蒼く恋しく
約束
  スマホのアラームが鳴動した。健吾は手を伸ばしてアラームを止めた。低い声で唸りながら、ゆっくりと目を覚ます。時刻は午前6時。今日は部活の朝練があった。夜更かしをしてしまったので、とてつもない眠気が襲ってきた。ベッドに潜りこみたい衝動を何とか抑えてベッドから這い出た。朝食を済ませ制服に着替えて家を出た。

 学校に向かう途中は同じことが何度も頭を駆け巡った。それは昨日のカフェでの出来事だった。水をかけたことを随分と気にしていた様子だったから、クラスのグループラインから夏音のアカウントを登録して、今日は楽しかったみたいな旨のラインを送ろうとしたが、いきなり送られても迷惑だろう思っってやめた。

 ”涼とは本当に何もないよ”健吾の頭はこの言葉で埋まっていた。一番気になっていた事を本人の口から直接聞けたのは嬉しかった。そう言う意味では永瀬の存在もありがたかったと思った。永瀬がいなければそんなこと聞けなかったし、そもそも夏音は立花と付き合っているとずっと思っていた。

 入学当初から夏音が男子達の間で人気を呼んだのは言うまでもなく、当然彼氏はいるのか、もし居なかったら誰が夏音の彼氏になれるのかと言う話しになった。程なくして彼氏が居ないと分かる分かるや否や、自分に自信がある男子がほぼ立候補したくらい夏音の人気は高かった。健吾も夏音に惹かれていたが、表立って好きとは言わなかった。周りの連中のように軽い人間だと思われたくなかった。無論、本当に可愛いし、付き合えるなら嬉しいよなと思うことはあっても、内面も分からないのに本当に好きになることは出来なかった。

 しかし、そんな男子達を一斉に身を引かせる事実が判明した。それは夏音が立花涼一の幼馴染みだということが分かったからだ。涼一は今でこそ周囲から浮いた存在となっているが、入学当初は健吾ですら到底敵わないくらいの人気を誇っていた。イケメンで天才児と言う超がつくハイスペック男子が幼馴染みだと分かればいくら自分に自信がある男子とは言えその自信を失ってしまうのは仕方ないことだった。加えて、ほとんど男子と話さない夏音が涼一だけには笑顔で話している姿をみれば尚の事である。

 それでも、夏音を狙っていた男子の何人かは告白したと聞いたが、漏れなく全員があっけなく振られたと聞いた。それを機に夏音は涼一と付き合っていると言う噂が流れ始めた。その噂はあっという間に広がり、夏音と涼一はある意味で浮いた存在となっていた。

 健吾はその噂を聞いた時は何とも思うことは無かった。そうだろうなと思っていたし、そもそも二人と関わることがほとんど無かったので、お似合いの二人だなとのんきに祝福さえしていた。

 ところが、あるバスケの試合の時、何気なく目を向けた観客席に夏音がいることに健吾は驚きを隠せなかった。見た目からはとてもスポーツを好むように見えなかったからだ。この意外な観客のお陰でその日の健吾は一年生とは思えない圧巻のプレイを披露した。試合こそ負けたが、周りの高校に強烈な印象を残した。もちろん、この試合を切っ掛けに、夏音が健吾に淡い恋心を抱いたことは知る由もない。

 試合後に夏音の友人であるマネージャーの茜に何で観に来ていたのか聞いた。そしたら、中学まではバスケ部に所属していたそうだった。暇潰しに試合を観に来ないかと誘ったら喜んで来たというのだった。健吾はそれを聞いて夏音に興味を持った。健吾に近づく女子は健吾にしか興味がなく、バスケそのものに興味を示す女子は皆無だった。あくまで、健吾がプレーをしているから見ているだけであっって、もし健吾がサッカー部なら、当然サッカーをしている健吾を見に行く。だから、何人かの女子とデートをしたりしたものの、誰もバスケの話しに興味を持たない上に、総じてつまらない話ししかされないので、健吾は時間の無駄だと思うようになっていた。

 そんな中で夏音の意外な話しを聞いた時は健吾には新鮮に映り、萎んでいた夏音への気持ちが膨れ始めた。そして、試合の時はいつも夏音の姿を探すようになり、気付けば学校でも夏音の姿を追うようになっていた。茜と廊下ですれ違う時には大抵夏音が後ろにいたので、何とか話しを伸ばせないかと取り立て聞くことでもないことを聞いたりしていた。もっとも、夏音が会話に入ってくることは無かった。たまに下校が被ると、友達とはしゃぎつつも後ろを歩いている夏音達が気になり、バレない程度にゆっくり歩いた。時折、後ろに視線を向けると目が合うような気がした。気のせいだろうと思いつつも、嬉しくて気分が高揚した。一緒に帰りたいのは山々だったが、誘う口実が無かったし、何より涼一の存在があったため半ば諦めかけていた。

 それでも、日増しに夏音への気持ちが強くなっていたが、例の噂に惑わされて気持ちを押し殺す辛い日々を過ごしていた。

 そして昨日、二人が付き合ってないことが分かったが、だからと言って今すぐ告白する勇気はなかった。振られるのは怖いし、そもそも告白できるような間柄じゃないことを重々承知していた。

 高校の最寄り駅で降りて学校に向かう途中を歩いていると、後ろから声がかかった。

 「おっす。藤沢」

 雑な挨拶と共に健吾の背中をバシッと叩いた。

 「おっす。てか、痛いよ」

 「何か元気なさそうだったから気合を注入したの。そんなんじゃ良いプレー出来ないわよ」

 「それはどうもありがとうございます」

 気のない返事を寄越した。

 「少し顔色悪いけど、どうかしたの?」

 「そんなことないよ。少し考えことしてただけ」

 「考えことって?」

 健吾は正直に話そうか迷った。夏音のことを考えていたと言ったら、茜がどんな反応示すのか気になった。もしかしたら、協力してくれるだろうかと淡い期待を抱いたが、引かれるのが怖かったので誤魔化すことにした。

 「まぁ色々」

 「そ。プレー中は余計なことを考えないようにしなよ」

 「分かってるよ」

 「そう言えば、昨日はどうだった?」

 「昨日?」

 「とぼけないでよ。カフェはどうだったの?」

 「ああ。楽しかったよ。ああゆう放課後もたまにはいいもんだな」

 「夏音とは話せた?」

 「いや、永瀬がずっと喋ってたから、ほとんど話せなかった」

 「やっぱり」

 茜は盛大にため息をついた。

 「でも、何を話せばいいのか分からなかったから、ある意味で永瀬が居て助かったところはあるな」

 「怪我の功名ね」

 茜の少しおかしな四字熟語の使い方に思わず吹いてしまった。

 「何よ」

 茜が睨んだ。

 「いや何も。まぁそうゆうことだね」

 健吾はまた叩かれるの避けるために指摘しないことにした。

 学校に着いて部室へと向かう。先に男子の部室の前に着いた。

 「今日もよろしくなマネージャー」

 健吾は部室のドアノブに手を掛けた。

 「ねぇ」

 茜が呼び止めた。

 「なに?」

 健吾は一旦ドアノブから手を離した。

 「もし、また夏音と一緒に帰れる日があったら、誘ってもいい?」

 意外な申し出に目を丸くしたが、すぐに笑顔になった。

 「もちろん。でも、河口が嫌がらないかな」

 「それはないから安心して」

 「なら、良かった」

 昨日の出来事があっただけにホッとした。親友の茜が言うのなら間違いはないだろう。

 「よし。今日もビシバシ鍛えるから覚悟しなさいよ」

 茜は足早に女子の部室へと向かった。

 健吾はその後ろ姿を小さく笑って部室に入った。既に何人かの部員が準備を整えていた。部員達と挨拶を交わし、練習着に着替える。バッシュの紐を結ぶと自然と気合がみなぎってきた。一度、頬を叩き頭をバスケモードに切り替えた。先程までの悩みは奇麗さっぱり消えていた。健吾は仲の良い部員達と元気よく体育館へと向かった。



 朝練が終わって教室で席に座っていた健吾は外の様子を眺めていた。いつもなら、クラスの人達と会話をするのだが、今はそんな気分にもなれず登校する生徒の波をただ目で追いかけていた。すると、夏音の姿が目に入った。健吾は少し嬉しくなったが、すぐに顔を顰めた。隣には涼一が居たからだ。健吾の目は自然と二人を追いかけていた。ここからでは何を話しているのか分からないが、楽しそうに話しているのは夏音の雰囲気から伝わってきた。あんな風に楽しそうに笑って話す夏音を見ると、強い焦りを感じた。それと同時に涼一に対する嫉妬も芽生えた。

 健吾はえりかが昨日言ってたことを思い出した。健吾は涼一が夏音のことをどう思っているのか気になった。端から見ればお互いの気持ちに間違いがないようにしか見えない。しかし、夏音があそこまで強く否定したのだから付き合ってないのは間違いないと思う。そう思うと健吾の心は幾分軽くなった。あれだけ可愛くて仲の良い幼馴染みが居れば、付き合いたいと思っても何ら不思議ではないし、むしろそれが当然な気がした。自分だったら間違いなく他の男に取られる前に告白するだろうと思った。もう一度二人を見ようとしたが、どこにも姿は無かった。

 涼一は夏音と別れ自分の教室に入った。それまでの喧騒がピタリと止んで周りの視線が涼一に集まる。涼一は意に介さず、窓際の一番後ろの席に座った。そして、退屈そのもと言った顔で外を眺め始めた。涼一の登場に静まり返っていた教室も徐々に賑やかさを取り戻し始めた。

 「涼一。おはよ」

 茜が元気な声で声を掛けた。ちなみに、茜以外に涼一に声を掛ける者はいない。

 「おはよう」

 仏頂面で返した。

 「遅刻せずに来るなんて珍しいじゃん。今年に入って初めてじゃない?」

 茜が茶化すように言った。

 「大袈裟に言うな。二年になって初めてだよ」

 「あんま変わんないし」

 茜は呆れた。

 「なつが迎えに来なきゃ昼くらいに来る予定だったのに」

 涼一はブツブツ文句を言った。

 「迎えに来てくれて嬉しいくせに」

 茜の言葉に涼一はキッと睨んだ。

 「お陰で眠くて仕方ない」

 涼一はわざとらしく欠伸をして席を立った。

 「ちょっとどこ行くのよ。もうHRが始まるんだけど」

 「眠いから二度寝してくる」

 「はぁ?あんた何考えてんの。学校に来たんだから真面目に授業受けなさいよ」

 茜は涼一の腕を掴んだ。

 「眠いのに嫌だね」

 「子供じゃあるまいし、何言ってるの」

 まるで姉と弟の会話だ。

 「とりあえず、腕が痛いから離せよ」

 「あ。ごめん」

 茜は掴んでいた手を離した。

 「相変わらず力が強いな。こりゃ保健室に行かないとマズイな」

 涼一は顔を歪めて腕をさすった。

 「もう勝手にしなさいよ」

 茜は怒った。

 「そうさせてもらう」

 茜の怒りなんてどこ吹く風で飄々と言った。

 「ねぇ、昨日はちゃんと慰めてくれたの?」

 茜は睨みつけた。

 「そんなこと昼休みに聞けよ」

 そう言い残して涼一は教室を出ていった。

 昼になると例によって茜は夏音とお昼ご飯を食べていた。

 「昨日はごめんね」

 茜はおもむろに謝った。

 「ううん。茜が謝ることなんてないよ」

 「ありがと。それで昨日はどうだったの?」

 健吾に大まかなことは聞いていたが、夏音の口からも聞きたかった。そんなことは露知らずに夏音は話し始めた。

 「やっぱり私も付いていけば良かったな」

 「でも、涼が慰めてくれたから大丈夫。涼には茜が教えたんでしょ?」

 「そう。黙ってられなくて。ごめんね」

 「だからもう謝らないで。茜の方が落ち込んでるみたいじゃない」

 「だって、夏音にも涼一にも悪いことしちゃったし」

 普段は元気一杯だから、あまり知られてないが茜は一度落ち込むと案外引きずるタイプだった。

 「私の事を思ってくれたからでしょ。それに茜が居なかったら、藤沢君とカフェなんて行けなかったんだから、茜には感謝しかないよ」

 夏音は茜を励ました。

 「夏音・・・・・・」

 茜は夏音のことが更に大好きになった。そして、涼一にも感謝した。

 「恨むなんて以ての外だし、嫌いになるんて絶対に無いよ。ほら、これ食べて元気出して」

 夏音は弁当に入っていたサクランボを一つ茜の弁当に置いた。

 「これあしゅまろのサクランボ?」

 「そう。昨日の帰り際に涼一がくれたの」

 「良いの?夏音の大好物でしょ」

 「大好物をあげるくらい、茜のことが大好きってことだよ」

 夏音は少し照れ臭そうにはにかんだ。茜はその表情を見て私が男だったら今ので完璧に惚れたなと思った。それにしても、こんな優しくて可愛い幼馴染みが居て手を出さずにきた涼一が凄いなと改めて思った。

 「じゃぁ、二人でせーので食べよう」

 茜がそう言って、二人でサクランボを摘まんで食べようとしたら「ごめん。ちょっといい」と声が掛かった。声の主は健吾だった。夏音と茜は驚きを隠せなかった。それもそのはずで、今まで一度も話しかけてきたことなど無かったからだ。

 「藤沢。どうしたの?」

 茜が聞いた。夏音は下を向いて固まっていた。

 「あの、立花がどこにいるか知らない?」

 「涼一?」

 茜は顔を上げた夏音と目を合わせた。夏音の顔にも疑問の表情が浮かんでいた。

 「今教室に行ったけど居なくてさ。二人ならどこに居るか知ってるかと思って」

 「涼一に何の用があるの?」

 「いやまぁ、ちょっとね」

 健吾は言葉を濁した。

 「ふーん。教えてあげたいけど、私にも分からないわ。教室に来てすぐに二度寝するとか言ってどっか行ったし。夏音は分かる」

 茜に話しを振られた夏音は少し緊張して答えた。

 「涼はいつも保健室か裏庭か図書室の三ヵ所のどこかにいるよ」

 「そっか。今から回ってみるか」

 「あ、でも、今日は天気が良いから裏庭いると思う。天気が良い日は裏庭のある木陰のベンチで本を読んでるって言ってたから」

 「裏庭ね。そこから言ってみるか。ありがとう」

 「涼一のことなら夏音にお任せって感じね」

 茜が茶化した。

 「やめてよ」

 夏音の顔が赤らむ。

 「邪魔して悪かったね」

 健吾は教室を出ていった。

 「それにしても涼一に何の用だろうね」

 「うん」

 二人の思い出す限りでは涼一と健吾の接点は見つからなかった。強いて言うならば学校を二分するイケメンということだが、そのことで二人が争っている様子もなく、そもそも涼一の性格が知れ渡った時点で健吾の方が圧倒的な支持を受けているのは言うまでもない。考えても仕方ないことなので、二人は気を取り直して世界一美味しいと思っているサクランボを食べた。

 健吾は朝から涼一に夏音のことをどう思っているのか聞いてみようかどうしようかと悩んでいた。悩んだ末に聞いてみることにした。涼一の口から夏音に自分の気持ちが漏れてしまう危険性はあったものの、そんなことを安易に漏らすようにはとても思えなかった。

 それよりもさっきの少ないやり取りでも、夏音が涼一の行動を知り尽くしていることに嫉妬した。平静を取り繕っていたが、内心は穏やかではなかった。

 裏庭に出ると、夏音の予想通り木陰のベンチに一人座って足を組んで本を読んでいる涼一がいた。健吾は内心予想が外れていることを願っていたので、少し気落ちした。

 健吾はゆっくりと近づいて「立花」と声をかけた。しかし、涼一は何の反応も示さなかった。今度は少しボリュームをあげて名前を呼んだ。涼一の体がピクリと動きゆっくりと顔を上げた。自分を呼んだ相手を見上げると、一瞬意外な顔をしたが、すぐにポーカーフェイスに戻った。

 「藤沢か」

 涼一は抑揚のない声でいった。

 「やぁ」

 陽気に挨拶をかけたが、涼一は返事を寄越す代わりに冷たい視線を送った。

 「何の用だ?」

 涼一の声は視線と同様に冷たかった。

 健吾は涼一のことが苦手だった。こうして対峙しても何故か萎縮してしまう。健吾はこれまで好意やら尊敬等の温かい眼差しを向けられて生きてきた。涼一のような感情が読めないタイプを相手にする術を知らなかった。だから、どう接して良いのか分からなかった。とりあえず謝ることにした。

 「ごめん。読書の邪魔をして」

 こうして素直に謝れるのは健吾の美徳の一つだった。

 「別に良いけど」

 涼一は本を閉じた。

 涼一の声が少し優しくなったことで少しホッとした。

 「隣に座ってもいいか?」

 涼一は黙って横にずれた。健吾は空いたスペースに腰を下ろした。

 「それで何の用だ?」

 無駄話しは一切する気はなく聞いた。

 「立花に聞きたいことがあって」

 「聞きたいこと?」

 ようやく涼一の顔にも変化が出た。夏音達と同様に疑問な表情を浮かべていた。

 「えっと、何て言うか」

 内容が内容なだけに、いざ本人を目の前にすると言い淀んでしまう。

 「なんだよ」

 涼一の声に不機嫌さが戻ってきた。

 「立花はその、」

 緊張で言葉が詰まってしまう。

 「聞く気がないなら、俺はもう行くぜ」

 涼一は立ち上がり、さっさと歩き始めた。

 健吾は慌てて立ち上がり、立ち塞がった。

 「か、河口のことをどう思ってる?」

 涼一は目を細めて健吾のことを凝視した。

 「どうって?」

 それだけ聞いた。

 「つまり、河口のことを好きなのかどうか聞きたくて」

 健吾は聞いてて恥ずかしくなった。

 涼一はニヤリと笑った。健吾には悪魔の笑顔にしか見えなかった。

 「まさかお前の口からそんなことを聞かれる日が来るとはな」

 「それでどうなんだ」

 健吾は答えを急かした。早くこの場を去りたかった。

 「藤沢はどうなんだよ」

 「え?」

 「藤沢はなつのことをどう思ってる?」

 まさかの質問返しに戸惑った。答えそうになったものの何とか押し留めた。

 「聞いてるのは俺だ」

 涼一はやれやれと肩をすくめた。

 「好きに決まってるだろ」

 あまりにもストレートな答えに健吾は返す言葉が見つからなかった。

 「それに最近告白をしてな。OKを貰えたぜ」

 涼一は勝ち誇ったような顔をした。

 「なっ」

 健吾は愕然とした。

 「さぁどうする?」

 「どうするって?」

 「なつのことは諦めるか?」

 「それは・・・・・・分からない」

 心の整理が追い付かなかった。

 「なつのことが好きだって認めたな」

 「何?」

 「なつのことが好きじゃなきゃ、分からないなんて言うわけないだろ。まぁ、ずっと前から薄々気付いてたけどな」

 健吾は体が熱くなるのを感じた。聞かなければよかったと後悔した。

 「俺を試したのか?」

 完全に弄ばれていたことに気付き猛烈に腹が立った。

 「俺の読書を邪魔してくれたお礼にな」

 涼一は薄ら笑いを浮かべていた。

 「お前・・・・・・」

 殴りたい衝動に駆られたが、ここで殴ってしまえば夏音に間違いなく嫌われると思い何とか踏み止まった。

 「どこまでが本当なんだ」

 「さぁね」

 涼一は取り合わない。

 「俺は諦めないからな」

 健吾は宣戦布告をした。

 「諦めないか分からないんじゃ無かったのか?」

 「今分かった。お前には負けたくない」

 「学校一の色男に嫉妬を覚えさせるなんて俺も捨てたもんじゃないな」

 「う、うるさい」

 ズバリと言い当てられ、動揺で語気を強めてしまった。

 「なつと同じですぐに顔に出るな」

 涼一はケラケラ笑った。

 「くっ」

 「熱くなってるところ悪いけど、俺はお前と争うつもりなんて更々ないから。第一そんな暇じゃないんでね。勝手にやってくれ。もっとも、争いにすらならないだろうけどな」

 「どうゆう意味だ?」

 「自分で考えろ」

 「河口のこと好きなんだろ」

 「その質問にはもう答えないぜ。それよりも、なつと話してデートに誘う口実でも見つけたらどうだ」

 「簡単に言うなよ」

 それが出来たらここに来てこんな質問なんてしてないと思った。

 「なら、サクランボの美味い店でも見つけるんだな」

 涼一は手をひらひらさせて立ち去った。

 一人残された健吾は自分を情けなく思った。挑発されたとは言え嫉妬を抑えられず立花に当たってしまった。今のやり取りを夏音に話すのか心配になった。涼一ならば自分を悪者にして話すくらい訳ないだろうと思った。何より最後の言葉どうゆうことだろうと考えた。何故サクランボの店を見つけろだなんて言ったのだろうか。健吾はふと、さっきの夏音達に質問をした時にサクランボを食べようとしていたのを思い出した。夏音はサクランボが好きなのかと思った。そうだとして涼一が何故そのことを気付かせるようなことを言ったのか疑問に思った。もしかしたら偽の情報かと思ったが、あの場でそんな偽の情報を流す意味が分からなかった。だがすぐにあることに気付いた。涼一は健吾が夏音達に自分の居場所を質問していたことを知るはずが無いということだ。つまり、涼一が言った事は健吾を振り回す為に言ったに過ぎず、まさかサクランボ好きということを推測されるとは思ってなかったのではないかと健吾は思った。と言うことは、夏音のサクランボ好きは本当だと言うことに気付いた。人を舐めすぎだと思った。せっかくくれた情報を使わない訳にはいかなかった。これを口実にデートに誘うと決意した。争いにならないと言っていた意味も分かった。自分には到底敵わないから意味が無いと言うことだと思った。健吾は拳を握り締めた。逆境ほど燃える質の健吾にとっては好都合だった。健吾は絶対に負けるものかと固く誓い教室へと戻った。



約束通り涼一はかのと一緒に下校していた。

 「ねぇ、藤沢君は何の用だったの?」

 夏音は聞いた。

 「藤沢?あいつが俺に何の用があるんだ?」

 「あれ?昼休みに会ってないの?」

 夏音は首を傾げた。

 「会ってないよ」

 「えっ。嘘」

 「何で俺が藤沢と会わなきゃならないんだよ」

 「でも、昼休みに涼はどこにいるのって聞かれたよ」

 「へぇ。それでどこにいるって言った?」

 「裏庭に居るんじゃないかって。違うの?」

 「違うよ。今日は屋上で寝てたから」

 「屋上?生徒は入れないはずじゃない」

 「誰も入ってこないから気楽に過ごせる」

 「先生に見つかったら停学になっちゃうよ」

 さすがの夏音もこの時ばかりは注意した。

 涼一は楽しそうに笑うだけだった。

 「それにしても、藤沢俺なんかに何の用だったんだろう」

 「さぁ?」

 「ま、良いか」

 涼一がそう言ったので、夏音も特に深入りせず、今月末に行われる中間テストに話題を変えた。

 「良いな涼は。勉強しなくても点が取れるんだもん」

 「なつだって成績は上の方だろ」

 夏音の成績はざっと三百人いる三学年でトップ30には入る好成績を収めていた。十分に勉強が出来る部類と言って間違いない。

 「そうだけど。それは部活とかやる代わりに塾に行ったりして、勉強しかしてないからだよ。部活なんてしてたら、今の成績を収めるなんて到底無理だよ」

 「そうかもしれないけど、部活の代わりに勉強を頑張ってるんだから、良いことじゃないか」

 夏音は涼一の言葉に少し救われた気分になった。冷たいように見えて、実はポジティブな言葉をかけてくれることが多いなと思った。

 「涼はどう?勉強頑張ってる?」

 「まぁな。他に頑張ることなんてないし」

 周りには知られてないが、涼一は小さい頃に恐竜映画を見て以来恐竜の虜になり、夢は恐竜学者になることだった。今もその夢を追っていて、暇さえあれば恐竜についての論文や資料を読み漁っていた。その努力は目を見張るものがあり、夏音も自分ももっと頑張らなければと刺激を受けていた。そのような姿勢があるからこそ、涼一の言葉には説得力があり励まされるのだった。

 「やっぱりアメリカの大学に行きたいの?」

 「そうだな。大学は別に日本でも良いとは思うけど、アメリカは本場だし行けるチャンスがあるなら挑戦しようと思ってる。どちらにせよ、いずれアメリカに行くことになるよ」   

 涼一といつか離れ離れになることは夏音にも分かっていた。ただ、涼一がいることが当たり前で生きてきたから、離れて暮らしてることが想像出来なかった。高校と同時にアメリカに渡るなら、とても寂しいと思うのは間違いないが、大学が別々になってしまえば幾らかは慣れていて、快く見送れてしまうような気がした。

 「涼の方が勉強大変そうだね」

 「どうだろうな。比べることじゃないと思うし。ただ、やっぱり楽しいよ」

 「涼と話してると自分がちっぽけな人間見える」

 涼一は少し苦笑した。

 「そんなことないだろ。なつはやりたいことはないのか?」

 「ううん。無いよ。勉強を頑張って良い点を取れても、何も無いんじゃないかって不安になるし」

 夏音はしゅんとした。

 「考えすぎだろ」

 「このまま大学に進んだとしても、何となく大学生活を送って、何となく働いて、何となく暮らしてると思う」

 「年頃のJKとは思えないリアルな想像だな」

 「実際そうなると思うよ」

 「いくらなんでも考えすぎ。茜を見ろよ。何も考えてないぜ」

 「ちょっと。茜に聞かれたら怒られるよ」

 「これでも褒めてるつもりなんだ。つまり、茜の楽観さを学べってこと」

 「茜だって考えてるよ」

 「分かってるよ。ただ、なつがあまりにも考えすぎてるから、例えで言っただけだ」

 浪花駅に着いたので、二人はそこで別れた。

 「じゃぁ、俺はこれからバイトに行くから」

 「うん。バイバイ」

 「今日は塾か?」

 「そうよ」

 「頑張れよ」

 「ありがとう」

 

 塾から帰ってきた夏音は自分のベッドの上で動画サイトを見ながら寛いでいた。ピポン。ラインの通知が鳴った。一瞬だけ画面に映った名前を見て跳ね起きた。急いでトーク画面を開いた。トーク画面の一番上には藤沢健吾の名前が表示されていた。健吾とのトーク画面を開いて既読を付ける前に、名前を長押しした。こうすれば既読を付けずに文面を読むことが出来た。夏音はドギマギしながら健吾からのメッセージを読んだ。

 「お疲れ!いきなりラインを送ってごめんね。今週の日曜日に二人で原宿に行かない?二人が無理なら、滝川も誘って良いからさ!」

 まさかのお誘いに心臓が早鐘を打った。すぐさまトーク画面を開き返信した。何故か、姿勢が正座になっていた。

 「原宿に何しに行くの?」

 何時頃に返信が来るだろうと思っていたら、すぐに返ってきた。

 「それは内緒!でも、河口が喜ぶ所に行こうと思ってる」

 ラインの向こう側で夏音の顔が赤くなってることを健吾は知らない。それにしても、原宿で自分が喜ぶ所はどこだろうと考えた。原宿は特に好きということもなく、たまに服を買いに行くくらいだった。そうこう考えている内に健吾から続けてメッセージが来た。

 「どうかな?急だから空いてないかな」

 「ううん。行けるよ!」

 「ほんと!ありがとう!」

 「どこに行くのか楽しみにしてるね!」

 「うん!でも、ハードルを上げられてガッカリされないか心配になってきた(笑)」

 「ガッカリなんてしないよ」

 藤沢君と一緒なだけで嬉しいと付け加えたいが、どんなに指が滑ってもそんなことは送れなかった。

 「じゃぁ、日曜日の11時に原宿に集合で!」

 「はーい!」

 健吾とのラインを終えた夏音の気持ちは有頂天に達していた。顔がにやけてしまう。さっきまでの憂鬱な気分はどこかに吹き飛んでいた。しかしすぐに、また何かしでかしたら今度こそ嫌われるのではとネガティブな考えが浮かんだ。健吾には申し訳ないけど茜を誘うかと思ったが、茜は絶対に来てくれない気がした。



 「えー!藤沢に遊ぶに誘われた?」

 茜の声が裏庭に響いた。

 「ちょっと声が大きいよ」

 夏音は周りを見渡した。

 「誰も聞いてないってば」

 お弁当を食べ終わった二人は、夏音の誘いで裏庭のベンチに移動して話していた。健吾から遊びに誘われた話しを教室では話したくなかったからだ。誰かに聞かれて変な噂を立てられるのを防ぐ為だった。茜が大きな声を出したのでここへ来て良かったと夏音は思った。

 「それでどこ行くの?」

 茜が勇んで聞いた。

 「原宿」

 「原宿に何しに行くの?」

 「それが教えてくれなくて」

 「えー。何それ」

 茜は不満たっぷりに言った。

 「でも、私が喜ぶ所に連れていってくれるって」

 「なにサプライズってやつ?初デートなのに藤沢も中々やるわね」

 今度はにやけた。

 「どうして藤沢君は私が何で喜ぶのか知ってるのかな?」

 昨夜にふと思った疑問だった。健吾との絡みは一昨日のカフェが実質初めてみたいなものだった。それまでは天気の話しさえしたことが無かった。そのカフェもえりかのせいでまともに話せた記憶もない。

 「ただの予想じゃないの?」

 「やっぱりそうかなぁ?」

 「それか涼一に聞いたとか?昨日、藤沢が涼一を探してたのは夏音の好みを聞くためだったとか?」

 「まさか。それに涼が藤沢君とは会ってないって言ってたし」

 「あ、そうなの?」

 昨日の部活の時に健吾にそれとなく聞いてみた茜だったが、煮え切らない返事を寄越されただけだったから、てっきり涼一にやり込められたのかと思っていた。

 「うん。裏庭じゃなくて屋上で寝てたって」

 「相変わらずやりたい放題ね。ま、そんなに気にすること無いって。きっと藤沢なりに一生懸命考えて夏音が喜びそうな場所を見つけたのよ」

 茜の言葉に気持ちが舞い上がってきた。健吾が自分のことを考えてくれたのかと思うと、嬉しくて堪らなかった。

 「あーこれで夏音にも彼氏が出来るのか」

 「な、何言ってるの。ただ遊びに行くだけだもん。別に何もないよ」

 「彼女になることは否定しないのね」

 「い、いや別に、そうゆう訳じゃ・・・・・・」

 最後の方は声が小さくなった。

 「もし告白されたらどうするの」

 核心をついた質問に夏音は無言になった。

 「付き合うの?」

 茜の目は真剣だった。夏音は一泊置いてから答えた。

 「それはまだ早いと思う。お互いのことばだよく知らないし」

 「付き合ってから知れば良いじゃない」

 「それは嫌。付き合ってから相手に失望されたくないし、したくもないから」

 「ほんと夏音は真面目よね。私が祐介と付き合う時なんて、顔も悪くないしバスケも上手いから、試しに付き合ってみようかなって感じだったよ」

 「それは茜が強いから。私はよく知らないのに告白されても怖いだけだもん」

「そりゃ私だって誰でもいいって訳じゃないよ。ただ、祐介にはそれなりに好感を持ってたし、すぐに別れても傷つかないように付き合った当初はあまり好きにならないように気を付けてたもの」

 茜にそんな一面があること知らなかったので、夏音は少し意外に思った。

 「今はどうなの?」

 夏音が聞いた。

 「どうって?」

 「風野君のこと好きなの?」

 「そりゃまぁ。だから、付き合ってるんだし」

 珍しく茜が照れた。

 「あ、照れてる。可愛い」

 夏音がからかった。

 「ちょっとやめてよ。今は私のことは別に良いでしょ」

 「いつもからかわれてるからそのお返し」

 「このっ」

 茜は夏音の弱点である脇腹をくすぐった。

 「ごめんごめん。脇腹は弱いからもうやめて」

 茜はくすぐるの止めて、姿勢を戻した。

 「とにかく今回のデートは楽しめそうで安心したわ」

 「どうして?」

 「永瀬さんが居ないからに決まってるでしょ」

 「そうかな」

 「そうよ。さすがに今回は永瀬さんのこと誘ってはないわよね」

 「藤沢君は二人が嫌なら、茜を誘っても良いよって言ってたけど」

 「はぁ?行くわけないじゃない。藤沢のやつ何言ってんのよ」

 「やっぱりそう言うと思ってた」

 「まさか本気で私を誘うつもりじゃないわよね。絶対にお断りだからね。こんな大チャンスを潰すような真似は出来ないから」

 「じゃぁ、涼でも誘おうかな」

 夏音はほんの冗談で言ってみた。

 「絶対にダメよ。そんなことしたら藤沢が可哀想でしょ。あの男が一緒に行ったら失敗に終わること間違いなしよ」

 「そんなに怒らないで。冗談で言っただけだから」

 夏音は宥めるように言った。

 「涼一にはこの事はもう話したの?」

 「まだだけど」

 「話すつもりなの?」

 「ダメなの?」

 「ダメって言うか、せっかく藤沢とデート出来るのに、邪魔されたら癪じゃない」

 自分でも苦しい言い訳だと思ったが、まさか涼一は夏音のことが好きだからとは言えなかった。それに、それはあくまで憶測に過ぎない。

 「涼はそんな子供じみたことはしないよ」

 茜の言い分を素直に信じた夏音がそう言ったので、茜は内心ホッとした。

 「まぁ話す分には構わないけど、必ず二人で行くこと。分かった?」

 「うん。まだちょっと不安だけど」

 夏音は心配そうに頷いた。

 「大丈夫。今回はきっと上手くいくよ」

 茜は夏音の手を握って、優しく励ました。



 夏音は涼一にデートの話しをする為に学校終わりにあしゅまろへと向かった。今日は学校に来ていなかったので、あしゅまろで働いてると思ったからだ。

 あしゅまろのドアを開けて中へと入った。カウンターに居た男性店員と女性店員が同時に夏音の存在に気付き、二人はにこやかな表情で夏音を迎えた。この二人こそあしゅまろを経営している夫妻で店主の道本陽二とその妻かなえだった。

 「なっちゃん。いらっしゃい」

 ゆったりと深みのある声だった。陽二は五十代前半にも関わらずスラっとした細身だった。髪はロマンスグレーでオールバック気味に後ろに流していた。笑うと目尻に皺が寄るが、それさも気品があった。優しく穏やかな紳士で涼一のことを言うことを聞かせられる唯一の大人だった。

 「こんにちは」

 夏音は頭を下げた。

 「なっちゃん。久しぶり~元気だった?」

 かなえはカウンターから飛び出してきて夏音を抱き締めた。中学まで欧州暮らしをしていたかなえには抱擁癖があり、気に入った客には来店する度にハグを交わしていた。陽二より10歳程若く。黒髪ショートカットで奇麗な猫目をしていた。鼻もつんと上を向いているので一見高慢そうに見えるが全くそんなことはなく、誰にでもフレンドリーに接する素敵な女性だった。欧州育ちということあり、物事をズバズバと言えるかなえを頼って、恋愛相談をする若い女性達も多い。

 「こらこら。嫌がってるじゃないか」

 「嫌がってないわよ。ねぇ?」

 かなえは夏音から一度離れて聞いてきた。

 「あ、はい。嬉しいです」

 夏音は困ったように笑った。

 「あーん。もうほんと可愛い。私もこんな娘が欲しかった」

 かなえはもう一度抱き締めた。

 「ほら。もう離れて早く座らせてあげなさい」

 陽二が嗜めた。

 「それに君みたいな母親だったら、こんな可愛い娘にならないでしょ」

 「あ。失礼しちゃうわね。私ってそんなに母親に向いてない?」

 答えづらい質問をされてしまい夏音は返事に困った。その時、都合のいいことに他の客が注文をするために手を挙げた。かなえは注文を取る為にその場を離れた。

 「全く。変なこと聞いてごめんね。今日は一人で来たの?」

 陽二が聞いた。

 この流れで聞きづらかったが、先延ばしすれば長居をしてしまうことになるので夏音は勇気を持って聞いた。

 「あの、涼は居ますか?」

 「涼ちゃん?今日は休みだよ」

 「あ、そうなんですか」

 「涼ちゃんに用があったのかな?」

 「実はそうです。今日は学校に来てなかったので、あしゅまろで働いてるかなと思って・・・・・・」

 「大事な用なの?」

 「ええ、まぁ」

 「じゃぁ、今日はもう帰る?」

 「はい。せっかく来たのにごめんなさい」

 夏音は頭を下げた。

 「なっちゃんもう帰っちゃうの」

 注文を取り終えたかなえが悲しそうに言った。

 「かなえさんごめんなさい。近いうちに必ず来ます」

 「いつでも来てね」

 かなえは名残惜しそうに見つめた。夏音は再度頭を下げてあしゅまろを後にした。店を出た後で二人に悪い事をしてしまったと反省した。来週は茜と必ず来ようと思った。

 涼一があしゅまろに居ないことが分かったので、夏音は仕方なく電話することにした。しかし、涼一は外に出掛ける時はスマホを携帯しないことが多いので出る望みは薄かった。夏音は家に居てと願った。電話は中々出ず、コール音だけが虚しく耳に残った。もう切ろうかと思った矢先に涼一が電話が繋がった。

 「悪いな。すぐに出られなくて」

 「今どこにいるの?」

 「図書館で本を読んでる」

 「邪魔しちゃってごめんね。掛け直す?」

 「いや、大丈夫。それより何か用か?」

 「うん。ちょっと話したいことがあって。今からそっちに行ってもいい?」

 あしゅまろから図書館までは自転車で10分程で着く。

 「分かった。図書館の中で本を読んでるから、来たら声を掛けてくれ」

 「うん。ありがとう」

 夏音は電話を切り、自転車に乗って図書館へと急いだ。



波花中央図書館は三階建ての建物で、一階はラウンジ二階と三階に本が置いてあった。県内でも有数の蔵書数を誇り、涼一の求める恐竜に関する専門書も充実しているので、涼一は足繫くこの図書館に通っていた。

 図書館に着いた夏音は館内に入り、涼一が居るであろう三階へと上がった。三階に上がると、涼一はすぐに見つかった。三階の中央に設置されている円形のテーブルで真剣な表情で分厚い本を読み耽っていた。その真剣な横顔に少しドキッとした。

 夏音は静かに近づき声を掛けようとしたが、涼一が片手を上げて待ての合図を送り隣の椅子を指指した。ここに座って待っていろと言う意味を理解した夏音は素直に指示に従った。こう言う時に無理矢理声をかけても不機嫌になり、後で話しを聞いてくれないことを知っていた。

 座っててもやることがないので、自分も何か本を読もうかと立ち上ろうとしたら、横から本が滑ってきた。その本は夏音の大好きなファンタジー映画の原作だった。涼一の準備の良さについ小さく笑ってしまった。夏音も本を開き読み始めた。

 夏音が小説の序盤部分を読み終えるくらいに閉館を告げるアナウンスが流れた。涼一は潔く本を閉じテーブルに置くと思いっきり背伸びをした。

 「待たせて悪かったな」

 涼一がの方を向いて詫びた。

 「ううん。押しかけたのはこっちだから」

 夏音は本を戻しに行こうとしたが、それよりも早く涼一が「俺が戻してくるから」と夏音の手から本を取った。

 図書館から出てから二人は特に会話をすることなく、川沿いをゆっくり歩いていた。夕陽に照らされた水面が、光の反射で煌めいていた。

 「昨日ね、藤沢君に遊びに誘われたの」

 夏音は唐突に切り出した。

 「へぇ。良かったじゃん」

 涼一は特に感情を込めずに言った。

 「行った方が良いかな?」

 「そんなこと俺が知るかよ」

 「そうだよね。実は行くって返事をしたんだけど」

 「何だよ。俺に聞くまでもないじゃん。何にせよ良かったな」

 「・・・・・・うん」

 夏音の表情は冴えない。

 「どうせ、また何かしでかしたらとか余計な事を考えてるんだろ」

 「何で分かるの?」

驚いて涼一を見た。

 「そんな顔をしてたら誰だって気付く」

 「まさかいきなり誘われるとは思ってなかったから」

 「当日もそんな顔をしてたら藤沢傷つくぞ」

 「えっ」

 「誘った藤沢の方が不安に思ってるだろうから、なつがそんな顔をしていたら、自分と遊んでもつまらないのかなって思うだろ」

 「私はそんなこと思はわないよ」

 「なつが思わなくても、これは受け取る側の問題だから。当日は楽しそうな表情を心掛けるんだな」

 「緊張して無理な気がする」

 「なら、別に良いんじゃないか。無理して笑った所でどうせバレるだろうから」

 「それじゃ傷つけるって言ったのは誰?」

 「傷つけちゃいけないなんて言ってないさ」

 「どうゆうこと?」

 相変わらず涼一の言うことすぐに理解出来なかった。

 「さっきも言っただろ。受け取る側の問題だって。緊張して上手く笑えないなつと遊んで、傷つくのは藤沢の勝手だ。なつが悪いわけじゃない」

 「そう言われればそうかもしれないけど。せっかく誘ってくれたのに傷つけるのは心苦しいよ」

 「俺はそうは思わない」

 「どうしてそう思うの?」

 「もちろん、わざよ傷つけるのは論外だけど、これから仲良くなっていく二人は相手のことを知らない事に方が多い。お互いを理解していく内に、相手の知らない所で傷ついてしまうのはある意味仕方ないことだと思う。だから、最初は傷つけられても相手を想えるかどうか、理解しあえてきたら、可能な限り傷つけないように相手を思えるどうかが大事なんじゃないかと俺は思ってる」

 「涼・・・・・・」

 涼一の深い考えに言葉が無かった。

 「仮に原宿デートが緊張で楽しむ余裕がなかったとして、それだけでなつのことを分かった気になる程、お前が惚れた男は頭が悪いのか?」

 「そんなことは無いと思うけど」

 夏音は自信無さげに答えた。

「その一日でお互いの全てを理解できる訳がない。だったら、少しづつお互いの事を知ればそれで良い。そしていつの日か、初デートはつまらなかった訳じゃなくて、嬉しすぎて緊張して楽しむ余裕が無かったことを藤沢なら理解してくれるはずさ。本当につまらなかったら、それはそれだけどな」

 「涼っていくつ?」

 あまりにも高校生離れしている考え方に涼一が本当に自分と同い年なのか本気で疑わしく思った。

 「10年以上も居て何を今更。あなたと同じ17才でございますが?」

 涼一は少しおどけてみせた。

 「そんなこと言える17才なんて居ないよ」

 涼一の高校生離れした哲学的な発言は、今に始まった事ではないが、それにしてもこの年でこんな風に恋愛を捉えられる高校生が他にいるだろうか。大人ですらそうそう居ないのではと思った。

 「要は失敗したら、まだ次があるってことなんだけどな」

 「すぐに悪い方に考えちゃうこの癖を直さないと」

 「一種の防衛本能みたいなもんだから。何がともあれ、好きな男子との初めてのデートだろ。あまり難しく考えないで楽しんでこいよ」

 涼一はいつものように夏音の頭を優しくポンポンと叩いた。

 「もう子供じゃないんだからやめてよ」

 そう言いつつも嫌じゃないと思っている自分がいた。

 「今日もありがとう。涼が居なかったら遊ぶのやめていたかも」

 「そうか。お役に立てて光栄だね」

 そう皮肉を飛ばす涼一の顔はどこか寂し気だった。しかし、夏音は気付く風もなかった。

 話し終えた二人は近くのバス停に向かった。涼一は自転車ではなくバスで来たのでそこから帰る為だった。5分程待つとバスが停留所に停まった。

 「バイバイ」

夏音は手を振った。

 「じゃあな」

 涼一はバスのステップの乗りかけた足を止めた。

 「どうかした?」

 夏音が聞いた。

 「いや、何でもない」

 涼一はそのままバスに乗り込んだ。

 夏音は首を傾げたが、すぐに気を取り直して自転車に跨り家路を急いだ。

 

 デート前日の土曜日。夏音は部屋でファッションショーを開いていた。理由は明白で、明日の健吾とのデート服を選ぶためだ。かれこれ30分以上クローゼットから洋服を出しては合わせて、あーでもないこーでもないと悪戦苦闘していた。

 「デートと言うデートをしたことがない夏音にとって、服選びは実に大変な作業だった。何を着れば可愛く見られるのか、この服は健吾の好みじゃなかったらどうしようと悩みは終わらないループへと入っていた。茜が健吾がどんな服装が好みか聞いてこようかと言ってくれたが、カンニングしたみたいで嫌だったので断ってしまった。こんなことなら、聞いてもらえば良かったと今更ながら後悔した。鏡の前で服を合わせていると、扉をノックする音が聞こえた。

 「なに?」

 扉を開けると共に入ってきたのは、夏音の兄の文也だった。夏音の兄貴ということもあって容姿端麗だった。美男美女兄妹として近所から評判だった。夏音の4つ上で有名私立大学に通っている。

 「おい。早く風呂に入れよ・・・・・・って何やってんだ?」

 「別に何だって良いでしょ。その内入るから出て行ってよ」

 夏音は兄のことが好きでは無かった。無駄にプライドが高く優しくされた試しがない。涼一の方がよっぽど大人だと普段から思っていた。そんな態度が滲み出ているのか、家族で唯一文也だけは涼一のことを毛嫌いしていた。しかし、いくら文也でも面と向かって涼一に喧嘩を吹っ掛けるようなことはしなかった。さすがの文也ですら敵わないと分かっていた。

 「太って着れなくなった服でも選別してるのか?」

 「うるさいな。ほっといてよ」

 夏音はうんざりしながら言った。こんなのが大学でモテているなんてどうかしていると思った。文也がとっかえひっかえ女性と付き合っているのことを知っていた。そうゆう所も嫌だった。

 「どうせ何着たって大して変わらないんだから、悩む必要なんてねぇだろ。さっさと風呂に入れよ」

 捨てセリフを吐いて文也は部屋を出ていった。

 夏音は手に持っていた服をベッドに投げ出した。全く何て言う兄だろうと思った。さっきまでのやる気が一気に吹き飛んだ。結局、最初に選んだ服を着ることにして、残りを全部クローゼットにしまった。お風呂に入ってすぐに床に就いた。土曜日はいつもより夜更かしするのだが、寝不足の顔でデートに行くわけにはいかなかった。しかし、一向に眠気が襲ってこず寝返りを打つばかりだった。そして、明日の妄想が止まらなかった。

 健吾は楽しみにしていだろうか。遅刻したらどうしよう。上手く会話できずに落ち込ませたらどうしようとあっという間に心は不安で一杯になった。そんな心配を繰り返している内にいつしか瞼が重くなってきた。夏音はその重みに逆らうことなく静かに寝息を立て始めた。



 デート当日、夏音は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。目覚め瞬間から緊張しているのが分かった。バスケの公式戦を控えた時の緊張感と似ていると思った。

 朝食の味は分からなかった。着替えを済ませアイロンで毛先を少しカールさせ、ポニーテールに結んだ。化粧もしようと思ったが、ふだんやらないことをいきなりやると大抵失敗するといういつかの涼一の言葉を思い出してやめることにした。

 スマホを開くと茜から激励のメッセージが届いていた。意外なことに涼一からも来ていた。夏音は二人にお礼のメッセージ読んで元気をもらった。緊張も大分ほぐれてきた。出発する時間になったので家を出だ。外は見事なまでの晴天だった。

 電車のトラブルの影響で約束の時間から10分遅れで原宿駅に到着した。夏音は急いで待ち合わせ場所の竹下口に向かった。改札付近は日曜ということもあり大混雑していた。すぐに見つかるかと不安に思ったが杞憂に終わった。人より頭一つ分背の高い健吾はすぐに見つかった。健吾も夏音にすぐに気づき手を振った。

 「待たせてごめんね」

 初デートで遅刻なんて最低だと心の内で自分を責めた。

 「ううん。俺もきたところだから気にしないで」

 「ありがとう」

 「それより一つ謝らなきゃいけないことがあって」

 「なに?」

 「今日、家に親戚の叔父さんが来ることになって、17時までに帰らなきゃいけなくなったんだ。本当にごめん」

 健吾は申し訳なさそうな顔で謝った。夏音は少し残念に思ったが、その気持ちはおくびも出さずに言った。

 「そっか。それなら仕方ないよね。気にしないで大丈夫だよ」

 「ありがとう。さてと、早速行こう。時間がもったいない」

 「うん」

 「それにしても竹下通りは混んでるね」

 健吾は顔をしかめた。

 「竹下通りに行くの?」

 夏音は横断歩道の向こう側にある竹下通りに目をやった。確かに入り口から人が溢れかえっていた。

 「そうなんだ。行きたい店がそこにあるから」

 信号が青に変わり二人は並んで歩き始めた。二人きりと言う事実に夏音の気持ちが舞い上がった。改めて横にいる健吾を見た。健吾は細身のGパンを穿き、紺色のTシャツの上に白い長袖シャツを羽織っていた。奇しくも、白いワンピースを着てきた夏音とお揃いのようにもみえた。これまで制服かユニフォーム姿の健吾しか見たことが無い、夏音にとって、初めて目にする私服姿はとても新鮮に映った。

 「うわ。ほんとに凄いね」

 竹下通りは人の群れでごった返していた。人混みが苦手な夏音にとっては可能なら避けたい道だった。しかし、今日はそうもいかなかった。

 「とにかく行こう」

 健吾の言葉で二人は人混みを進もうとするが、前も後ろも横も人しか居ないため、歩くスピードは亀のように遅かった。横幅もないため、自然と二人の距離は近くなる。時々、肩と肩が触れ合う際に感じる微かな温もりが夏音をドキッとさせた。会話という会話は無かったが、夏音の心は幸福で満たされ始めた。

 「お、ここだ」

 スマホで見ていた地図アプリから顔を上げて健吾は言った。

 「ここだよ。ここのとあるものが美味しいって評判なんだって」

 健吾が嬉しそうに言った。夏音は店を見た。入り口の看板にはチェリーフと書いてあった。聞いたことのない名前だった。

 「結構並んでるな。お昼時だから仕方ないか」

 二人は最後尾に並んだ。

 「何のお店なの?」

 夏音がたまらず質問をした。

 「入ってからのお楽しみ」

 健吾はいたずらっぽく笑った。夏音は引き下がったが、あまりにもメルヘンチックな店に連れてこられて戸惑っていた。

 20分程経って二人は店内に案内された。店内は夏音の思ってたファンシーさは無かった。店内にはやはりと言うか、女子が目立った。店員に案内されて二人は席に着いた。健吾がすぐさまメニューを渡した。夏音は礼を言いながら受け取りメニューを開いた。そして、目を丸くした。メニュー表にはサクランボを使用した美味しそうなメニューが広がっていたからだ。

 「もしかしてここって・・・・・・」

 夏音はメニューから顔を上げて健吾を見た。

 「分かった?ここはサクランボを専門に扱ってるカフェなんだ。河口がよくお昼にサクランボを食べてるのを見てサクランボが好きかなと思ってここに来たんだけど」

 黙ってこちらを見つめている夏音を見て、健吾は自信無さげな顔を浮かべた。

 「あの違ったならごめん」

 「ううん。藤沢君の予想通りサクランボは大好きだよ。まさかサクランボの店に連れてきてくれるなんて思ってなかったから、凄い嬉しい」

 「そうか。良かった」

 夏音の言葉に健吾の顔に安堵の表情が浮かんだ。頬も少し紅潮していた。

 「でも。よく知ってたね」

 「たまたまテレビを見てたら特集されててさ」

 この言葉に嘘は無かった。サクランボが好きなことを涼一とのやり取りから気付いたとは言え、日々ワイドニュース等を見て探したのは健吾自身の努力だった。

 「そうなんだ。私もそれを見てたら、行きたいって思ってただろうな」

 「ほんとにサクランボ好きなんだね」

 「うん。小さい頃から大好き」

 夏音は少し恥ずかしながら言った。

 「そっか。今日は遠慮なくサクランボを堪能してください」

 健吾の物言いに夏音はクスクス笑った。夏音は改めてメニューに目を落とした。

 「これも美味しそう。あ、でもこっちも良いな」

 「好きなだけ迷えばいいよ」

 「藤沢君はもう決まったの?」

 「うん。俺はこのケーキセットにするから」

 「私も早く決めるね」

 夏音は迷った挙句、健吾と同じケーキセットを頼んだ。

 「同じので良かったの?」

 「初めて来たし、定番の食べて気に入ったら、次来た時は別の物を食べるから」

 「なら、是非とも気に入ってほしいな」

 「どうして?」

 「そしたら、また二人で来れるから」

 健吾のセリフに夏音の顔は真っ赤になった。何て返して良いのか分からず、話題を変えた。

 「そう言えば、藤沢君はこの店に入る時は恥ずかしくならなかった?」

 「何で?」

 「ほら、周りは女の子ばっかりだし、男の子が入るのは恥ずかしいんじゃないかなって」

 「あーそうだな。今はちょっと恥ずかしいけど、入る前は河口が喜んでくれるかどうかで頭が一杯だったから」

 「そ、そっか・・・・・・」

 夏音の心はKO寸前だった。恥ずかしくて顔が上げられなかった。もはや、狙って言ってるのではと考えたくなった。しかし、ここまで素直に言われるのとあまりにも自然に言ってのけられると、そうは聞こえないから不思議だった。顔は上げたものの夏音の心臓はこの上無く波打っていた。サクランボの味に関係なくこの店が気に入った。

 程なくして、注文の品がテーブルに揃った。二人はいただきますをして食べ始めた。味は美味しかった。夏音は健吾の会話上手にただただ感心していた。会話を転がすの上手く、夏音が一問一答のようにしか答えられなくても、その答えから話題を提供してくれた。時に自らの失敗談を披露して夏音を大いに笑わせることもあった。そのお陰で最初の方は緊張で上手く話せなかった夏音も徐々に会話のリズムに慣れ思いの外会話が弾んだ。

 「ごちそうさまでした」

 夏音はきちんと手を合わせた。

 「どうだった?」

 健吾が感想を求めた。

 「うん。とても美味しかった」

 あしゅまろには敵わないと思ったが、口には出さなかった。

 「また来ても良さそう?」

 「あ、うん。来れるなら来たいな」

 「それなら良かった。もうちょっとゆっくりしていたいけど、次の人も待ってるから出ようか」

 「そうだね」

 二人は席から立ちあがり、レジへ向かった。

 「申し訳ございません。只今、大変混雑してますので、ご一緒のお会計になります」

 店員が丁寧に言った。

 「ああ。そうですか。まぁ、元々も一緒に払うつもりでしたから」

 「えっ」

 「あ、ここは俺が出すから、財布しまって」

 「でも、申し訳ないよ」

 「良いから良いから。俺から誘ったんだから、それくらい出させてよ」

 健吾は夏音が取り出していた財布をしまわせた。二人のやり取りを店員が微笑ましく見守っていた。

 「いくらですか?」

 「1870円になります」

 健吾は二千円を出した。

 「ありがとうございました」

 店員からお釣りとお礼の言葉を受け取った二人は店を出た。

 「ありがとう。ごちそうさまです」

 夏音はすぐさまお礼を言った。

 「お粗末様ですって俺が言う言葉じゃないか」

 健吾の言葉に二人は軽く笑った。

 「まだ時間あるね」

 時間を確認した健吾が呟いた。

 「河口はどこか行きたい場所はある?」

 この後のことを全く考えて無かった夏音はその場で急いで考えたが思いつかなかった。仕方なく首を横に振った。

 健吾が少し考え思い付いたように言った。

 「そうだ。明治神宮に行ったことある?」

 「ううん。ないよ」

 原宿駅のすぐ近くにあるのに不思議と足を運んだことはなかった。

 「じゃぁ、行ってみない?」

 「うん」

 夏音は健吾は一つ一つ聞く人なんだなと思った。これが涼一だったら、こっちの意見も聞かずに連れ回すんだろうなと思った。

 「ん?どうした?」

 健吾がボーっとしていた夏音を見つめた。

 「ううん。何でもない」

 健吾の横に並んで歩き始めた。夏音はこんな時に涼一を思い出したことを心の中で健吾に詫びた。

 「竹下通りはさっきよりも混雑さが増していた。困ったことに二人が歩きたい流れは向こう側だった。二人は隙を見つけて何とか入り込んだ。その際に夏音は誰かの足に引っかかってしまってよろけてしまった。よろけた所を、健吾が腕を伸ばして夏音を支えた。

 「大丈夫?」

 健吾が優しく聞いた。

 恥ずかしさと嬉しさで夏音の顔がみるみる赤く染まった。

 「あ、ありがとう」

 これだけ言うのが精一杯だった。まさかこんな展開が起こるなんて思っても無かった。

 後ろがつっかえているので、体勢を直してすぐに歩き出した。そこから五分程で明治神宮の入り口に着いた。

 「こんなの広いんだ」

 明治神宮の地図を見た健吾が呟いた。

 「ほんとだね」

 夏音も同意した。花織神社とは比べ物にならないくらい広いなと思った。

 「歩き疲れない?」

 「大丈夫。こう見えても元バスケ部だったから」

 「そうだった。よし、行こう」

 京都の平安神宮に設置されている鳥居を連想させる大きさの鳥居の向こうは太くて長い砂利道が続いていた。だが、砂利道を歩いている人は少なく、参拝客は一様に両脇の僅かに舗装されているレンガ道を行儀よく歩いていた。二人もそれに倣って左側通行で歩き始めた。少し歩いた所で、左手に森林の中へと続く道を見つけた。曲がってすぐの所にベンチがあり、そこに座って森林浴をしている人もいた。

 「曲がってみようか?」

 「私はどっちでもいいよ」

 「なら、行ってみよう」

 二人は左に曲がり森林の中を進んだ。先ほどの砂利道はそれなりの人とすれ違ったが、こちらの道ではほとんどすれ違うことはなかった。

 「何か東京にいるとは思えないね」

 夏音が感想を漏らした。隣の健吾は黙って頷いた。

 二人がそう思うのも無理は無かった。二人が歩いている道は整備されているとは言え完全に森の中にだった。もし、何も知らずに目隠しいて連れてこられたら、ここが原宿だと思う人は恐らく居ないだろう。しかも、たまにすれ違うほとんどが外国人だった。

 そのまま二人は巨大迷路のような森林の中を適当な話しをしながら進んでいたら、急に空が開けて太陽の光を一身に浴びた。木造の建物が建っているそこは本殿だった。本殿は多くの外国人観光客で賑わっていた。日本人は夏音達を含めても10人にも満たなかった。

 「ねぇ、あそこに何か置いてあるよ」

 参拝を終えて周りを見渡していた夏音が指差したのは、御神木の所だった。外国人がペンを持って熱心に何やら書いていた。二人は看板まで近づき概要を読んだ。どうやら、お願い事を書いていくらかのお布施を包み、前に設置されている木箱に入れるシステムになっているようた。

 「せっかく来たんだし、書いてみようよ」

 夏音が提案した。

 「うん。良いよ」

 健吾が頷いた。

 二人はペンを持ち、お願い事を書き始めた。それから百円ずつお布施を包み封筒の中に入れ木箱に入れた。その瞬間頭にポツポツと雨が当たった。

 「雨?」

 夏音と健吾が同時に空を見上げた。空は分厚い雲で覆われていた。そして、雨粒はおおきくなり勢いが増してきた。

 「うわ。夕立か。とりあえず、雨が避けられる所に行こう」

 「あっ。私・・・・・・」

 夏音が何か言う前に健吾は夏音の手首を掴んで近くの屋根の下に連れていった。夏音は手首を掴まれた動揺で何も言えなくなってしまった。

 「あっごめん。痛くなかった?」

 健吾はサッと手を離した。

 「ううん。痛くないよ。ありがとう」

 夏音はまだドキドキしていた。

 屋根の下は他に避難してきた人達で溢れていた。しかも、ほとんが体格の良い外国人だったので、より窮屈に感じた。

 ふと、健吾の手の甲と触れ合った。夏音の左手はピクリと硬直した。健吾も同じような反応をした。だが、手を離すことはしなかった。夏音は横目でチラッと健吾を見た。健吾は緊張した面持ちで前を見つめていた。二人は降りしきる雨の音をただ黙って聞いていた。



 二人は夏音の最寄りである波花駅まで一緒に帰っていた。最初は見送りを遠慮していた夏音だが、健吾の熱意に負けて付いてきてもらったのであった。そして今は、健吾が乗る電車を待っていた。電車が遅延して中々来ないので、二人はホームのベンチに座っていた。

 「そう言えば、願い事は何て書いたの?」

 健吾が聞いた。

 「うーん、内緒」

 「人には言えない内容なの?」

 健吾は少し食い下がった。

 「ち、違うよ」

 「なら、どうして?」

 「笑われるから言いたくない」

 「笑わないよ。だから教えてよ」

 夏音と目を合わせた健吾の目は真剣そのものだった。

 「本当に笑わない?」

 夏音は念を押した。健吾は力強く頷いた。

 夏音は一呼吸置いてから、理由を話した。

 「神様にお願い事をするって言うことは、神様と自分だけの秘密になるから、その秘密を教えてしまうと、その願いは叶えてくれなくなるんだって。だから、言わないようにしてるの」

 話し終えた夏音は恥ずかしさで俯いた。

 「昔良くしてくれた神主さんに教えてもらったの・・・・・・」

 夏音は言い訳するように言った。やはり言わなければよかったと後悔した。

 「そっか。それは秘密にしておかないとだね」

 健吾は神妙に言った。

 「馬鹿げてるって思った?」

 「いや、全く」

 「良いの、そう思われても仕方ない・・・・・・」

 「思ってないよ」

 健吾は夏音の言葉を遮り、そして続けた。

 「そうやって、誰かの言葉を大切に持ち続けてるなんて素敵だと思った」

 「そ、そんなことはないよ」

 夏音はまた俯いてしまった。

 「むしろ、しつこく聞いた自分がバカだった。ごめん」

 健吾は頭を下げた。

 「そんな。謝らなくていいよ。笑わないで聞いてくれてありがとう。そんな風に言えることの方が素敵だよ」

 「ありがとう」

 健吾は照れ笑いを浮かべた。

 アナウンスが流れた。遅延していた電車が間もなく到着するみたいだった。二人は立ち上がって、入り口の位置に移動した。

 「藤沢君は何てお願いをしたの?」

 「今の話しを聞いた後だと、言いづらいな」

 健吾は苦笑いをした。

 「あ、ごめん」

 夏音は少し落ち込んでしまった。

 その様子に気付いた健吾は慌てて言った。

 「冗談だよ。俺にはそう言うジンクスが無いから教えるよ。まぁ、ありきたりだけどバスケのこと。チームとして良い成績が残せるようにって書いた」

 「藤沢君らしいね」

 個人ではなく、チームを意識する所が本当にカッコイイと思った。

 電車がプラットフォームに入ってきた。もう二人きりの時間が終わってしまうのかと思うと、急に寂しさが夏音の胸を襲った。帰らないでの一言が言いたかったけど、それでは健吾を困らせるだけだと思い、必死に心の中で留めた。

 「実はもう一つ願い事を書いたんだ」

 「何て?」

 「好きな人と結ばれますようにって」

 「えっ」

 夏音は思わず健吾を凝視した。健吾は見つめ返した。

 暫し見つめ合う二人。電車が通った時の風切り音だけが沈黙を破った。電車が止まると、健吾がスッと目を逸らした。

 「また誘っても良いかな」

 「うん。楽しみにしてるね」

 夏音ははにかんだ笑顔で頷いた。

 その笑顔を見た健吾は嬉しそうに頷いて、電車に乗り込んだ。

 電車がゆっくりと動き出した。健吾はニッコリ笑って手を振った。夏音にはその笑顔が何よりも眩しく映った。健吾の姿が段々と見えなくなっていく。夏音は電車がその視界から消えるまで見送った。



 夏音は幸福な気持ちに満たされたまま家に帰った。ご飯がいつもより美味しく、お風呂がいつもより気持ち良く感じた。頭の中は常に今日の思い出が波のように寄せては舞い上がっていた。

 健吾と遊びに行くことは、ほんの一週間前までは雲を掴むような話しだと思っていた。それがこんな大成功に終わり、舞い上がるなという方が無理だった。あまりにも上手くいきすぎたので、この先の運を使い果たしたのではないかと疑いたくなった。夢心地という表現ですら生温いくらいに夏音の気持ちはフワフワしていた。

 ”好きな人と結ばれますように”帰り際の健吾の言葉を思い出した。健吾の好きな人が誰なのか聞きたくて堪らなかったが、もし、自分以外の人だったら、気まず過ぎるし、何より辛過ぎて聞けなかった。もしも、健吾に告白されたら自分は何て答えるのだろうと考えた。はいと答えたいけど、どうしてたが心に引っかかりを覚えた。ただそれがなんであるのか分からなかった。デートで大きな幸福感を得ているのは間違いなかったが、違和感を抱いていた。開けてはいけない扉を前にしているような感覚だった。その扉を開いてしまうと、何かがひっくり返ってしまう気がした。せっかく幸福な気分なのだから、これ以上不吉なことを考えるのはよそうと、その扉を無理矢理消し去った。

 ラインの通知が鳴った。スマホを見ると、健吾からメッセージが届いていた。律儀な健吾らしく今日のお礼と楽しかったという旨の内容だった。夏音はすぐに同じようなメッセージを返した。再び、高揚と幸福に包まれた。今はこの幸せに心を包んでいようと思った。夏音はカーディガンを羽織りベランダに出た。少し冷たい風が夏音の髪をくすぐった。

 明日はどんな顔をして健吾に会おうかと思った。今日のことを思い出して、上手く話せないような気がしたが、むしろ、それが普通だから仕方ないと開き直った。後、茜に質問攻めにあうだろうと予想した。話しを聞いたら、きっと喜んでくれるに違いないと思ったら、早く茜に会いたくなった。こんなにも明日が待ち遠しいと思った
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