ち上がり、教室を出て自分のクラスに戻っていく。

 「よし。藤沢が一人になった。夏音行くよ」

 茜は勢いよく立ち上がる。夏音も仕方なしに立ち上がった。茜が健吾の席へと向かうの見て急に怖気付き「ねぇ、やっぱり止めようよ」と茜の制服の袖を引っ張る。夏音の制止を無視し、茜は夏音の手を引っ張り健吾の元へと行き声をかけた。

 「藤沢。ちょっといい」

 「何?」

 健吾は座ったまま二人の方に体を向ける。チラッと夏音に目を向ける。夏音は茜の後ろに隠れるように立っていた。すかさず、茜が切り出した。

 「今日部活休みでしょ。だから、帰りに駅の近くに新しく出来たカフェに行こうと思ってるんだけど、藤沢も一緒に行かない?」

 「カフェ?そんなの出来たんだ」

健吾はあまり興味なそうに言った。

 「そう。GWの少し前くらいに。知らなかった?」

 「あまり寄り道しないから」

 「タピオカの店なんだけど嫌い?」

 「好きってわけでもないけど飲めるよ」

 「良かった。なら、行こうよ」

 「えーと・・・・・・」

 「予定があるなら無理にとは言わないけど」

 「特に予定があるわけじゃないけど、その、河口も一緒に行くの?」

 急に名前を呼ばれてドキリとするが、今の言葉を聞いてやっぱり自分と行きたくないのだろうと思いガッカリする。

 そんな夏音の気持ちを察したのか「何?夏音がいると問題でもあるの?」と茜の声が鋭くなった。

 「いや、まさか。違うよ」

 茜の怒りを敏感に感じ取った健吾は慌てて否定した。

 そして少し言いにくそうに「ほら、いつも立花といるから」と言った。

 「ああ。そんなこと気にしなくて大丈夫よ。今日、涼一学校に来てないし」

 「そうなんだ。じゃぁ、河口も一緒に行けるんだね」

 健吾は嬉しそうな口調で言い、期待を込めた目で夏音を見た。健吾に聞かれて断れるはずもなく「うん」と頷いた。

 健吾はニコッと笑った。その笑顔を見た夏音の顔が真っ赤になる。何か言いたいのに言葉が出ない。

 「じゃぁ、決まりね。帰りのHRが終わったら、校門の所に集合ね」

 茜がその場を締めた。

 「分かった。また後で」

 健吾は茜と夏音に手を振った。

 茜は手を振り返した。夏音も振り返そうとしたが、ぎこちなく手を挙げるだけになってしまった。それを見た健吾はニコリと笑い、授業の準備に取り掛かった。

 その場から離れた夏音と茜は廊下に出た。

 「やったね夏音!一緒に帰れるよ」

 茜がはしゃいだ。

 「あれじゃ藤沢君も行かないなんて言えないよ」

 「何言ってるの。夏音も行くって分かった時の藤沢の顔見たでしょ。藤沢も夏音と一緒に帰りたいって思ってたって事じゃん」

 茜の思いがけない言葉に胸が夏音の高鳴った。

 「後は二人きりの状況にしないとね」

 「本当に二人で行くの?」

 「そうよ」

 「藤沢君は三人で行くと思ってるから、良いよって言ってくれたんじゃないかな」

 「さっきの会話で私は三人でなんて言ってないよ」

 「あんな聞かれ方したら、誰だって三人でって思うよ」

 「まぁそうかもだけど、二人きりなら行かないなんて、絶対に言わないから安心しなって」

 茜は夏音の肩を叩いた。

 「何を話して良いか分かんないよ」

 「帰りまでに考えておけばいいじゃない」

 「例えば?」

 「例えば、いつも応援してることとか」

 「そんなこと話せるわけないでしょ」

 「なら、後は自分で考えなさい」

 茜は少し突き放した。

 「ほんとに茜は行ってくれないの」

 夏音は上目遣いですがった。

 「行かない。今回は夏音の為でもあるんだから」

 茜は毅然と言った。

 夏音は少し恨めしげに茜を見つめた。

 「とにかく、無理に会話をしなくてもいいの。いつも通りの夏音でいればいいのよ。分かった?」

 茜は先程と打って変わって優しい口調で諭した。

 「分かった。わがままばかり言ってごめんね」

 「別に良いよ。怖いって気持ちも解るし。もう戻るね。また後で」

 茜はウインクをして自分のクラスに戻っていった。

 茜は教室に戻りながらこんな事を考えていた。さっきは危なかった。上目ですがってくる夏音があまりにも可愛いくて、思わず付いていくと言いそうになってしまった。計算じゃなくて天然で出てくる所が恐ろしい。あれを藤沢の前でやればイチコロなのにと苦笑する。それにしても、夏音と幼馴染みの涼一は大変ねと今日は来ていない涼一に勝手に同情した。

 茜を見送った夏音は教室に入り、茜がさっきまで使っていた机を元に戻してから、自分の席に座った。次の授業の用意をしながらも、頭の中は先程のやり取りが反芻されていた。

 健吾と一緒に帰れる事が現実とは思えず、夢の中にいるんじゃないかと思い、軽く腕をつねってみた。腕に軽い痛みが走った。夢じゃない事が分かると、急激に期待と不安。緊張と高揚が入り混じった感情が生まれた。それは授業が始まっても消えることは無かった。

 夏音が健吾を意識し始めたのは去年の夏頃だった。切っ掛けは茜の誘いで、バスケ部の試合を観戦しに行った時だった。決してスポーツ好きと言うわけではなかったが、バスケだけは好きだった。高校では部活に入らなかったが、中学の時はバスケ部に所属していた。たまには試合を観るのも良いかなと思い、誘いに乗ることにした。その時までは特に健吾の事を意識したことは無かった。

 健吾の事は入学時から有名だったことに加えて、バスケ部のマネージャーになった茜からプレー振りを聞いていたので、クラスは違うが夏音も顔と名前は知っていた。確かにカッコイイと思ったが、関わりがあると言ったら、廊下ですれ違う時や茜と一緒にいるときに二人が挨拶を交わしたり部活の話しをしてるのを後ろで見てるくらいしかなかった。

 そして試合当日。その時の健吾のプレーを今でも鮮明に覚えていた。一年生ながら堂々とチームを引っ張る姿や、華麗なドリブルからのダンクシュート。一つ一つのプレーが華やかで夏音のみならず周囲の客も健吾のプレーに酔いしれていた。

 何より、夏音の心を動かしたのは、健吾が誰よりも楽しそうにバスケをしていたことだった。仲間がミスをしたらすぐに声を掛けて励まし、良いプレーをしたら誰よりも笑顔でハイタッチを交わす姿を見ている内に夏音の胸にこみ上げるものがあった。それが何なのかその時は気付かなかったけれど、気が付けば試合の40分間、夏音は健吾のことを目で追っていた。残念ながら試合には負けてしまったけれど、健吾のプレーが目に焼き付いて離れなかった。

 それ以来、学校でも健吾を目で追うようになった。下校中、自分の前を歩く健吾を見つけた時は、わざとゆっくり歩き友達とはしゃぐ健吾の姿を見つめたものだ。ただ、その度に茜や涼一に歩くのが遅いと怒れた。

 それからバスケ部の試合観戦も増えた。予定が空いている日は、練習試合でも観に行った。ただ練習試合だと健吾が出場しないこともあった。それはそれで試合を楽しんでいたが、つまらなさも少し感じていた。やはり、健吾のプレーを観ている時が一番楽しかった。健吾の存在が他校にも知れ渡るレベルになり、観戦する人も増えていった。特に女子は日を追うごとに増えていった。

 そうなれば、当然の如く健吾の彼女の座を射止める熾烈なアピール合戦が始まった。しかし当の健吾は、群がってくる女子達を華麗にいなし、バスケの練習に打ち込んでいた。

 夏音自身は特にアプローチすることはなかった。元々、人見知りが激しくコミュ力が全くない夏音に高嶺の花である健吾にアプローチすることは不可能だった。思い切って茜に相談したら驚かれた。そして、凄い嬉しそうに紹介しようかと言ってくれたが、断った。自分でも好きなのか解らなかったからだ。健吾とどうなりたいと言う気持ちも無かったし、自分なんか相手にしないと思い込んでいた。

 そんな夏音にとって、健吾と一緒に帰るのは小さくも大きな夢だった。もちろん、気心が知れた茜や涼一と一緒に帰るのに不満なんて無かった。しかし、心のどこかでは一度で良いから、健吾と一緒に帰りたいと思っていた。そして今日、その夢が叶うかと思うと、授業に集中出来るはずもなく、健吾の嬉しそうな顔を思い出しては幸福な気持ちに浸っては我に返るの繰り返しだった。



 午後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。同時に夏音の胸も高鳴った。     

 これから帰りのHRを経て下校となる。普段なら、茜と涼一が夏音の教室に来るか、夏音が二人の教室に行くかのどちらかだったが今日は健吾と帰るので違った。帰りのHRが近づくににつれて、緊張は高まっていた。担任の教師が教室に入ってきて帰りのHRが始まった。いつもよりHRが長く感じる。健吾と帰ることで頭が一杯で、担任の話す連絡事項は夏音の耳には一切届いてなかった。

 担任が気を付けて帰るようにと言ってHRが終わった。各々がカバンを持ち始めて帰り始めた。夏音は教科書をカバンにしまいながら、健吾の様子を伺う。健吾は帰り支度を終えて、椅子から立ち上がった。すると、教室の前方の扉から三人組が入ってきて、健吾の元へと行き話しかけた。健吾がその三人組と二言三言交わすと、三人組は夏音の方に顔を向けてニヤっと笑った。夏音はスッと目を逸らした。三人組は健吾と別れ、教室から出ていった。出ていく際、夏音の方にチラチラ目を向けてきた。夏音はムッとしたが、帰る相手が相手なので仕方ないと思うことにした。

 「河口」

 いつの間にか健吾が横に立っていた。

 「あっ・・・・・・」

 「ボーっとしてたけど、どうかした?」

 「ううん。何でもないよ」

 「そうか。あのさ悪いんだけど、先に校門に行って待っててくれない?」

 「どうしたの?」

 「バスケ部の顧問に呼ばれて、職員室に行かないといけなくなっちゃって。そんなに時間は掛からないと思うからさ」

 「そうゆうことなら、先に行って茜と待ってるね」

 「ごめん。出来るだけ短くしてもらうように頼むから」

 健吾は顔の前で手刀を切った。

 「大事な話しかもしれないし、時間は気にしないで。長引きそうなら、茜に連絡してくれれば良いから」

 「ありがとう。河口は優しいな」

 「そんな・・・・・・」

 面と向かって言われ、夏音の顔はまたしても真っ赤に染まった。

 「顔が真っ赤だけど、熱でもあるの?」

 健吾は心配そうに聞いた。

 「な、何もないよ。大丈夫」

 指摘されるとこの上なく恥ずかしかった。

 「ほら、早く行かないと。先生待ってるんでしょ?」

 「確かに。あ、後、滝川にも謝っておいて。必ず行くから、怒らないでくれとも伝えておいて。さっきも怒られそになったし」

 今の一言で健吾が茜を苦手にしている事が分かった。多分、日頃から叱られているのだろう。茜は自分が認めた男にはとことん厳しくするタイプだった。思わず、茜に叱られて困ったような顔をしている健吾を想像してしまい、夏音はクスクス笑った。

 「おい、笑うなよ」

 そう言う健吾も笑みを浮かべている。

 「ごめんね。茜のことは任せて。ちゃんと宥めておくから」

 「頼んだよ。それじゃ、俺は職員室に向かうから」

 「うん」

 健吾は足早に教室を出た。健吾を見送った夏音はふーっと息を吐いた。先ほどまでの緊張が嘘みたいに消えていた。こんなにもスムーズに会話が出来るとは思ってもなかった。いつもなら口数が少なくなり、まともに会話なんて出来はしないのに。少し自信が湧き、一緒に帰るのが待ち遠しくなった。夏音は足取り軽やかに校門へと向かった。



校門に向かうと、茜が既に待機していた。茜はスマホをいじりながら、校門に背を預けている。

 「お待たせ」

 声をかけて茜の隣に立った。

 「夏音。あれ?藤沢は?」

 「バスケ部の顧問顧問に呼ばれて、職員室に行ってるよ。だから、少し遅れるって」

 「そっか。てっきり、一緒に来ると思ってたのに残念」

 「何が残念なの?」

 「ううん。別に」

 「また何か企んでたの?」

 「企んでなんかないわよ。それより、藤沢は遅くなりそうね」

 茜は話題を変えた。

 「すぐに来るって言ってたけど」

 「すぐは無理ね。佐竹の話しは長いから、少なくとも20分は掛かるはずよ」

 バスケ部の顧問である佐竹は、悪い教師ではないのだがやたらと話しが長いので、生徒から少し面倒くさがられていた。茜は少しイラついた態度を見せたのもそのせいである。

 「遅くなっても怒らないであげてね」

 夏音は健吾に頼まれた通りに茜を宥めた。

 「別に怒りはしないわよ。ちょっと文句は言うかもだけど」

 「それもダメ。別に藤沢君が悪いわけじゃないんだから」

 「藤沢の奴に何か言われたみたいね。私がすぐに怒るとかなんとかって」

 「そ、そんなこと言われてないよ」

 「本当かなぁ?」

 「本当だもん」

 別に嘘をつく必要はないのだが、二人で会話をしたことをからかわれるのが癪だった。

 「だもんって夏音・・・・・・可愛いすぎるんだけど」

 「え?だもんって普通に言わない?」

 「まぁ良いわ。可愛い夏音に免じて何も言わない」

 不思議そうな顔をしていた夏音だが、茜の言葉に満足げに頷いた。

 それから二人は他愛のない会話をしながら健吾を待っていた。GWの話しの続きや進路のこと。そして、いつもなら一緒に帰る涼一のこと。

 「そう言えば、何で涼一は休んだの?」

 茜が聞いた。

 「何かGW延長するって言ってた」

 「涼一らしいわ」

 茜は呆れて見せた。

「まぁバイトでもしてると思うよ」

 「夏音は涼一に怒らないの?」

 涼一が良い奴なのは茜も分かっているし、友達だと思っている。茜は根が真面目で、学校にしろ部活にしろサボったことなど一度も無かった。だから、しょっちゅう学校をサボる涼一に対して憤りを感じていた。ただ、言った所で言うことを聞くわけないとことは百も承知だった。夏音はなら涼一を何とか出来るのではないかと思っているのだが、当の夏音は涼一のやることに関して一切口を出さなかった。

 「怒らないよ。怒っても無駄だもん。涼に口で勝つなんて無理よ」

夏音は涼一のことを略して涼と呼ぶ。この呼び方を出来るのは夏音しかいない。

 「心配じゃないの?」

 「心配?」

 「涼一のこと」

 「全然」

 夏音は即答した。

 「でも、このままじゃ退学になるかもよ」

 「涼なら大丈夫だよ。退学にしたくたって、こんなに成績の良い生徒を退学にするわけがないって言ってたし」

 「困った自信家ね」

 茜はまた呆れた。

 「ほんとにね。あの自信を少しでも分けて欲しいくらい」

 茜は楽しそうに話す夏音を横目で見た。本当に楽しそうな顔をしている。幼馴染みが学校に来なければ心配するのが普通だ。しかし、夏音の表情や口調には微塵も心配してる様子は見られない。10年以上も一緒にいる涼一のことを心から信頼しているからだろう。

 茜はずっと前から二人がお互いの事をどう思っているのか、聞きたくてしょうがなかった。しかし、聞けずじまいだった。聞けば、今の二人の関係が壊れてしまう気がしたからだ。お互いの心に強い絆があるのに、曖昧で不確かな関係でもある夏音と涼一。そんな二人の仲が夏音と健吾が上手くいくことでどうなってしまうのだろうと心配もしていた。だから、健吾のことで応援しつつも、常に涼一の存在がチラついていた。今日は勢いに任せて二人が一緒に帰るように仕組んだが、果たして、これで良いのだろうかと悩んでいた。

 「あっ。藤沢君来たよ」

不意に夏音の声が聞こえた。

 「あ、うん」

 茜は健吾の方に目を向けた。

 「思いの外早く済んだのね」

 「隣に誰かいるよ」

 こちらに来る健吾の隣をピタリとくっつくように女の子が歩いていた。茜はその姿を見て嫌な予感がした。

 「ごめん。お待たせ」

 健吾が謝った。

 「意外に早かったじゃん」

 「大した話しじゃなかったから。余計な話しはされたけど、ずっとしかめっ面してたらすぐに解放してくれたよ」

 「それは良いんだけど・・・・・・」

 夏音と茜の視線はさっきから健吾の隣にいる女子に向けられていた。二人の視線を受けた女子が二人を見つめ返す。その顔にはどこか勝ち誇ったような表情が浮かんでいた。

 「何で永瀬さんがいるの?」

 茜の口調にははっきりと不機嫌さが込められていた。

 「あら?居ちゃダメなの?」

 永瀬えりかは全く気にすることもなく平然と答えた。

 「これはどうゆうことなのか説明してくれるかしら?」

 茜はえりかを無視し、矛先を健吾に向けた。どんどん口調が歪んできていた。

 「その、話しが終わって職員室を出て廊下を歩いてたら、永瀬に声をかけられて、部活はないのって聞かれたから、無いからこれから河口達とタピオカ飲みに行くって言ったら、私も行きたいって言われたから、良いよってなって一緒にここまで来たんだ」

 「そう・・・・・・」

 茜は唸るように言った。怒りが煮えたぎっているのは明白だった。しかし、健吾は気付く風もない。

 「で、でも、大勢の方が楽しいし、良いじゃない」

 茜の怒り具合を察した夏音は健吾をフォローした。夏音も少し残念に思っていたが、口が裂けても健吾と二人きりが良いとは言えない。

 「河口もそう思うよね」

 健吾も同調した。本当に悪気はないのだろう。

 「まぁいいわ。どっちにしろ私は用事が出来て行けなくなったから。三人で楽しんできて」

 「えっ。滝川は行かないの?」

 「そう。行きたいけど、どうしても外せない用が出来ちゃって。私から誘ったのにごめんね」

 「そっか。それは残念だな」

 健吾は心底残念そうな顔をした。茜は何だか申し訳なってきた。

 「ねぇ、こんな所でお喋りしてないで、早く行きましょう」

 痺れを切らしたえりかがさっさと歩き始めた。

「おい。ちょっと待てよ」

 健吾が追いかける。

 茜はえりかに食って掛かろうしたが、夏音が腕を掴んで何とか止めさせた。

 二人も歩き始め健吾達に追いつき四人は横に並んだ。

 駅に着くまでの間、茜は夏音とえりかは健吾とだけ喋っていた。夏音は健吾と喋れなかったが、隣を歩いているだけで幸せな気分になっていた。

 「じゃあな、滝川。気を付けて」

 健吾は手を振った。

 「ありがとう」

 茜も振り返した。

 「さようなら」

 えりかが言った。

 「さようなら」

 茜はえりかの目も見ずに答えた。

 「あ、二人とも先に行ってて。夏音と少し話してから帰るから」

 茜は健吾とえりかを促した。

 「分かった」

 健吾とえりかはカフェに向かって歩いて行った。

 「全く。藤沢は鈍いんだから」

 二人の姿が見えなくなった途端に茜がぼやいた。

 「藤沢君は良かれと思ってのことだから、あんまり機嫌を悪くしないで」

 夏音はあくまで健吾の肩を持つ。夏音自身どこか二人きりじゃないことに安心していた。

 「とにかく、あんな女に負けちゃダメよ」

 夏音の手を強く握った。

 「茜・・・・・・」

 夏音の目に不安がありありと浮かんだ。どう考えてもえりかが主導権を握っている様子しか想像出来なかった。

 「そんな顔しないで。夏音なら大丈夫だって。昼にも言ったけど、自然体で良いの。無理に良く見せようなんて思っちゃダメよ」

 「・・・・・・」

 夏音は何も言わずに、無言で茜に訴えかえた。

 「さ、そろそろ行って。楽しんできてね」

 これ以上は耐えられないと思った茜は、夏音の肩を掴んで振り向かせて背中を押した。

 「う、うん。じゃぁ、また明日ね」

 押されるがままに夏音は歩き出した。途中で振り向いて茜に手を振った。茜も笑顔で振り返した。

 「頑張ってね」

 茜は小声でエールを送った。

 夏音を姿が見えなくなるまで見送り、駅に向かった。改札を抜けてホームで電車を待った。10分ほど待つと電車がやってきた。茜は電車に乗り空いてる席に座った。普段は六つ先の清水橋駅で降りる。そこが茜の最寄りだった。しかし、今日はその三つ手前の浪花なみばな駅で降りた。ここは夏音と涼一が住んでいる街だった。

 電車を降りて階段を下る。北口の改札を抜け外へ出た。目の前にはバスのロータリーが半円状に広がっている。茜はロータリーに添って右に歩いていく。横断歩道を渡り商店街に入った。商店街をひたすら真っ直ぐ抜けていくと、住宅街に出た。茜は迷うことなく住宅街に入った。似たようなマンションやら一軒家が建ち並らんでいるので、最初の頃はよく迷っていた。今は勝手知たたる街のようにスイスイ進んでいけた。10分ほど歩るくと、お目当ての店に着いた。その店は閑静な住宅街にひっそりと佇んでいる。看板にはひらがなで「あしゅまろ」と書かれている。名前こそふざけているが、ここら辺では名店と名を馳せている喫茶店だった。

茜は店の前までやってきてドキッした。店の扉の前にクローズの看板が出ていたからだ。茜は首を捻った。あしゅまろの定休日は第二、第四の木曜日で今日なはずがないからだ。茜は窓から店内を覗いてみた。誰かいるのが見えた。よく見ると二人居て、カウンターの中で作業をしていた。若い男女の二人組で二人とも見知った姿だった。女性の方が男性に声をかけ、更衣室のある扉の向こうへと消えた。それを確認するとクローズの看板を無視して、扉を開けて店内に入った。扉を開けた際にカランカランと鳴った。カウンターで作業していた男性が顔を上げた。その顔には不信感が漂っていたが、茜と分かると驚いた顔に変わった。

 「よっ。涼一」

 茜は右手を挙げた。

 この男が立花涼一だった。健吾と二分する学校のイケメン。健吾と同じく背が高く顔も小さい。目だけは健吾と違い大きくはないが、切れ長目の瞳がクールで知的な印象を与えている。健吾がアイドルなら涼一はモデルと言った感じか。聞くところによると、あしゅまろには涼一目当ての女性客が後を絶たないらしい。確かに見た目だけだけしか判断材料が無いなら、茜自身も追っかけしていたことだろうと自覚していた。それくらいにずば抜けてハンサムだった。

 「札が見えなかったのか?」

 低く良く通る声だ。

 「んー何のこと?」

 「全く。今度からひらがなで書いておかないとダメなようだな」

 涼一は呆れつつ皮肉を飛ばした。

 「ちょっとどうゆう意味よ」

茜が噛みつく。

「そのまんまだ」

「まぁいいわ。いちいち突っかかってたらキリがないし。それより今日も学校サボって働いてたんでしょ」

茜は咎めるような口調でいった。

 「本当は働くつもりはなかったけどな。マスターにどうしてもって頼まれてね。まぁ頼まれてなくても学校には行くつもりはなかったけど。それにしても働いてるってよく分かったな」

 「さっき電話かけたけど、出ないし折り返しもないから、働いてるって思ってここに来たの。ビンゴだったみたいね」

 「へぇ。珍しく頭を働かせたじゃないか」

 「うるさい」

 「あれ?なつか彼氏は?」

 なつとは夏音のことである。幼馴染みの涼一は夏音のことをそう呼んでいる。涼一以外にそう呼べる人間はいない。

 「祐介は部活。夏音は今日はちょっと別行動なの」

 「ふーん。とりあえず座れば?」

 「うん。ありがとう」

 茜はカウンターの椅子に座った。

 「何か飲む?」

 「えっいいの?」

 「急に頼んだお詫びに好きなもの食べても飲んでも良いって言われてるから奢ってやるよ」

 「さすが涼一。特製メロンクリームソーダが飲みたい」

 「了解」

 涼一は後ろの冷蔵庫からシロップと炭酸水を取り出し、慣れた手つきで作り始めた。

 「ところで、今日マスターは?なんで閉まるのが早いの?」

 茜は矢継ぎ早に質問を浴びせた。

 「今日は奥かなえさんと記念日のデートだって。ただ、スッカリ忘れてたみたいで泣いて俺に頼んできたんだよ。急な頼みだったから、俺と沙織さんしか出勤出来る人が見つからなくて、それに沙織さんが16時までしか働けないから、早じまいすることになったってわけ」

涼一は淀みなく答えた。

 「マスターらしい。何の記念日だったのかな」

 「確か婚約記念日だったかな。かなえさんが何でも記念日にしたがるから覚えるのが大変だって言ってたな」

 「それでもちゃんと予定を空ける辺りマスターは本当に素敵な旦那さんね」

 「そうだな。はい、お待たせ」

 「ありがとう。今日は暑いからこれが飲みたかったんだよね」

 茜は一口啜りそれからアイスを食べた。

 「やっぱりここのメロンクリームソーダは最高だわ」

 あしゅまろの特製メロンクリームソーダは乗っているアイスとサクランボが特に美味しいと評判だった。サクランボに目がない夏音も大好物で、ここで飲んだら他の店では飲めないと本気で思っていた。

 「それにしても一人で来るなんて珍しいな。何かあったのか?」

 涼一は洗い物をしながら聞いた。

 「あーまぁ何て言えばいいかな」

 茜は急に歯切れが悪くなった。

 「何だ二人のどちらかと喧嘩でもしたのか?なつと喧嘩したなら仲直りするのは簡単だ。ここのサクランボを詰めた箱を持っていけば大抵のことは許してくれる」

 「あの夏音を怒らせたことあるんだ」

 「小さい頃にね。俺がなつのメロンクリームソーダのサクランボを食べたら、涼一とは二度と口なんかきかないって拗ねた。許してくれるまで一週間以上かかったな」

 「何そのほのぼのエピソード。てか、夏音可愛いすぎるんだけど。アドバイスはありがたいけど、二人とは喧嘩はしてないわよ」

 「違うのか。なら、なつの男絡みか」

 茜は咽てしまった。

 「どうやら正解のようだな」

 「何で分かったの?」

 茜は驚きを隠せない。

 「茜がここに一人で来た時点で大体読めたさ。例えあしゅまろでも茜が喫茶店に一人で行かないのは知ってる。なのに、一人で来たということはよっぽどな理由があったと推察出来る。俺に電話をしたと言ってたからあしゅまろではなく俺に用があるのも分かる。茜が俺に用がある時はそのほとんどがなつのことだ。そして、わざわざあしゅまろまで来て用があるとしたら、男絡みしかない。その歯切れの悪さは俺に何か悪いと思ってることがあるからだろ」

 「さすが天才」

 茜は拍手した。淀みない口調で淡々と話す涼一が何だか名探偵に見えた。

 「これくらい誰にでも分かる」

 涼一は顔をしかめた。天才と呼ばれるのが嫌いなのだ。しかし、茜が天才と言ってしまうのも無理はなかった。実際、涼一は天才だった。その気になれば全国トップの高校に余裕で入り一番を取れる学力を備えていた。それなのにも関わらず、茜達と同じ平均的な偏差値の高校に通っていた。涼一本人は近いからそこにしたと言っているが、本心は別にあると茜は確信していた。

 涼一は学力が高いだけではなく、洞察力や観察力が半端なく鋭かった。人の心を読む事に長けていて、嘘や芝居が全く通用しない。以前にあしゅまろで茜の彼氏である祐介を含めた四人でトランプの大富豪をやったことがあるが、涼一が強すぎて誰も歯が立たなかった。そんなことは序の口で、涼一の頭の良いエピソードには枚挙に暇がない。夏音に至っては涼一より頭の良い人間に会ってみたいとすら言っている。

 そんな涼一は高校始まっての最高の天才児と呼ばれた。しかし一方で問題児でもあった。問題児と言ってもヤンキーのような不良ではなかった。学校に来ないことは日常茶飯事で、校則で禁止されているバイトもやっている。それでも停学や退学にならないのは涼一の成績が断トツトップだからだ。加えて、教師陣より頭が良いので、下手に涼一に絡むとやり込められ恥をかかされるものだから教師達は黙認する他なかった。こうして最初は期待を寄せていた教師達も次第に涼一を腫れ物扱いするようになっていた。教師達と同様に夏音達の一部の生徒以外も涼一とは絡まない姿勢を取った。と言うより、絡みたくても絡めないが正しい。涼一は一部の仲の良い人間以外には一ミリ足りとも興味を示さないからだ。憧れている女子もたくさんいるのは知っているが、誰一人として涼一に興味を持たれた女子は居ない。むしろ、プライドをボロボロにされた女子が大多数だ。いくらイケメンでもそんなことばかりをすれば嫌われていく。ただ、生徒の大半から嫌われている教師を負かしたことで一部の生徒の間ではカリスマ的人気も誇っていた。

 義務教育ではない高校とは言えこれだけ学校をサボっていたら親にも当然学校から連絡がいく。だが、涼一の両親は何も言わない。余程のことをしない限りは口を出さないそうだ。それだけ涼一の信頼は厚いと言うことだった。

 「それでなつは誰とデートしているんだ」

 洗い物が終わった涼一はカウンターに両手を付いた。これは涼一の話を聞く準備が整ったという合図だ。

 「誰だと思う?」

 これは分からないだろうと高を括った。

 「そうやって聞くと言うことは、お相手は我が校が誇るスターの藤沢健吾君か」

 「だから、何で分かるの?」

 涼一の頭の良さは知っているが、さすがに怖い。

 「これも消去法だよ。まずどんなにイケメンでも、なつが見知らぬ男に付いていくわけがない。茜がそんなことを許すはずもないしね。そして、同じ高校の男が相手だったら、茜が一緒に付いていくはずだ。なのに、茜が一緒に行かなかったのは、その男になつが好意を持っていて尚且つなつに相応しい男だと思っている相手しかいない。そんな男は高校に一人しかいない」

 「参りました」

 茜はカウンターに額を付けた。

 「しかし、あのなつが二人きりとはね。何も話せずに終わると思うが」

 涼一は夏音が慌てふためいてる姿を想像し、思わず苦笑した。

 「涼一は夏音が藤沢のことを好きって気づいてたの?」

 あえて好きと言う言葉を使ったのは涼一がどんな反応を示すのか見るためだった。学校の勉強はあまり出来ないが、こうゆうことに関しては妙に頭が回った。

 「十年以上も一緒にいるんだ。すぐに分かったよ。なつは分かりやすいからな。まぁ、俺には好きと言うより好きかどうか見定めてるって感じに見えたけどね」

 何の反応も読み取れなかった。それどころか夏音の心を完璧に見抜いていたことに、茜はただただ感心するばかりだった。夏音が涼一を信頼してる理由はこうした心を読む機微に長けているからだと思った。

 「ほんと涼一は凄いね。私は打ち明けられるまで分かんなかった」

 「十年以上も一緒に居ればな」

 「分かり過ぎて困ることもあるんだけどな」

 涼一はボソリと呟いた。

 「え?」

 「いや、何でもない。それより俺に何の用だよ。まさかなつがデートしてるってことだけを報告しに来た訳じゃないだろ」

 「うん。まぁね。実は・・・・・・」

 茜が話し始めようとすると、事務所のドアが開き先程の女性が出てきた。出てきたのは鈴原沙織。髪はストレートで茶髪。長身で抜群のスタイルを誇り、透き通るような白い肌をしている。可愛いと言うより美しいと言う表現がピッタリな女性だ。沙織はあしゅまろの近くに住んでいる女子大学生だった。

 「涼一君。お疲れ様。あれ?あなたは確か涼一君の友達の・・・・・・」

 沙織が茜に気づき声をかけた。

 「あ。滝川茜です」

 声が裏返ってしまった。

 「そうだ。茜ちゃんだ。もう一人が夏音ちゃんだよね」

 「はい。そうです」

 あまり人見知りしない茜も沙織の前では緊張してしまい、続く言葉が出てこなかった。

 一瞬の沈黙が二人の間に流れた。

 「沙織さん。今日はありがとうございました」

 涼一がすかさず割って入った。

 「いいえ。涼一君こそお疲れ様」

 沙織は微笑んだ。

 「このあと一緒にお茶でも行きたかったのですか、またの機会を楽しみにしています」

 涼一は頭を下げた。

 「あら、そうだったの。それは残念ね。涼一君のお誘いならいつでも受けるから言って」

 沙織は悠然と受け答えた。

 「では、近日中にでも」

 「バカね。本気にしないで」

 沙織はクスクス笑った。

 「お気をつけて」

 「ありがとう。またね。茜ちゃん」

 沙織は涼一と茜に手を振って店を後にした。

 「はぁー緊張した」

 茜はカウンターにへたり込んだ。

 「どうしてそんなに緊張するんだよ」

 「だって、沙織さん凄い綺麗だから近寄りがたい人なんだよね。それよりも今の会話は何なの?いつの間にナンパ師になったの?」

 涼一は肩をすくめるだけで何も言わなかった。

 「何なら沙織さんとデートに行ってきてもいいよ」

 「バカなことを言ってないで、さっさとと話してもらおうか」

 涼一は茜の冗談に取り合わず話しを促した。

 「あーうん。そだね」

 茜はメロンクリームソーダを一口飲んだ。

 「そもそも、どうしてなつは藤沢と二人で帰ることにしたんだ?なつの性格上、いきなり二人きりなんて無理だろう。藤沢が誘ったとも思えないし」

 「まぁ、さっきからデートデートって言ってるけど、本当はそうじゃないんだよね」

 茜は昼休みの出来事を話した。

 「やっぱり、そんな所だろうとは思ってたよ」

 「それだけじゃないの」

 続けて茜は校門での出来事を話した。

 「じゃぁ、なつと藤沢と永瀬の三人でカフェに行ってるわけか」

 「あーもう永瀬が来るなんて思ってもなかった。何なのあの女。本当に嫌な奴」

 茜はひとしきり不満をぶちまけた後に涼一の顔を見た。涼一は腕を組んで、何やら思案気な顔をしていた。

 「夏音に嫌われたらどうしよう。良かれと思って提案したのに一緒に行かないなんて見捨てたようなもんだし、絶対私のこと恨んでるよ」

 茜は泣きたくなってきた。

 「それはないから安心しろ」

 黙って聞いていた涼一が口を開いた。

 「そうかな」

 「なつはそんなことで友達を恨むような女じゃない。そんなことは茜が一番分かっているだろ」

 叱るような口調で言った。

 「そうだよね。ごめん。少しナーバスになりすぎてた」

 親に叱られた感じがして、少し体が小さくなった。

「なつは茜の気持ちをちゃんと汲み取ってる。ただ、なつは真面目すぎる嫌いがあるから、自分のことを責めるかもしれない」

 涼一の口調は穏やかになっていた。

 「どうゆうこと?」

 「藤沢の前で何も出来なかった自分を責めて、茜に申し訳ないと思ったり、やっぱり自分はダメだって落ち込んで藤沢のことを諦めてしまうかもしれない」

 「それってマズイじゃん。私のせいなのに」

 「なつは自分で背負ってしまうタイプだから。だから、茜のせいには絶対にしない。俺も茜のせいだとは思わない」

 「なら、誰のせいよ」

 「誰のせいでもない。強いて言うなら、なつ自身の問題だろう。それに、案外上手くいってるかもしれないじゃないか」

 「永瀬がいるのに?」

 茜は疑問の表情を浮かべた。

 「永瀬がいるからとは考えないのか?」

 「無理よ。だって、邪魔しにきたとしか思えない」

 「そうか」

 涼一は口元に笑みを浮かべて呟いた。

 「それで涼一にお願いがあるの」

 「今からそのカフェに行くのはごめんだね」

 「違うわよ。夏音が落ち込んでいたら、励ましてほしいの。後、私のことを恨んでないかさりげなく聞いてきてほしい」

 「何で俺が?茜がこのあと励ましてあげれば良いだろ。それに恨まれてないって何度も言わせるな」

 「そうだとしても今日は会わせる顔がないよ」

 茜は嘆願した。

 「大体、落ち込んでるかも分からないのに、どうしろって言うんだ」

 「そこは連絡すれば良いじゃん」

 「落ち込んでるのかって?なつのことだから落ち込んでないよって言うに決まってる。そもそも、どうして知っているんだって話しになる」

 「じゃぁ、夏音が落ち込んだ時にいつも行く神社で待ってなよ」

 「いつ来るか分らない上に、来ないかもしれないのに?」

 「どうせ暇でしょ」

 「失礼な奴だな」

 「ね。ね。この通りお願い。夏音が落ち込んだ時に頼りになるのは涼一だけなの」

 茜は両手を合わせて拝んだ。

 「分かった分かった。気が向いたら待ってるよ」

 涼一は困ったように後頭部を掻いた。

 その様子を見て茜は顔を輝かせた。後頭部を掻くのは嬉しく思っている証拠だと夏音に教えてもらったからだ。憎まれ口を叩きながらも、何だかんだで頼られると嬉しがるのが、涼一の可愛い所だ。

 「ありがとう涼一。大好き」

 「はいはい。じゃぁ、着替えてくるから、飲み終わったグラスは自分で洗って棚に戻しておけよ」

 涼一は事務所へと消えた。

 茜はメロンクリームソーダを飲み干し、カウンターの向こうへと入り、グラスを洗い始めた。涼一は素っ気ない態度を貫いているが、涼一が夏音のことを誰よりも心配していることを茜には分かっていた。だから、必ず涼一が励ましてくれると信じていた。

 洗い終わったグラスを棚にしまった。座っていた席に戻り涼一が着替えて出てくるのを待った。柱に掛かっている古い時計を見た。針は16時30分を指していた。ほどなくして涼一が着替えて出てきた。白シャツにGパンと言う至ってシンプルな恰好だったが、素晴らしく似合っていた。

 「さて、帰るか」

 「うん」

 二人はあしゅまろを出た。すると、涼一が「携帯忘れたから、ちょっと待ってて」と言って、あしゅまろに戻っていった。ものの一分で戻て来て、二人は駅に向かって歩きだした。

 二人は駅に着くまでの間はなつの話しはせずにもっぱらGWの話しをした。ほとんど、茜ののろけ話しだったが、涼一は口を挟むことなく、ただ黙って聞いていた。

 「今日はごめんね」

 駅での別れ際に唐突に言った。

 「何に対して謝ってるんだ?」

 「いやまぁ、よくよく考えたら、押しかけた上に結構なわがままを言っちゃったなぁって」

 「ようやく気付いてくれたか。まぁ、別に気にしない。祐介が日頃から受けてるわがままに比べたら・・・おっと口が滑った」

 「祐介が何ですって?」

 茜の目がみるみる尖り出した。

 「まぁまぁそう怒るなって。祐介は別に嫌だとか言ってるわけじゃないから」

 「全く。祐介もやつ要らんことばかり言うんだから」

 茜はブツクサと文句を言った。

 「たまには祐介のわがままも聞いてあげるんだな」

 「冗談じゃないわ。夜にでも電話してとっちめてやるわ」

 「あまりいじめてやるなよ」

 「手加減無用よ」

 「これじゃ祐介を励ますのが先になりそうだな」

 涼一は小さくため息をついた。

 「そんなことより夏音のこと頼んだわよ。明日、学校で聞くからね」

 「分かったから。早く行けよ」

 涼一は煩わしそうに手を振った。

 素直じゃないんだからと茜は思ったが口にはしなかった。

 「バイバイ涼一。明日は学校に来なさいよ」

 「それこそ気が向いたらな」

 最後まで素直じゃない涼一に背を向けて、茜は改札を抜けて速足でホームに向かった。その背中を見えなくなるまで見送った涼一は駅の南口から出て、近くにある駐輪場へと向かい止めてあった自転車を取りに行った。涼一は自転車に乗らずに手で押しながら、夏音はどうしていただろうと思いを巡らせた。恐らく、永瀬に俺との関係を聞かれて慌てふためいたりしていたと思った。その様子を見て藤沢は何て思っただろうか。何よりも夏音は藤沢のことを好きになるだろうか。夏音が藤沢のことを気になっていると気付いた時から、そのことばかりを気にしていた。そして、どうしようもなく暗い気持ちになっている自分がいた。涼一はその暗い気持ちを振り払うように自転車に乗ってグングンとスピードを上げた。



 時は少し遡る。夏音達三人がカフェに入ってから一時間程経過していた。

 「ねぇ、河口さんって立花君と付き合ってるの?」

 えりかから急に飛んできた質問に夏音はおもいっきりむせた。カフェに入ってから、えりかの独壇場だった。時折、質問されたりと話しには加わっていたが、健吾とまともに話すことは出来なかった。かと言って、一人で先に帰ると言い出せる勇気はなく、黙って聞く他なかった。さすがに嫌気がさしてきてもう帰りたいと思っていた矢先の質問だった。

 「つ、付き合ってないよ」

 夏音は慌てて否定する。

 「ほんとー?学年の皆が噂してるよ」

 学年の皆ということは健吾もその噂を知っているのかと思ったら恥ずかしくなった。

 「本当に付き合ってないよ。涼はただの幼馴染みだから」

 「でも、そうゆのが一番怪しいのよね」

 尚も疑いをかけるえりかに少しの苛立ちを覚えた。

 「永瀬やめろよ。本人がここまで言ってるんだから違うんだろ」

 えりかは健吾に一瞥をくれた。

 「そうね。でも、立花君はそうは思ってないかもよ」

 「どうゆう意味?」

 隣の健吾も眉間に眉を寄せている。

 「立花君は自分が河口さんの彼氏だと思ってるってことよ」

 一瞬、えりかが何を言ってるのか分からなかった。意味を理解した時には自然に「まさか・・・・・・」と言っていた。

 あの涼がそんな勘違いをしているはずがない。有り得ないにも程がある。

 「だって、あなたたちいつも一緒にいるじゃない。立花君がそう勘違いしててもおかしくないわ」

 「確かに一緒にいることが多いけど、それは10年以上も一緒だから、それが自然になっているだけで、別に何かあるわけでもないよ。それに涼は別のことで頭が一杯だから私になんて興味ないよ」

 「あら、河口さんは立花君に興味あるのね」

 「そんなこと言ってないでしょ」

 夏音はほとほと嫌になってきた。

 「なら、立花君に興味ないのね?」

 「・・・・・・ないよ」

 「そう。だって藤沢君良かったわね」

 「えっ」

 それまで黙って成り行きを見守っていた健吾は急に話しを振られたので戸惑った。

 「河口さんは立花君に興味ないんだって。それなら、二人が付き合えば良いじゃない。とってもお似合いだし」

 えりかは笑顔で爆弾を言い放った。

 「いや・・・それは・・・」

 健吾はしどろもどろになっている。かく言う夏音も言葉が出ず、急激に喉が渇いたのでカップに手を伸ばした。「それもう空っぽよ」えりかの指摘に顔が赤くなった。えりかは楽しそうに二人の様子を眺めている。夏音は仕方なくそばにあった水を飲もうと左手を伸ばしたが、掴み損ねて倒してしまった。たっぷり入っていた水は運悪く健吾の方へと向かっていき、机からこぼれて健吾の制服のズボンと夏音のカバンをみるみると濡らした。

 「冷たっ」

 健吾は弾けるように立った。

 「あ、ごめんなさい。ごめんなさい」

 夏音は動揺のあまりどうしたらいいのか分からず謝罪を繰り返す。

 「はいこれ」

 えりかがハンカチを健吾に渡した。健吾は礼を言って濡れたズボンを拭き始めた。事態に気付いた店員が乾いたタオルを持ってきてくれた。健吾は丁寧にお礼を言ってタオルを受け取り一枚を夏音に渡した。カバンを拭いたらということだろう。夏音はカバンを拭きながら、何も出来なかった自分を恥じた。それと、二人きりじゃないことに安心したことを後悔した。こんなことになるなら二人きりの方がマシだと思えた。

 「ほんとにごめんね」

 夏音は謝った。

 「大丈夫。今日は暑いから丁度良いかもね」

 健吾は夏音を一切責めずに健気に庇う。その優しさに申し訳なさが膨らむ。

 「ありがとう永瀬。洗って返そうか」

 「それくらい別に良いわよ」

 えりかはハンカチを受け取りカバンにしまった。

 「そろそろ帰ろうか」

 健吾が言った。

 「そうね。制服も早く洗濯しなきゃならないものね」

 えりかが皮肉る。夏音はムッとしたが何も言い返せなかった。

 「永瀬。そうゆう言い方するなよ。俺はそんなつもりで言った訳じゃない」

 健吾が食って掛かった。

 「そんな突っかかからないで。ほんの冗談よ。さ、行きましょう」

 えりかは立ち上がりカバンを肩に掛けスタスタと先に行ってしまった。

 健吾はまだ何か言いたそうな顔をしていたが言葉を飲み込み素直に続いた。夏音もその後に続く。三人はカフェから駅に向かうまでの三分間無言だった。

 「じゃぁ、私はバスで帰るから」

 えりかが言った。

 えりかが一緒じゃなくなることで夏音は少し気が楽になった。

 「じゃぁな」

 健吾は不機嫌だった。

 「さようなら」

 えりかと別れた二人はホームへと向かった。二人の間にはぎこちない空気が漂っていた。その空気に耐えかねたように健吾が口を開いた。

 「さっきはごめん」

 「え?」

 健吾に謝るのは自分の方で謝られる覚えはない。

 「ほら、さっき永瀬が早く洗濯しなきゃって言って、それで気を悪くしたかなっと思って」

 「そんな、汚れたのは私のせいだし、私の方こそ藤沢君が気を悪くしてたらどうしようって心配してたから。クリーニングに出したら私が払うから言ってね」

 健吾は目を丸くした。そして、大きく笑った。

 「水で濡れたくらいでクリーニングに出さないよ。仮に出したとしてもそんなもの要求しないって」

 健吾が笑ったことで二人の空気は和やかなになった。

 下り方面の電車が来る放送が流れた。健吾と夏音は路線は同じだが、健吾は上りで夏音は下りだった。程なくして下りの電車がホームに滑り込んだ。ドアが開きスーツ姿のサラリーマンが大量に降りてきた。

 「ほら、乗り遅れるよ。今日のことは気にしなくていいから。じゃぁね。また明日学校でね」

 えりかの時とはうって変わって爽やかな口調で夏音に別れを告げた。

 「ありがとう。またね」

 今の夏音にはこれだけ言うのが精一杯だった。ドアが閉まり電車がゆっくりと動き出す。健吾が手を振っていた。夏音は控え目に振り返した。健吾のニッコリと笑った顔が段々と遠くなっていった。

夢だった健吾との放課後を過ごした夏音だったが、嬉しさよりも疲労の方が勝っていた。それがえりかのせいなのは言うまでもない。”立花君はそうは思ってないかもよ”というえりかの言葉が頭によぎる。あそこまで無神経な発言をされるとは思わなかった。否定したものの、健吾がどう思ったのか心配になった。動揺して水をこぼしたことも自己嫌悪に拍車をかけた。気にしなくていいと言ってくれたが、どうしても気にしてしまう。嫌われたどうしようとますます不安になってきた。

 それに、せっかくのチャンスをフイにしたことを考えると、この場をお膳立てしてくれた茜に会わせる顔がなかった。夏音は暗い気持ちを抱えたまま電車を降りた。

 改札を抜け南口の駐輪場に向かう。自分の白い自転車を見つけて跨った。一刻も早く行きたい場所があったので、夏音はいつも漕いでるスピードの二倍くらいの速さで進んだ。街のシンボルである蓮菜川に架かっているを大橋を渡って住宅街に入っていく。この住宅街の一角に夏音と涼一の家があった。しかし、夏音は家に向かうことなく、そのまま住宅街を抜けた。住宅街を抜けて少し進むと急な上り坂が待ち構えていた。中々の急斜面なので老人はおろかそれなりに体力のある若者でも自転車を降りて上らざるをえない。バスケで鍛えられた夏音は上り切れなくはないが、上り切る頃にはかなり息も乱れていた。

 坂を上り切りそのまま直進すると、そこには寂しい雰囲気のアパートが群れをなすように建ち並んでいた。その奥に鬱蒼と生い茂る木々が見える。一見森にしか見えないが、そこは神社であった。名前は花織神社と言う。地元の人間しか知らない中規模の神社だった。夏音が小さい頃によく鬼ごっこやかくれんぼをして遊んでいた神社だった。神社を遊び場にするなど罰当たりな行為にも映るが、当時の優しい神主さんは一切怒ることなく、いつも穏やかな笑顔で夏音達の様子を楽しそうに眺めていた。神主さん曰く「子供の笑顔を奪う方が余程罰当たり」と言って神社に届いていた苦情は全て無視していた。

 そんな優しさ神主も数年前に亡くなってしまった。それから幽霊神社と言う噂が流れめっきり人が来なくなった。もっとも、ホラーに滅法強い夏音は気にすることはなかったし、その噂を広めた人物は涼一だということを知っていたので怖がる理由がまるでなかった。人が来なくなったことを良いことに、落ち込んだ時や一人になりたい時は決まってここに来るようにしていた。自転車を適当な場所に停めて正面に回り込む。石の階段を登る。結構な数の階段でお年寄りには大変だろうなと毎回思う。階段を登るとそこには何の変哲もない神社の風景が広がっていた。目の前に赤い鳥居が佇むように立っている。奥には本堂が悠然と構えていて、左手には清めの水場がチョロチョロと音を立てている。そして右手にのちょっとした高台には鐘つき堂があった。

 夏音は迷うことなく鐘つき堂の方へ歩き始めた。神社の中は静寂そのもので砂利を踏む度に小気味良い音が静寂を破った。鐘つき堂から少し離れたまた少し高い所に小さな離れみたいなものがある。離れの中に入ることは出来ないが、縁側は付いていて、そこは今でも自由に座ることが出来た。実はそこからだと街の景色が一望出来るようになっており、知られざる景観スポットになっていた。小さい頃はよくその縁側に座り神主さんがくれたお菓子を食べながら景色を眺めるのが楽しみの一つだった。大きくなった今も大のお気に入りなのでいつもそこに座る。

 夏音が縁側に着くと。既に先客がいた。

 「涼・・・・・・」

 夏音は驚いて立ち止まった。涼一がゆっくりと夏音に顔を向けた。

 「よぉ」

 「どうしてここに?」

 「良いから座れよ」

 涼一は質問には答えず、夏音に座るように促した。夏音は大人しく涼一の右隣に座った。カフェで健吾の右隣に座った時は無意識にカバンを挟んだが、涼一の隣に座る時は何も挟むことなく座った。このカバン一つの距離が夏音が涼一に対して心を許しているという何よりの証だった。

 「ほら」

 涼一はジュースを寄越した。

 「ありがとう」

 夏音は受け取ったものの、蓋を開けずに傍に置いた。そして、顔を下に向けた。

 夏音は下を向いたまま黙っていたが、涼一は何も聞かない。素知らぬ振りをしてジュースを飲んでいた。いつもそうだった。涼一は決して自分から聞かず、夏音が話し始めるのをただ待っている。いざ夏音が話し始めるとほとんど口を挟むことなく、ジッと聞き役に徹していた。そして、口を開けば的確なアドバイスをくれる。そういった所も夏音の信頼を得ている要因の一つだった。

 「何でここにいるの?」

 先程と同じ質問をした。

 「あしゅまろで働いてたら、なつのことが大好きな小うるさい猫が店に入ってきて、ここに行けと泣くは喚くはうるさくて仕方なくな」

 涼一の答えに夏音は笑った。今のでどうゆうことか理解した。茜が涼一に今日のことを話して、私が落ち込んでないか様子を見てくるように頼んだのだろう。仕方なくと言いながらもジュースまで買って待っててくれたことに夏音の気持ちは少し晴れた。

 「ありがとう」

 今度は涼一の目を見て言った。

 「まぁどうせ暇だったからな」

 涼一は顔を逸らした。

 夏音は貰ったジュースを一口飲んでから、ポツポツとカフェでの出来事を話し始めた。変にややこしくしたくなかったので、えりかが言ったことは伏せておいた。話している間なまた気持ちが暗くなった。

 「やっぱり嫌われたかな」

 つい弱音を吐いた。すると、黙って聞いていた涼一が口を開いた。

 「嫌われるだろうな」

 意外な言葉に夏音はショックを受けた。

 「なつがこのまま今のことを気にしてたらな」

 「えっ」

 夏音は顔を上げて涼一の方を見た。

 「水をこぼすなんて誰にだってあるし、第一そんなことでいちいち人を嫌いになっていたら、誰も友達になんてなってくれない」

 「それはそうだけど」

 涼一の言ってることは分かっているのだが、いざ当事者になると、申し訳なさが勝ってしまう。

 「なつに一つ質問。もし今回の出来事が逆の立場だったらどうする?」

 「逆の立場?」

 涼一の質問の意図が読めない。

 「つまり、藤沢が水をこぼしてなつの服にかかったとして、なつは藤沢のことを許さずに嫌いになるのか?」

 「そんなわけ無いじゃない」

 夏音は即答した。

 「そうだよな。なら、藤沢も同じようにそう思ってるって考えられないか?」

 夏音はハッとなった。

 「なつは何事も悪く捉えすぎる。別に藤沢の前で完璧でいる必要なんて無いだろ」

 涼一の言葉に心が一気に軽くなった。

 「藤沢は明日もなつと話したいと思ってるし、仲良くなりたいと思ってるはずさ。それなのに、なつがいつまでもその事を気にしてたら藤沢の方も気を遣って話しかけられなくなる。それがお互い嫌だろう」

 涼一の言葉が心に沁みていく。そして、さっきまでの暗い気持ちが泡となって消えていった。

 「ああ。それと、茜がなつに恨まれてないか心配してたぜ」

 「茜が?どうして?」

 「自分が仕組んだのに、一緒に行けなかった事をひどく後悔してたみたい」

 「そんなの気にしなくていいのに。むしろ、盛大に失敗して会わせる顔がないって思ってたくらいだから」

 「だと思ったよ。さり気無く聞いて後でコッソリ教えてとか言われたけど、明日なつの口から気にしてないって言ってやれ。それが一番安心するから」

 「分かった。涼も大変だったね」

 夏音はクスクス笑った。

 「お陰様で疲れたよ」

 涼一はそう言って手を後ろについた。

 「私も」

 夏音も同じ態勢を取った。

 二人の目には夕焼けに染まった赤い空が映った。

 「奇麗だな」

 涼一が呟くように言った。

 「そうね」

 二人は暫しの間無言で夕陽を眺めた。

 「なつ」

 不意に涼一が呼び掛けた。

 「なぁに?」

 「藤沢のこと好きか?」

 驚いて涼一の方を見た。涼一はただ空を見ている。

 思いがけない質問に驚いたが、夏音は別れ際の健吾の笑顔を思い浮かべた。眩しい笑顔に胸が熱くなった。今まで傷つきたくなくて逃げていたけど、この気持ちはそうゆうことなんだろうと思った。

 夏音はやがて「うん」と言った。

 「・・・・・・そうか」

 涼一は静かに言った。

 夏音は横目で涼一を見た。その瞳が潤んでるように見えた。

 「涼」

 「ん?」

 涼一は夏音の方に目だけ向けた。

 夏音はえりかが言ってたことを聞こうと思ったが、思い直してやめた。やっぱりあまりにも馬鹿げていると思ったからだ。

 「ごめん。何でもない」

 「なんだよ」

 涼一は肩をすくめた。

 「さてと、そろそろ帰るか」

 「うん」

 二人は神社を後にした。



 「歩いてきたの?」

 夏音は少し呆れながら言った。

 「自転車で来たら、居るのがバレると思ってな。だから、帰りは二人乗りで帰るぞ」

 そう言うと、涼一はなつの自転車に跨った。

 「もう」

 夏音は後ろに横向きに座った。腰に手を回しそうになって慌てて手をとめて、涼一が着ているシャツを軽く掴んだ。

 「そんな掴まり方で落ちないか?」

 「大丈夫」

 涼一が漕ぎ始めた。滑り出しこそ不安定だったが、すぐに安定させ速すぎず遅すぎない丁度良いスピードで坂を下った。

 「久しぶりだね」

 「何が?」

 「こうやって二人乗りするの」

 「そう言えばそうだな」

 「いつ以来かな?」

 「さぁな。覚えてないね」

 心地よい風と共に、夏音の頭に懐かしい記憶が蘇ってきた。小学生の頃まではよく二人乗りして出掛けていた。夏音のミニバスの帰りも学校まで迎えに来てくれたこともあった。小学生の頃は馬乗りのように荷台に乗っていたが、中学生になるとスカートが風で捲れるのが恥ずかしくなった。段々と二人乗りをしなくなった。それはしょうがないと思いつつも、どこか寂しい気持ちも抱いていた。気付けば夏音は涼一の背中に頭をそっと寄せていた。

 背中に伝わる温もりを感じた時、涼一は無性に寂しくなった。こんなにも近くにいるのに、いやこんなにも近くにいるからこそ夏音との心の距離を寂しく感じてしまう。なつの気持ちを聞いた時に藤沢に対して微かな嫉妬を抱いた自分を呪いたくなった。そして、想像以上に傷ついている自分を情けなくも思った。しかし、もうどうすることも出来ない。せめて、なつと藤沢が上手くいくように手助けしようと涼一は心の中で密かに誓った。

 夏音の家の前に着いた。

 「今日はありがとう」

 荷台から降りた夏音はお礼を言った。

 「もう大丈夫だな」

 「うん。明日は藤沢君に話し掛けてみるよ」

 「まぁ、頑張れ」

 涼一はフッと笑った。

 「じゃあね涼」

 「あ、そうだ。これ渡すの忘れてた」

 そう言って、涼一ははカバンからタッパーを取り出して、夏音に差し出した。受け取った夏音は中身を見て目を輝かせた。

 「あしゅまろのサクランボだ」

 「万が一、落ち込んだままの時のために最終手段として持ってきた」

 「でも、いいの?商品でしょ?」

 「ま、そこは目を瞑ってもらうということで」

 涼一はいたずらっぽく笑った。

 「全くもう。でも、嬉しい。一つ食べていい?」

 「良いけど、洗わなくて大丈夫か?」

 「大丈夫だよ」

 言うやいなや、夏音はタッパーの蓋を開けてサクランボを食べた。

 「うーん。美味しい。やっぱりあしゅまろのサクランボは最高」

 飛び切りの笑顔だった。

 「それだよ」

 「え?」

 「その笑顔を藤沢の前でも見せてやれよ」

 「そんな」

 夏音は照れ臭くなった。

 「じゃあな」

 涼一は夏音の頭を優しくポンポンと叩いた。そして、背中を向けて歩き出した。

 「涼」

 涼一は立ち止まって振り返った。

 「明日は一緒に帰ろうね」

 「藤沢とじゃなくていいのか?」

 「明日は涼と帰りたいの」

 夏音は上目遣いで言った。

 「分かったよ」

 涼一は頭の後ろを掻いた。涼一は夏音に対してほとんどのことで勝てるのだが、この夏音の上目遣いのお願いだけは別だった。こればかりはさすがの涼一も勝てなかった。

 「約束だよ」

 「ああ」

 涼一は手を挙げて帰っていった。

 その背中を見えなくなるまで見送った夏音は手に持っていたタッパーを自転車の籠に入れて、家の門を開けた。

 ご飯を食べてお風呂に入り部屋のベッドの上で溜まっていたラインを返すためにスマホを開いた。一通り返し終えたところで、ベッドに寝そべった。今日一日の出来事が頭を駆け巡る。思えば、悪くない一日だったと思った。

 明日は藤沢君と話せるだろうか。何を話そうかと考えようとしたが止めた。考えたところで本人を目の前にしたら、忘れてしまう気がしたからだ。夏音は一旦ベッドから降りて部屋の電気を消した。
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