蒼く恋しく
揺れる心
   電話で謝ったことで夏音と健吾の関係は以前のような穏やかなさを取り戻した。心に引っ掛かりを覚えているとはいえ、健吾と仲直り出来たことは夏音にとって元気を与えてくれるものだった。

 いつものようにお昼を食べながら、茜に涼一とえりかのことや健吾と喧嘩をしたことを洗いざらい打ち明けた。茜は健吾に憤った態度を見せたものの、夏音が納得して仲直りしたのであれば、それに越したことはないと素直に喜んだ。

 「それにしても、涼一と永瀬の二人がねー」

 「でも、付き合ってるようには見えなかったよ」

 「それ、夏音の願望じゃなくて?」

 「違うよ。本当にカップルのような空気は感じられなかったけどな」

 「まぁ、この事に関しては何も言えないわね。正直、あの二人が付き合っていたとしても、何か言えるわけじゃないし」

 茜はお弁当に入っていたブロッコリーを摘まんで口に入れた。あまり美味しくなかったのか、顔を顰めた。

 「そうなんだけど」

 夏音は浮かない顔をした。

 「夏音はどう思ってるの?」

 「どうって?」

 「あの二人が付き合うことに関してどう思ってるの?」

 「それは・・・・・・私がどうこう言うことじゃないし」

 「そういう大人びた意見じゃなくて、もっと感情的な意見が聞きたいの」

 「・・・・・・」

 夏音は沈黙した。ハッキリと嫌だと思っているのだが、何故嫌なのか説明が出来なかった。

 「ねぇ、前から聞きたかったんだけどさ、夏音は涼一のことどう思ってるの?」

 茜は遠慮がちに聞いた。

 「ただの幼馴染みだって言ってるでしょ」

 夏音は少し辟易した口調で答えた。

 「本当に?」

 「本当に」

涼一だってそう思っているに違いない。

 「なら、涼一が誰と付き合うとか気にする必要は無いんじゃないの?」

 「それはほら・・・・・・長い付き合いだからちょっとは気になるだけで」

 「じゃぁ、もう気にしないで良いでしょ。それよりも藤沢との仲を深めることを考えていれば良いじゃん」

 「そうなだけど・・・・・・」

 「夏音あんた。迷ってるでしょ?」

 「迷う?」

 「涼一か藤沢かで心が揺れ動いているように見えるけど?」

 「な、何言ってるのよ。どうして、涼一と藤沢君じゃ比べる間でもないよ」

 「そう?」

 「そうだよ。もうそんな勝手な推測は止めてよね」

 「そっか。ごめんね。困らせること聞いちゃって」

 「大丈夫。あ、私トイレ行ってくるね」

 夏音は急いで教室から出て行った。

 「噓つき」

 茜はその後ろ姿に向かって小さく溜め息をついた後、悲しげな瞳でそう呟いた。



 夏音がトイレのドアを開けると、女生徒が手を洗っていた。その女生徒は何とえりかだった。お互いに気付いた二人は少し驚きの表情を浮かべた。夏音は目を合わせないように軽く俯いきながら後ろを通り過ぎようとした。意外なことにえりかが声をかけた。

 「ねぇ、ちょっといい?」

 「はい?」

 「今日、一緒に帰らない?」

 「えっ?」

 「今日、あなたと一緒に帰りたいの」

 「誰がですか?」

 「私に決まってるでしょ」

 「どうしてですか?」

 同級生相手だと言うのに、何故か敬語になってしまう。

 「河口さんと話したいから、一緒に帰りたいの」

 「私と話しですか?」

 夏音は怪訝な顔をした。

 「そんな怖い顔しないでよ。ただ親交を深めたいだけよ」

 夏音はえりかが何を考えているのか、サッパリ分からなかった。

 「ねぇ、どうなの?ダメかしら?」

 「ダメではないですけど」

 夏音は迷っていた。えりかと一緒に帰るななんて、普段なら絶対に断っている所だが、夏音自身もえりかに聞きたいことがあった。

 「OKってことでいいかしら。放課後、校門の所で待ってるわ」

 えりかは夏音の返事を待たずにトイレから出ていった。



 約束通りえりかは校門で待っていた。夏音は涼一が居ないことに安心した。もし、涼一も居て付き合ってると言われたどうしようと心配していた。夏音に気付くと、えりかは優雅な笑みを携えながら近づいてきた。

 「良かった。私より先に帰って、約束を反故されることも考えていたから」

 出来ることなら今からでもそうしたいと思ったが、「そんなことはしません」と答えた。

 「さ、行きましょう」

 えりかが歩き出し、夏音は黙って後を追った。

 校門でを出てすぐにえりか切り出した。

 「順調そうね」

 「えっ?」

 「藤沢君とよ。一昨日もデートしてたし、もう付き合ったのかしら?」

 夏音の気まずさをよそにえりかは気軽に質問した。

 「まだ付き合ってるわけじゃ・・・・・・」

 「まだってことは、もうすぐ付き合うのね」

 「そんなこと分かりません」

 「付き合うことは否定しないのね」

 えりかはからかうように言った。夏音はムッとしたがえりかがまたすぐに話し始めた。

 「それにしても、一昨日は驚いたわ。まさかあなた達を見かけるなんて。遊んでる途中で立花君に言ったら血相を変えて帰っていったわ」

 「涼に言ったんですか?」

 夏音はまさかという顔をした。

 「正直、あなたを探しにいった立花君を見て嫉妬したわ。でも、あなたには藤沢君がいるから、嫉妬することも無くなりそうで安心ね」

 「別に付き合うと決まってる訳じゃありませんから」

 「好きなんでしょ?」

 「それはまぁ」

 「随分と歯切れが悪いわね。もしかして、立花君のことどこかで想ってるんじゃないの?」

 「違う!この前も言ったけど、涼はただの幼馴染みで、好きとかそうゆう風に見れないの」

 茜と言いえりかと言い、どうして涼一のことをそんなに好きにさせたがるのか理解に苦しんだ。

 「そう。それなら、立花君がアメリカに行っても寂しくはないわね?」

 「急に何の話し?」

あまりにも脈略のない話題に夏音は怪訝な表情を作った。

 「立花君がアメリカに行きたいと思ってるのは、知ってるわよね?」

 夏音は頷いた。

 「寂しい?」

 「寂しいけど、涼がアメリカに行く頃には私達の関係ももっと薄くなってるだろうから、そこまで寂しくは思わないと思う」

 「そう。なら、もうすぐ行くって言ったら?」

 「涼はもうすぐアメリカに行くって言ったの?」

 夏音は驚いた。同時に胸に言いようのない不安と怒りが押し寄せてきた。

 「もしもの話しよ」

 「そうゆう冗談は止めてください」

 夏音はえりかを睨んだ。

 「けど、あり得ない話しじゃないと思うの。あの立花君なら、ある日突然行くって言い出しても不思議じゃないと思うわ」

 「それは・・・・・・」

 言われてみればそうかもしれないと夏音も思った。だけど、もし今の話しが現実になったとしても、自分には言わないはずがないと思えた。それにしても、涼一がえりかにここまで自分の話しをしていることに複雑な気持ちを抱いた。果たして、二人はどこまで仲を深めているのか気になって仕方なかった。

 「あくまでも、もしもの話しだからそこまで気にしないで」

 それから二人は無言だった。

 「今日は時間を取らせてごめんね。さようなら」

 えりかは夏音に背を向けた。

 その背中に夏音は声をかけた。

 「二人こそ・・・・・・」

 夏音の言葉にえりかは足を止めて振り返った。

 えりかと目が合った途端、夏音は言葉を飲み込んだ。聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが激しく揺れ動いていた。

 「二人こそ?なに?」

 えりかは口元に微かに笑みを浮かべていた。

 夏音は勇気を振り絞って聞いた。

 「二人こそ付き合ってるの?」

 えりかは一歩近づいた。

 「さぁ?そんなことは私の口からは言えないわ。そんなに知りたいなら、明治神宮の神様に聞いてみたら?教えてくれればの話しだけど」

 えりかは痛烈な嫌味を放ち、クルリと背を向けてバス停に向かった。

 残された夏音はえりかの言葉にただ茫然とするだけだった。



 茜はあしゅまろの近くにある公園で時間を潰していた。あしゅまろに閉店時間まで粘り、店を出た後も帰らなかったのは、バイトを終えた涼一に用があるからだった。スマホの時間を見てそろそろ涼一が出てくる頃だと予想した夏音はあしゅまろに戻った。茜は近くの電柱に身を隠して涼一が出てくるのを待った。端から見たら、完全なストーカーだったが、誰かに見られることはなかった。

 程なくして、あしゅまろの扉が開き、中から涼一と沙織が出てきた。茜は姿を現して声をかけようとしたが、沙織が二人が別れるまで待つことにした。それに、二人がどんな様子で帰るのか気になった。沙織と涼一は一緒に歩き始めた。茜はその後を慎重に追いかけた。やがて、十字路で二人はあっさりと別れた。特に何事も無かったので、茜は少しつまらないなと勝手に思っていた。涼一は十字路を真っ直ぐに進んだ。茜は小走りで追いかけ、涼一の肩を叩いた。

 「茜」

 振り向いた涼一は予想外の相手に驚き半分戸惑い半分の表情を浮かべた。

 「びっくりした?」

 「さすがに」

 「ごめんね。どうしても、涼一と話したいことがあって」

 「だろうな。でなければ、ここには居ないだろ」

 相変わらずの察しの良さだと思った。

 「なら、用件も大体予想がつくでしょ」

 「ああ。上野のことだろ。立ち話しも何だし、近くの公園に行こう」

 「うん」

 移動した公園は先程まで茜が時間を潰していた公園だった。茜はブランコに腰を掛けたが、涼一は立ったままだった。

 「それでどうなの?」

 茜が早速聞いた。

 「ハッキリ言えよ」

 「永瀬とは付き合ってるの?」

 「やっぱりそのことか」

 涼一は少しうんざりとした口調で言った。

 「別に付き合うなとか言わないから安心して」

 「そんな心配はしてない。そもそも、俺が誰と付き合うが俺の自由だ」

 「じゃあ、やっぱり」

 「二人ともそう結論を急ぐな」

 「二人?」

 「なつの事だよ」

 「何で夏音が出てくるのよ」

 「なつも永瀬に同じことを聞いたそうだ」

 「夏音が?」

 茜は驚いた。

 「今日、永瀬がなつと一緒に帰ったらしく、その時に聞かれたそうだ。二人は付き合ってるのって」

 「それで永瀬は何て答えたの?」

 「そんなこと私の口から言えはしないと言った後に、知りたいなら明治神宮の神様にでも聞けとだってさ」

 「はあ?何それ」

 「皮肉を言ったんだろ。なつが藤沢と明治神宮でデートしたから」

 「嫌な女」

 茜が吐き捨てた。

 「まぁそう言うな。永瀬自身も口にして後悔してるから」

 「どうして、涼一は永瀬には優しくするの?」

 「優しいか?」

 「だって、上野に行ったんでしょ。なつ以外に女子と二人で出掛けるなんて、どうゆう風の吹き回しよ」

 「二人・・・・・・ね。永瀬と上野に行ったのは俺が行きたい博物館のチケットを持っていたからだ。それ以外に何もないよ」

 「博物館だからよ。涼一が恐竜を好きなのか知ってる。だからこそ。そうゆう所には一人で行くのが涼一じゃない。女の子と一緒に行くなんて変よ」

 「勉強は出来ないのに、そうゆうことは鋭いんだな」

 「茶化さないで」

 「冷たくは出来ない。それだけだよ」

 「優しいと一緒じゃない」

 茜は首を傾げた。

 「全く違う」

 「まぁ良いわ。なら、永瀬とは付き合ってないのね」

 「今の所はね」

 「付き合う気はあるわけ?」

 「そんなこと分からない」

 「夏音にことが好きなのに?」

 ついに言ってしまったと思った。しかし、気付かない振りをするのも疲れたのも事実だった。

 「何だって?」

 涼一の声に僅かな動揺が見られたのを茜が見逃さなかった。茜は畳みかけるように言った。

 「夏音ことが好きなんでしょ。ずっと前から」

 「何を言ってる。なつはただの幼馴染みだよ」

 「嘘言わないで!」

 茜は思わず立ち上がった。

 「ただのだなんてこれっぽちも思ってないくせに。涼一が夏音の事を好きなのはずっと気付いてた。涼一の頭なら高校も選びたい放題なのに、わざわざ今の高校にしたのは夏音の側に居るためでしょ。なのに、ずっと自分の気持ちを誤魔化し続けて。そのくせ、中途半端に夏音の側に居て、本当は傷つくのが嫌なだけでしょ。夏音に嫌われるのを怖がっているだけじゃない。あんたみたいな意気地なしが中途半端に夏音の側に居ても夏音からしたらいい迷惑よ。どうせなら、永瀬と付き合えば良いのよ」

 茜は一気にまくし立てた。目は真っ赤になり少し泣いていた。

 「茜・・・・・・」

 「あんたのその中途半端な行動で夏音がどんなに傷ついたか分かってるの?夏音は、本当はあんたの事・・・・・・」

 言いかけて茜はグッと声を抑えた。それ以上は言ってはいけないと我に返った。

 涼一はただ茜をジッと見つめていた。

 「何か言いなさいよ」

 「やっぱり、バレてたか」

 涼一は観念したような面持ちで言った。その落ち着いた声は茜の気持ちを一気に静めてくれた。

 「バレバレよ」

 茜は腕を組んだ。

 「だよな」

 涼一は苦笑いを浮かべた。

 「それにしても、いつから気付いてたんだ?」

 「一年生の最初の時期から薄々気付いてたわよ」

 「そんな前から。上手く隠してたつもりだったが」

 「気づいてって言ってるようなもんよ」

 「なつは全く気付いてないけど」

 「こうゆうのは当事者は気づきにくいものよ」

 「何故、ずっと黙っていたんだ?」

 「私から言う事じゃないでしょ」

 「じゃぁ、何故今になって言おうと思ったんだ?」

 「それは・・・・・・」

 茜は言葉を詰まらせた。

 「言いにくそうだな」

 「ごめん。今は迂闊に話せない」

 「そうか。まぁいいさ」

 「涼一はさ、いつから夏音のことが好になったの?」

 「さぁ?気付いたらとしか言いようがない」

涼一は遠くを見るような目付きで言った。

 「他に目移りしたことはなかった?」

 「してたら、夏音の側には居ないさ」

 「本当に一途だね」

 「バカみたいだろ」

 「ううん。素敵だよ」

 「こんなこと言うのも恥ずかしいけど、俺の幸せの中にはいつもなつがいるんだ。それは、これからも変わらないと思う。もし仮になつ以外の女性を好きになるとしても、なつみたいな女性を探すだろうな」

 「そこまで思ってるのに、藤沢となつが付き合うのは嫌じゃないの」

 「もちろん嫌だよ。だけど、今は何も出来ない。納得するしかないんだ」

 「どうして?それだけ想ってるなら、伝えれば良いじゃない」

 「それだけ想ってるから、伝えるのが辛い事だってあるんだ。何もかも伝えれば良いなんて俺は思わない」

 「このまま夏音が藤沢と付き合って結婚したらどうするのよ。伝えれば良かったなんて後悔しても遅いのよ」

 「後悔なんてしないさ。そもそも、あの二人が仲良くなったのは俺のお陰だ」

 「どうゆう意味よ?」

 「藤沢になつがサクランボを好きなことを教えたのは俺だ」

 茜はこれ以上はないくらい驚いた顔をした。

 「何で?どうして?」

 「藤沢だったから」

 「そこまで藤沢のことを買ってるの?」

 「ああ。藤沢程誠実で真っ直ぐな人間はいない。あいつは夏音の心まできちんと理解しようとしてる。決して外見だけに寄って来る馬鹿どもは違う。あいつならきっと夏音の心まできちんと理解出来るはずだ。俺みたいな自己中な男よりよっぽどなつを幸せに出来るはずだよ」

 「涼一・・・・・・」

 「それにその二人が上手くなら、俺は心置きなくなつから離れられる」

 「ちょっと、それどういう意味よ」

 「そのままの意味だ」

 「あんたまさか・・・・・・」

 全てを察した茜は涼一を凝視した。

 涼一はただ黙って悲しく微笑むだけだった。



 公園でのお喋りを終えた涼一と茜は駅に向かっていた。

 「今日は無理矢理でも来て良かった」

 茜が言った。

 「今日は?いつも無理矢理なくせに」

 「ごめん・・・・・・」

 茜は元気をなくしていた。

 「いや、別に良いんだ」

茜の落ち込み具合を見て、涼一は取り繕うように言った。

 茜が急に立ち止まり、塀に張ってあるポスターを見た。

 「花火大会まで後一ヶ月だね」

 「もうポスターを張ってあるのか」

 「藤沢は夏音を誘うかな」

 「誘うはずさ。そして、告白するはずだ」

 「そうだよね」

 「花火大会より前に付き合ってもおかしくはないしな」

 「涼一は花火大会どうするの?」

 「もちろん見るよ。とっておきの場所でね」

 「とっておきの場所って?」
 茜が聞いた。

 「悪いがそれは言えない」

 「秘密が多すぎる男は嫌われるよ」

 「茜は俺のこと嫌いか?」
 
 「困ったことに大好きよ」
 
 茜は少し呆れたようでそれでいて納得したようにいった。

 「なら、俺には十分だ」
 涼一は嬉しそうにいった。

 波花駅に着いた。

 「涼一」

 「ん?」

 「夏音にはいつ言うつもりなの?」

 「分からない。けど、まだ先になる」

 「でも、夏音だけ知らないままなんて可哀想すぎるよ」

 「分かってる。必ず俺の口から言うさ。茜も辛いだろうけど、夏音はおろか誰にも言わないでくれ」

 「うん。分かった」

 「ありがとう」

 「ねぇ涼一に一つだけお願いがあるの。もしかしたら、涼一を傷つけてしまうかもだけど」

 「言ってみろよ」

 「ずっと夏音の頼れる幼馴染みでいてあげて。虫の良いお願いなのも、涼一にとって酷な事は分かってる。けど、どんな形であれ夏音の側には涼一が居ないとダメだって分かる」

 「それは俺が決めることじゃなくて、なつが決めることだ」

 「ううん。夏音もきっとそう望むはずよ」

 「そうだと良いけどな」

 「このお願いを聞いてくれるなら、私の出来ることなら何でも涼一に協力をするから」
 
 茜はほとんど懇願するかのようにいった。

 「本当に何でも協力してくれるんだな?」

 「うん。まあ、私が涼一に出来ることなんてたかが知れてるけど」

 「それなら、一つ頼むよ。茜にしか出来ないことを」

 「私にだけ?」

 「そうだ」

 「な、何よ」

 茜は一体どんな無理難題を言われるのだろうと身構えた。

 「ずっとなつの親友でいてくれ」

 「涼一・・・・・・」

 涼一の言葉に茜は泣きそうになった。

 「このお願いさえ聞いてくれるなら、これ以上に望むものはないよ」

 涼一の声は今までに聞いたことないくらい優しい声だった。

 「それならいくらでも任せてよ」

 もはや涙声だった。

「ありがとう茜。やっぱりお前は最高の友達だ」

涼一はありったけの笑顔を浮かべた。

その笑顔を見た茜はついに涙を堪えきれなくなった。



 期末テストが近づいてきたので、中間テストの時のように夏音と健吾は図書室で勉強していた。しかし、健吾はあまり集中していなく、度々窓の外に映る体育館の屋根を見つめては憂鬱そうに溜め息をついていた。健吾達バスケ部インターハイ予選を順調に勝ち進み県ベスト16に残る快挙を成し遂げていた。しかし、テストは待ってくれず、無情にも練習時間は奪われてしまった。元々、スポーツに力を入れている高校でもないので、学校側はベスト16で十分な成績だと考えていた。なので、バスケ部員が特別に練習したいと言っても、学校は聞き入れなかった。バスケ部は大いに文句を言ったが、誰よりもベスト16入りに貢献した健吾は特に文句を言わなかったので、部員達も渋々諦めた。しかし、こうして体育館を見ているということは健吾も頭からバスケを完全には切り離すことは出来なかった。

 その隣で勉強をしている夏音も別のことで頭が一杯で全く集中出来てなかった。このままでは、前回より成績が落ちるのは火を見るより明らかだった。

 えりかと一緒に帰えらなければ良かったと今更ながら後悔していた。涼一とえりかが付き合っているのか知ろうとしたのに、二人の親密さを見せつけられた挙げ句、痛烈な皮肉を言われと、まさに踏んだり蹴ったりだった。加えて、話しがあると言ったのに、全くが学校に来ない涼一にも腹立たしさを感じていた。これで成績が落ちたら何もかも涼一のせいだと、ここには居ない涼一に八つ当たりした。

 不意に肩をトントンと叩かれた。横見ると、健吾が心配そうな顔で夏音を見ていた。

 「さっきから手を止めて、眉間に皺を寄せて凄い考え込んでるけど、また具合でも悪くなった?」

 「いや、今日は違うよ。心配かけてごめんね」

 「立花のこと考えていたでしょ」

 「あっいや」

 見透かされたことを咄嗟に隠せる程、夏音は器用じゃなかった。

 「図星のようだね」

 健吾は苦笑した。

 「ごめん・・・・・・」

 「別に責めてるわけじゃないよ。何をそんなに悩んでるのか話してくれるなら、聞きたいなと思って」

 「でも、そんなに大した事じゃないから」

 「大した事じゃないのに、そんな怖い顔をしてたの?」

 「えっと」

 嘘をつくのが本当に苦手なので、上手い言い訳がパッと思いつくわけがなかった。

 「まぁいいや。誰にでも話したくないことはあるよね。余計なことを聞いてごめん」

 健吾は謝って自分の勉強に戻った。

 夏音は健吾の健気な優しさに胸を痛めていた。少し前まではこの優しさが何よりも温かく感じていたのに、罪悪感からか心が縛りつけられるような痛みをここ最近は感じていた。そして、夏音には気付いてしまったことがあった。健吾と自分の会話にはお互い謝ることが多かった。相手のことを気遣いし過ぎるあまりに、すぐに謝ってしまうのだった。謝ることはとても大事な事だと分かってはいるが、こうも多いと無駄な衝突を避けたいが為に謝っているだけな気がしてならない。本音を言い合って衝突したら、簡単に壊れる仲であることを認めているようなものだった。本当に親密な仲になるならば、多少のぶつかり合いを必要だし、ただ相手の要求を応えるだけが恋愛ではないと思い始めていた。

 もし健吾が今の会話の流れで謝るのではなく、もっと強く問い詰めてきたら夏音は話していたはずだった。でも、健吾はアッサリと引き下がってしまう。あまり強く要求して夏音に嫌われるのが怖いがためだった。もう一つ気付いたことがある。二人とも相手を染める側ではなく、相手に染められる側だった。その事に気付き始めた夏音はこのまま健吾と付き合っても、お互いに求め合える仲になれるのかという不安をどうしても拭いきれなかった。

 「藤沢君ごめんね。きっと話せる日が来るから」

 夏音は精一杯明るく言った。

 「分かった」

 健吾は笑顔で頷いた。

 夏音の虚勢を張った明るさを素直に信じてしまうのが、健吾の最大の美点でもあり弱点だった。夏音は自分の嘘に気付いてほしいもどかしさと、素直に話せない自分の至らなさに責められ、その日は全くと言っていいほど勉強にならなかった。



 そして時は流れ期末試験が始まった。テスト期間中は涼一もちゃんと登校するため、本来ならこの期間は涼一と一緒に登校するのだが、今回は一緒に登校するのを避けていた。学校ですれ違ってもお互い挨拶は交わすものの特に会話をすることもなかった。夏音は悶々とした気持ちを抱いていたが、自分からは何も話しかけまいと頑なな態度を崩さなかった。

 今回の期末テストは土日を挟んで行われるため、金曜日のテストが終わると、一時的な開放的な気分を学校全体に漂った。夏音もその気分を十分に味わった。正直な所、テストの出来はそこまでだったと感じていたが、自分の大学受験にはあまり必要のない教科だったので、あまり気にしないことにした。

 「夏音。帰ろー」

 茜が教室の扉から顔を覗かせた。

 「うん」

 夏音は問題用紙をカバンにしまった。

 「あれ?藤沢は?」

 「職員室」

 「そっか」

 健吾を待つために茜は教室に入り、夏音の前の席に座った。

 健吾が戻ってきたので、三人は廊下出た。廊下に出ると同じく職員室から戻ってきたえりかの姿が三人の目に映った。夏音はサッと目を逸らした。あの一件をまだ根に持っていたので、顔を合わせるも嫌だった。当のえりかは下を向いて歩いていて、前から歩いてこる三人に気付く様子もなかった。

 ほとんど目の前に来てもえりかは顔を上げなかった。三人はえりかにぶつからないように少しずれた。えりかの横を通り過ぎる寸前、えりかが膝から崩れ落ちた。三人は驚いたものの、反射的にえりかの側に近寄った。

 「ちょ、ちょっと、大丈夫?」

 茜が心配そうに声をかけた。

 「大丈夫」

 えりかは今にも消えかけてしまいそうな弱々しい声で答えた。異変を察して他の生徒たちも周囲に集まってきた。

 「大丈夫だから」

 えりかはそう言って、壁に手をついて立ち上がろうとした。

 「無理するな」

 今度は健吾が声をかけた。

 えりかが何やらボソボソと呟いた。そして、またへたり込んでしまった。息遣いが荒く、はた目から見てもかなり苦しいのが分かった。夏音は何と声をかけたら良いのか分からず、オロオロするばかりだった。その時、周囲のどこかから聞き慣れたた声が聞こえた。

 「どうした?何かあったのか?」

 極めて不機嫌そうな声だったが、夏音はすぐに顔を上げて涼一を探した。涼一と目が合った。涼一に目で助けを求めた。涼一は軽く頷くと人混みを掻き分けた。えりかのへたれ込んでいる姿を見た涼一は素早くえりかに駆け寄り、掌をえりかの額に当てた。

 「熱いな。永瀬。大丈夫か」

 「ごめん・・・・・・立花君・・・・・・今日はどうしてもすぐに帰らなきゃいけないの」

 えりかが息も絶え絶えに言った。

 「歩くのだってままならないのに無茶を言うな」

 「でも・・・・・・今日は・・・・・・」

 「もう喋るな。とにかく、保健室に連れて行くから」

 涼一はえりかをお姫様抱っこで抱えた。

 「なつ」

 「う、うん?」

 「永瀬のカバンを教室から持ってきてくれ。席は右端の一番前だ。頼んだぞ」

 涼一それだけ言うと、急いで保健室に向かった。

 夏音は涼一の指示に従い、教室からカバンを取ってきて保健室に向かった。

 既にえりかはベッドに横になっていた。苦しそうに唸っていた。その様子を保健室の先生である加藤先生が険しい表情で見ていた。

 「涼。カバン持ってきたよ」

 「ああ。ありがとう」

 涼一は夏音からカバンを受け取り、近くの棚に置いた。

 「永瀬の容体はどうですか?」

 「風邪かと思ったけど、違うようね」

 「では、なんですか?」

 「恐らく、過労ね」

 「過労・・・・・・」

 涼一が咀嚼するように呟いた。

 高校生には聞き慣れない言葉だった。

 「余程、疲れが溜まってみたいね」

 「特に心配はないんですか?」

 涼一が聞いた。

 「このまま寝かせておけば大丈夫」

 涼一と夏音は安堵のため息をついた。

 「とりあえず、保護者の方に連絡してくるから、あなたたちは帰りなさい」

 「あ、先生。僕も付いていきます」

 「別に立花君が来る必要はないわよ?」

 「そこを何とかお願いします」

 「まぁ良いでしょう。他の先生方にも状況なりと説明しなきゃいけなし」

 「ありがとうございます。なつ、校門の所で待っててくれ。くれぐれも帰るなよ」

 「どうして?」

 「どうしても。後で説明する」

 涼一は加藤先生と保健室を出ていった。

 夏音は何が何だが分からなかったが、こうゆう時は逆らわずに従った方が良いと心得ているため、校門で待つことにした。一人で待つの何だと思い、茜に校門にいると連絡を入れた。

 茜と健吾は心配そうな顔をして校門にきた。

 「永瀬大丈夫だったの?」

 いくらえりかが憎たらしい存在とは言え、さすがの茜も不安げな顔を覗かせていた。

 「過労だって。先生が言うのはこのまま寝かせてれば大丈夫だって言ってたよ」

 「過労?高校生なのに?」

 茜が怪訝な表情を浮かべた。

 「でも、先生がそう言ってたから」

 「立花は保健室に残ってるのか?」

 「ううん。加藤先生に付いていって、他の先生達に説明しに行ったよ」

 「そうか。それにしても、永瀬のやつ何でそんなに疲れてたんだろう」

 夏音も健吾と同じ疑問を抱いていた。高校生が過労で倒れるなんて聞いたこともない。部活でもやっていればと思ったが、今の時代過労で倒れる程の練習をさせていたら大問題に発展する恐れだってある。なので、部活動の時間は学校側から厳しく制限されていた。もっとも、今はテスト期間なので部活動は活動禁止だし、そもそもとして、えりかは部活に所属していなかった。夏音にはもう一つ気になる点があった。あれほど辛そうにも関わらず、帰ろうとしていたのは何故だろうと気になっていた。

 「悪い。待たせたな」

 涼一が校門にやってきた。

 「涼一。永瀬は本当に大丈夫なの?」

 茜がもう一度聞いた。

 「大丈夫だ。ここに来る前に様子を見たけど、呼吸も落ち着いてたし、夜まで寝れば家に帰るくらいの元気は戻るよ」

 「そう。それなら良かった」

 茜が肩の力を抜いた。

 「親には連絡がついたのか?」

 健吾が聞いた。

 涼一は一瞬答えるのに躊躇う素振りををみせたが、それに気付いたのは夏音だけだった。

 「ああ。親に連絡したら、タイミングが悪く名古屋に出張中だそうだ。でも、すぐに戻ると言ってたから、夜にはこっちに戻ってくるだろう」

 「えっ。でも、お母さんは?」

 茜が最もな疑問を口にした。

 涼一はそれには答えずに夏音に言った。

 「なつ、頼みがある。今から俺と一緒に来てくれ」

 「えっ。ど、どこに?」

 「説明している暇はない。すぐに行くぞ」

 涼一は夏音の手を掴んで引っ張った。

 「でも・・・・・・」

 夏音は足を止めた。

 「嫌か?」

 「そうじゃなくて、どうしたのほんとに」

 「ここじゃ言えないんだ。とにかく来てくれ。頼む」

 涼一は見せたこともない切実な目をしていた。そんな目で見つめられた夏音は断ることが出来なかった。

 「わ、分かったよ」

 「悪いな藤沢。今日だけなつを借りる」

 「あ、ああ」

 健吾はそれしか言えなかった。

 涼一は夏音の手を掴んだまま足早の歩き始めた。

 「ちょっと、涼」

夏音は半ば強引に連れ出された。

残された茜と健吾はただただ呆然とするしかなかった。



 涼一は駅のバス停で止まった。

 「バスに乗るの?」

 黙って連れて来られた夏音が聞いた。

 「そうだ」

 涼一はようやく夏音から手を離した。

 夏音はどこ行くのか聞きこうとしたが、涼一の方が先に話しかけた。

 「手は痛くないか?」

 「う、うん。大丈夫」

 あまりにも咄嗟の出来事だったので、意識する暇がなかったが、改めて涼一と手を繋いでいたことを思い出して、急に気恥ずかしくなった。

 「なら、良かった。悪いな。何も言わずに連れ出したりして」

 「ううん」

 二人はやって来たバスに乗った。先に並んでいた人が多かったので、並んで座ることは出来ず二人は少し離れた席に座った。夏音は涼一が斜め前に見える位置に座った。こんな時だと言うのに、涼一と二人で行動することに何となく浮足立った。

 二人は六つ先のバス停で降りた。そこは市営住宅が建ち並んでいる所だった。涼一はグーグルマップを開いた。

「こっちだ」

涼一は歩き出した。夏音はその後を付いていく。

涼一はマップの指示に従い、スイスイと歩いていった。先ほどの市営住宅からは離れ、今は一軒家が立ち並ぶ住宅街の中を二人は歩いていた。

 「ここだ」

 涼一は急に立ち止まった。涼一はその建物を見て満足そうに頷いた。

 夏音もその建物に目をやった。目の前にある小さな校門にはすみれ幼稚園と彫ってある札が取り付けられていた。

 「幼稚園?」

 夏音は少し間抜けな声を出した。

 「そう。幼稚園」

 「でも、どうして?何で幼稚園に?」

 あまりにも予想外過ぎて夏音は混乱した。

 「とにかく入るぞ。迎えを待ってる」

 涼一は堂々と敷地内に足を踏み入れた。

 夏音は誰がと思ったが、もはや質問することもままならず、恐る恐る涼一の後に続いた。

 建物は二階建てで、一階部分はカーテンが開いているので、教室にいる園児達の姿が見えた。建物の中に入ると、自分の子供を迎えに来た親が何人かいた。皆が涼一達の姿を見て不審げな目を向けた。それもそのはずだった。高校の制服を着ている人間が来るところではない。ただ、涼一の顔を見ると、皆が面白いように好意的な顔になった。エプロンを来た女の人が涼一達に近づいてきた。

 「あなた達。もしかして、洸太君を迎えに来てくれ高校生?」

 「そうです」

 女の人の顔がパッと輝いた。そして、親たち同様涼一を見る目がアイドルを見るよな目つきになった。

 「そちらの方は?」

 「連れです。洸太にとってもその方が良いと思ったので」

 「確かに、女の子が居た方がいいですね。じゃぁ、洸太君の所まで案内しますね」

 「ありがとうごさいます」

 涼一は靴を脱いだ。夏音も慌てて靴を脱いだ。

 廊下を少し進み、一番奥の教室の前まできた。扉のガラスにそらぐみと書かれたと紙が張られていた。

 女の先生が扉を開けて、キョロキョロと探した。教室の隅っこで大人しく絵を描いている男の子を見つけて側に歩み寄った。

 「洸太君。お迎えが来たよ」

 女の先生はしゃがみ込んで洸太に言った。

 絵を描いていた洸太はパッと顔を上げて涼一達の方に目をやった。しかし、すぐに残念そうな顔をして下を向いた。涼一はやれやれと言った感じで教室に入って洸太に近づいた。

 「洸太」

 涼一は優しく声をかけた。だが、洸太は下を向いたままじっとしている。

 「洸太。お兄ちゃんのこと覚えてる?」

洸太は顔をあげることはなかったが、コクンと頷いた。

 「お姉ちゃんは?」

 洸太は下を向いたまま聞いた。

 「お姉ちゃんは忙しくてここには居ないんだ。だから、お兄ちゃんと一緒に帰ろう」

 洸太は首を横に振った。

 涼一はスッと立ち上がり夏音の所に戻った。

 「なつ、お前の出番だ。来てくれ」

 「ちょっと待ってよ。あの子は誰?」

 「永瀬の弟だ」

 「えっ・・・・・・」

 夏音は衝撃を受けた。

 「色々と聞きたいことがあるのは分かってる。でも今は洸太と一緒に帰らないと。とにかく協力してほしい」

 「わ、分かったよ」

 涼一の言う通り聞きたいことは山ほどあったが、今は協力する他無かった。夏音は洸太に目を向けた。その時、強い既視感に捉われた。あの姿をどこかで見たことがあると思った。

 夏音も一緒に側まで来ると、洸太はもう一度顔を上げた。夏音に興味を持ったのか、ジッと夏音のこと見ていた。

 「なつ。挨拶してあげて」

 夏音は大和の目線に合わせてから自己紹介した。

 「初めまして洸太君」

 「お姉ちゃんもお姉ちゃんのお友達なの?」

 「う、うん。そうだよ」

 「何でお姉ちゃんは来ないの?」

 「うーんとね、お姉ちゃんは違う場所にいるんだ」

 「どこ?」

 「お姉ちゃんに秘密にしておいてって言われてるから今は言えないの。でもね、お姉さんやこのお兄さんと一緒に遊べばお姉ちゃんに会えるよ。だから、一緒に帰ろ?」

 「そうだ。洸太。お姉ちゃんが良い子にしてたら、今日は何でも食べて良いし、飲んでも良いって言ってたぞ。それに洸太の遊びたいこともお兄さん達が何でも付き合ってあげる。だから、お姉ちゃんが来るまで一緒に遊ぼう」

 洸太は戸惑いながらも、やがて小さく頷いた。そして、小さな手を差し出した。夏音はその手を優しく握った。

 「良い子だ。じゃぁ、先生にバイバイを言って帰ろう」

 涼一は洸太の頭を撫でた。

 それから二人は洸太を連れて回った。最初こそ人見知りしていた洸太も優しく接してくれる二人に対してどんどん心を開いていった。夏音ことは特に気に入った様子だった。三人はえりかの家の近くの公園でひとしきり遊んだ後、砂場で遊び始めた洸太を見守りながらベンチに腰掛けた。

 「なつ。今日はありがとう。黙って連れ回してごめんな」

 涼一はお礼と謝罪の言葉をまず口にした。

 「ううん。もういいよ。まさかの展開ばっかりでびっくりしたけど」

 「やっぱりなつを連れてきて正解だったよ。俺一人じゃ洸太もここまで心を許してくれはしなかっただろう」

 「それにしても、涼一はいつから永瀬さんに弟がいたことを知ってたの?」

 「知りたいか?」

 「もうこの際だから全部話してよ。じゃないと、帰る」

 「いつの間にそんな交渉術を覚えたんだ」

 涼一は苦笑いを浮かべた。

 「まぁ、もう隠せるはずもないか。話すけど、周囲に広めるようなことはするなよ。茜と藤沢は仕方ないにしても、後はダメだ。永瀬のプライバシーに大きく関わることだから」

 「うん。約束する」

 夏音は力強く頷いた。

 涼一は語り始めた。

 元々、えりかが住んでいた場所は今住んでる場所から遠く離れた街に住んでいた。その街で父、母、弟と四人仲良く暮らしていたごく普通の女の子だった。しかし、えりかが中学二年生の時に悲劇が訪れた。母親が病気で他界してしまったのだった。えりかは大のママっこであり、幼い頃はいつも母親の後をくっついて歩いていた。そんなえりかを母親も大事に大事に可愛がった。えりか小学校六年生の時に弟の洸太が生まれた。母は洸太にかかりっきりなったが、それでも可能な限りえりかの甘えにも存分に応えてあげていた。頭も良くて気立ても良い母親をえりかは心から愛していた。

 だからこそ、母親が亡くなった悲しみは計り知れなかった。当時のえりかは活発で明るい女の子で女子のみならず男の子の友達も大勢いた。しかし、そんな姿も母親が亡くなってからはすっかりと消えてしまった。塞ぎ込むことも多くなり、学校を休む日もあった。だが、ただ悲しんでることは出来なかった。それは弟洸太の存在があったからだ。幼い洸太の面倒を見なくてはならず、おむつ替えや食事など覚えられることは全て覚えなければならなかった。母親が亡くなる前にえりかに洸太をお願いねと言った。これからの不安や母親を亡くなってしまう悲しみで無理だよ泣きじゃくるえりかを強く抱き締め言った。

 「大丈夫、あなたなら出来るわ。だって、世界で一番優しくて強い私の自慢の娘だもの。えりか。これだけは忘れないで。私はあなたも洸太もずっと愛しているわ」

 実質、これが最後の言葉となった。えりかは母親の葬式が終わった後もずっと泣いていたが、洸太が大きな声で泣くと目が覚めたかのように洸太を抱き抱えた。えりかが抱くと洸太はすぐに泣き止み嬉しそうに笑ったのだ。えりかはそんな洸太を愛おしく思った。そして、母親の遺影の前で洸太を大事に育てることを誓ったのだった。

 それからは学校と育児に追われる日々が始まった。周りの友達もえりかの境遇を大いに同情して可能な限りの手伝いをした。それでも、いきなり14歳の女の子に母親代わりになるのは無理な話しで、心が折れそうな日が何度もあった。家出も一度や二度では済まなかった。父親はそんなえりかを咎めることはなく、仕事をこなしながらえりかのことを支えた。

 中学三年生の時に父親の都合で今の家に引っ越してきた。何度も投げ出したくなる事もあったが、母親の言葉を胸に頑張ってきた。そしていつしか、弟の洸太の存在がえりかにとって一番大切な存在となっていた。そんな愛情が洸太に伝わったのだろう。洸太は誰よりもえりかを信頼するようになっていた。それはかつて、えりかが母親に向けていたものと同じだった。父親の支えもえりかにとって心強かった。最愛の妻を亡くして誰よりも悲しみに暮れたいはずなのに、誰よりも明るく振る舞いえりかや洸太を笑わせた。母親を失った悲しみは完全には癒えないものの、三人での新しい生活にえりかの心は徐々に明るさを取り戻していった。

 高校はバスで通える中で一番偏差値の高い高校が夏音達が通う高校だったので、そこを受験した。本来であればもっと偏差値の高い高校に通うことも出来るのだが、出来るだけ洸太との時間を減らさないために夏音達と同じ高校を選んだ。えりかと仲の良い友達が居ないため知られていないが、学校の成績は涼一を抜けば学年トップの成績を収めていた。

 高校ではつんけんした高飛車な女として通っているが、それはわざと周りから嫌われるための仮面に過ぎなかった。嫌味な態度を取る度にえりかの心は痛んでいたのだった。そんな友人も恋人作らない高校生活を送っていた矢先に出会ったのが、涼一だった。えりかも涼一のことは当然知っていた。しかし、えりか周りのミーハー女のように外見だけで惑わされるような女ではなかったし、男にかまけられる時間もないので、涼一にも全く興味を示さなかった。そんなある日、父親があしゅまろの噂を聞いたらしく、一家揃って足を運んでみることにした。すると、バイトをしている涼一と遭遇してしまった。えりかは激しく動揺したが、涼一は気にも留めることもなく接客をこなした。味は噂以上に美味しかったが、涼一がいるので、二度と行きたくないと思っていたが、困ったことに洸太がえらく気に入ってしまったらしく、何度も行く羽目になってしまった。

 二度目の来店の時に、働いていた涼一を店の外へと呼び出し、えりかは誰にも言わないでと凄んだ。涼一はただ一言分かったとだけ言った。あまりにもあっけからんとした態度に本当に誰にも言わないのか疑わしげな思いを抱いた。

 それからまた何回かあしゅまろに行った。父親は相当に気に入ったらしく、早くも常連客の地位を得ていた。えりかはまたもや涼一を外に連れ出し、誰にも言ってないのかと詰め寄った。涼一は寂しく笑い、それから神妙な面持ちで言った。誰にも言ってないさ。言えるわけがない。永瀬のお父さんが何があったのかを全て話してくれた。永瀬のやってることは誰にも出来ることじゃないと思う。だから、俺は永瀬の事を尊敬してる。何故、いつも周りに対してあんな冷たい態度を取っているのかも理解した。もし、どうしようもな辛くなったら、いつでもここに来ればいい。少しでも永瀬の心が少しでも楽になるなら俺は協力をするから。そう言って、涼一は店に戻った。この時に、えりかが涼一に対して恋心を抱いたのは言うまでもなかった。

 それから、永瀬一家であしゅまろに通った。通うと言っても月に二回程度だったが、陽二やかなえは大いに歓迎してくれた。えりかは専ら涼一目当てだったが、陽二の細かやなサービスやかなえの少し大げさな反応に接している内に、あしゅまろも大好きになった。特にかなえに抱き締められると母親に抱き締められたような感覚を味わえたのが嬉しくもあった。

 えりかは家計に少しでも負担をかけない為にも大学は国立一本に絞っていた。その為、いくら頭の良いえりかでも猛勉強をしなければならなかった。勉強だけならまだしも、洸太の世話に加え家事もこなさなければならないので、普段の睡眠でも五時間もあれば良い方だった。テスト期間中は父親がいつも以上に家事などを協力してくれるのだが、今回は運悪く出張が重なってしまい、全ての負担がえりかに集中してしまった。なので、睡眠時間は三時間程しか取れなかった。体力的、精神的にどれだけきつかったかは想像だに難くない。そして今日、遂に限界を迎えてしまい倒れてしまった。

 話しを聞き終えた夏音は、ただただショックで打ちのめされていた。えりかにそんな悲しい過去があっただなんて考えもしなかったし、そんな同い年の女の子が同じ高校に通っていたと思うと、のほほんと生きてきた自分が恥ずかしく感じた。そんな夏音の想いを見透かしたのか、涼一はこんなことを言い出した。

 「永瀬の生き方は確かに立派だ。だからと言って、俺達がダメだなんてことは絶対にない。永瀬と比べて自分はなんて思うのは、永瀬が受けた不幸を自分も受けたいと言ってるのと同じだし、そんな比較は永瀬も望んでなんかないだろう。永瀬は永瀬。自分は自分だってことを忘れちゃいけない。永瀬が何故誰にも言わずに高校生活を送ってきたか分かるか?」

 夏音は少し考えたが、すぐに首を横に振った。

 「永瀬に母親が居ないと分かれば、周囲の人間は大いに同情して優しくはするだろう。けど、同時に母親の話しを意識的に避けたりと気を遣うかもしれない。永瀬はそれを何よりも嫌がってる。自分のせいで話したい話しも出来ないなんて嫌だと。それに時間も余裕もない自分は友達を作っても寂しいだけだからと思って、敢えて周りに嫌な女として接してきたそうだ。高校には永瀬の過去のことを知ってる人はいなかったから、今までバレることはなかった」

 「だから、涼は永瀬さんには優しくしてたんだね」

 「茜にも言ったが、優しくしてたと言うより冷たくは出来なかった。可能な限り永瀬の気持ちに応えてあげたかったんだ。けど、それもまた永瀬を傷つけることになってしまったが」

 「涼は永瀬さんと付き合ってたんじゃないの?この前も二人で遊んでいたでしょ?」

 「この前?ああ。上野のことか。あの時は二人じゃない。ちなみに、二人で遊んだことはないよ」

涼一はニヤリと笑った。

 「じゃぁ、他に誰が・・・・・・」

 言いかけてまさか思い、砂場に目を向けた。砂に絵を描いている洸太の姿を見た時にまたもや強い既視感を覚えた。

 「もしかして、洸太君もいたの?」

 「その通り。なつも見たはずだよ。地面に絵を描いている小さな男の子の姿をね」

 「あっ」

 ついに思い出した。えりかに気付く前に二人のすぐ側で地面に木の棒で何やら描いていた男の子の存在を。まさか二人の連れだとは夢にも思わなかった。

 「デートしてた訳じゃないの?」

 「違うよ。全くなつも茜も結論を急ぎすぎなんだよ」

 夏音は何だか力が抜けてしまった。一人で悩んでいたのがバカみたいだった。

 「だって、まさか子供を連れてるなんて思うわけないもの。勘違いするよ」

 「第一、どうして俺が永瀬を好きになってるんだよ。何一つ勘違いさせるような行動を取ってないのに」

 「休みの日に二人で遊んでたら、そう思ったって不思議じゃないでしょ」

 「なつだって藤沢と遊んでたじゃないか」

 「そうだけど。それに、藤沢君がいつも二人でいるって言ってたし」

 「数回の偶然をいつもと解釈するなんて、バカにも程がある」

 涼一が健吾を痛烈に批判した。

 「藤沢君だって友達からそう聞いただけなんだから、藤沢君は何も悪くないでしょ」

 「お、王子様を庇うお姫様。健気だねぇ」

 涼一がからかった。

 「そうゆうのやめてよね。別に藤沢君と付き合ってないんだし」

 「まぁまぁ。ほとんど付き合ってるみたいなんだから良いだろ」

 「良くないよ。付き合ってないものは付き合ってないんだから」

 「ほんと真面目だな」

 「涼は永瀬さんのことを好きにはならかったの?」

 「ならかったよ、いやなれなかった」 

 「どうして?」

 「前に言ったろ。好きな人がいるって」

 「あっ・・・・・・」

 「まぁ、その恋も後少しで終わりになるんだけどな」

 涼一はどこか清々しそうに言った。

 夏音はその相手が誰なのか聞いてはいけないような気がした。

 「そっか。でも、涼一なら必ず良い人に出会えるよ」

 「・・・・・・そうだといいな」

 夏音はふいに寂しくなった。

 「なつには、一つ謝らないといけないことがある」

 「急にどうしたの?」

 「あの日泣いてるなつを後ろから見てた」

 「そうだったんだ」

 「声をかけることは出来なかったけどな」

 「・・・・・・」

 「辛い想いをさせてすまなかった」

 「涼が謝ることじゃないよ。それに、泣いていたのは藤沢君と嘘をついて怒らせちゃったから泣いてただけだから」

 半分は本当で半分は嘘だった。最近は嘘ばっかりついてるなと思った。

 「その嘘の原因を作ったのは俺だろう」

 夏音は黙り込んだ。すると、洸太が砂場から二人の元へと戻ってきた。

 「夏音お姉ちゃんどうしたの?元気ないの?」

 「ううん。元気だよ」

 「嘘だ。僕分かるもん。お姉ちゃんと同じかなしいお顔してる」

 どうやら、純粋な子供の眼は誤魔化せないようだった。

 夏音はしゃがんで洸太と目を合わせた。

 「ごめんね。嘘つきだった。お姉さん少し落ち込んでるの」

 「これあげる」

 洸太はタンポポを差し出した。

 「これくれるの?」

 「うん。お姉ちゃんが女の人はお花をもらうと嬉しいって言ってから」

 夏音は感動で胸が一杯になった。

 「ありがとう洸太君。お姉ちゃんこんなに素敵なお花貰ったの初めて。凄い嬉しいよ」

 「元気になった?」

 「うん。とても元気になったよ。ありがとう」

 夏音は洸太をギュッと抱き締めた。

 「洸太!」

 不意に公園に響いた声。三人ともその声のする方へと顔を向けた。公園の入り口にはえりかが立っていた。

 「お姉ちゃん」

 洸太の声が震えた。

 えりかが洸太に向かって一直線に駆け寄った。洸太もえりかに駆け寄った。えりかが洸太を抱き締めた。

 「ごめんね洸太。ごめんね」

 えりかは泣きながら洸太を強く抱き締める。洸太もえりかの胸に顔を埋めて泣いていた。楽しそうにしていたが、やはり不安に思っていたに違いなかった。二人はやがて手を繋いで涼一と夏音の元へやって来た。

 「二人とも、今日は本当にありがとう」

 えりかは深々と頭を下げた。

 「体調の方は大丈夫なのか?」

 涼一が聞いた。

 「うん。たっぷり寝たから」

 えりかはバツ悪そうな顔をした。

 「大したことなくてよかった」

 夏音が言った。

 えりかは夏音のことをジッと見つめた。

 「河口さん。今までごめんね。それに一緒に帰った時も、本当はあんなことを言うつもりは無かったの。ただ、色々あってイライラしてて。八つ当たりなんかして恥ずかしかったわ」

 えりかは殊勝に謝った。そこには勝ち気で傲慢そうなえりかの姿は無かった。これが本来のえりかの姿なのだろうと夏音は思った。

 「もういいの。過ぎたことだし」

 「話しは聞いたの?」

 「涼から聞いたよ。私が何かを言う筋合いはないけど、これからは何かあったら頼って良いんだよ」

 「河口さん・・・・・・」

 「そうだよ永瀬。俺らに遠慮なく頼れよ。茜と藤沢にも話すけど、二人だって喜んで協力してくれるはずさ。永瀬にとって洸太が一番大切なのは分かってる。けど、万が一永瀬まで病気で倒れたりしたら、一番悲しい思いをするのは洸太だろ」

 「ありがとう。少し強情すぎたみたいね」

 えりかの頬には涙が流れていた。

 「お姉ちゃんも悲しいの?」

 「違うよ。嬉しくて泣いてるの。これも洸太のお陰だね」

 えりかは再び洸太を抱き締めた。

 「洸太。今日は楽しかった?」

 「うん!涼一お兄ちゃんも夏音お姉ちゃんもやさしくて、これも買ってくれたんだ」

 洸太は嬉しそうに幼稚園カバンから戦隊ヒーローのフィギュアを取り出した。洸太は戦隊ヒーローが大好きでその中でも青色が好きだった。

 「洸太。今日はヒーローみたいにかっこよかったもんな」

涼一が言った。

 「ほんとう?」

 最高の誉め言葉をもらったかのように洸太の目が輝いた。

 涼一はしゃがみ込んで大和に優しく語りかけた。

 「本当だよ。特にこのお姉ちゃんにお花を渡して励ましてあげたことなんて誰にでも出来ることじゃない。悪いやつをやっつけるだけがヒーローの姿じゃないんだ。洸太がお姉ちゃんにしてあげたこともヒーローと同じくらいにかっこいいことだとお兄ちゃんは思ってる。だから、これからはえりかお姉ちゃんの事も助けてあげるんだ。洸太もえりかお姉ちゃんのこと大好きだろ?」

 「うん。誰よりも好き」

 「そしたら、大好きなお姉ちゃんが辛い時や悲しい時は洸太が励ましてあげるんだ。後、お姉ちゃんの事をよく聞いて、洸太も自分で出来ることは出来るようにしていくんだ。分かったかな?」

 「分かった。僕はヒーローだから出来る」

 「そうだ。洸太は誰よりもかっこいいヒーローだもんな。じゃぁ、お兄さんとお姉さんと約束だ」

 涼一は小指を出した。洸太も小さな小指を出し、指切りを交わした。

 「涼一お兄ちゃんももお姉ちゃんのこと大好き?」

 洸太の無邪気な質問だった。

 「ちょっと洸太。何聞いてるの」

 珍しくえりかが動揺した。

 「もちろん、大好きだよ。でも、洸太には負けるかな」

 涼一は優しく微笑み、大和の頭をくしゃくしゃ撫でて立ち上がった。

 「今日がもう帰るわ。体調も万全じゃないから休まないと。今度、きちんとお礼をさせてね」

 「そんな。気にしなくていいのに」

 夏音が遠慮をみせた。

 「そうはいかないわ。ここでお礼をしなかったら、ヒーローの姉として失格よ」

 えりかは微笑むと洸太と手をしっかり繋いで帰っていった。

 その姿を見送った涼一と夏音も帰路についた。涼一はいつものように夏音の家の前まで送った。

 「今日は本当に助かったよ。俺もなつに何かお礼をしないとな」

 「別に良いよ。私も良い事あったから」

 夏音はポケットに入れていたタンポポを取り出した。

 「藤沢にはなつから話してくれ。茜には俺から話すよ」

 「その方がいいね。ねぇ、涼一」

 「うん?」

 「藤沢君に噓ついてたこと謝る」

 「藤沢に嫌われても良いのか?」

 「そうなっても身から出た錆だから。それに、私にはヒーローが慰めてくれるから」

 「洸太に恋愛相談するのか?」

 「違うよ。もう一人のヒーローだよ」

 「残念ながら、そのヒーロー出番は無いと思うけどな。藤沢がそんなことでなつのことを嫌いになるわけがない。一度の嘘で簡単に人を嫌うような男じゃないさ。だから、安心して話せ」

 涼一はいつものように夏音の頭をポンポンと叩こうとして手を止めた。代わりに肩を軽く叩いた。夏音はその気遣いが残念だった。

 「結局、涼が話したいことってなんだったの?」

 「それはいずれまたな」

 「てっきり、永瀬さんと付き合ってることを話されるのかと思ってた」

 「それはないよ。永瀬には俺なんか目じゃないくらいの相応しい男が必ず現れるさ」

 「いつ話してくれるの?」

 夏音は上目遣いで聞いた。

 「近いうちに必ずな。じゃあな」

 その目には耐えられないと言わんばかりに涼一は逃げるように夏音に背を向けた。

 「涼」

 涼一が振り向いた。

 「明日は勉強教えてよ」

「俺には教わらないんじゃなかったか?」

「今日は涼のせいでほとんど勉強に手が付かなかったんだから、その責任とってよ」

 「分かったよ。何時間でも教えてやるよ」

 涼一は手を挙げて帰った。

 夏音は涼一が叩いた肩に触れた。少しずつ変わっていく涼一の何気ない仕草に一抹の寂しさを感じた。



期末テストも終わり、健吾はバスケに打ち込む日々だ始まった。しかし、バスケに集中していると言い難く、精彩を欠いたプレーを連発するようになっていた。何故こんなことになっているかは自分でも分かっていた。いけないと分かっていてもプレー中も夏音のことを考えてしまっているからだった。えりかが倒れた日、涼一が夏音の手を引っ張っていく姿が何度もフラッシュバックした。それだけならまだしも、月曜日に会った時の夏音の元気な姿が一層健吾の心を落ち込ませた。健吾は夏音に元気が無い事に気付いていた。何とか元気付けようと試みたのだが、ことごとく失敗に終わっていた。

 夏音が涼一と何を話したかのか分からないけど、あんなに元気な夏音を見て複雑な気分になってしまったのは確かだった。改めて、涼一の存在が夏音にとっていかに大きいのかを思い知らされた格好となってしまった。今日の部活でも終始集中力に欠いたプレーになってしまい、監督はおろか茜にも大目玉を食らった。

 健吾は思い切って茜に悩みを打ち明けた。茜は健吾の悩みに同情しつつも、申し訳ないが自分は力にはなれないと謝られた。そして茜は、何か助言が欲しいならあしゅまろに行ってみればいいと言った。茜が言うには、茜自身も彼氏とのことで悩んだりした時はマスターである陽二にも話しを聞いてもらうそうだった。すると、大抵は自分にとって有益なアドバイスをくれると言うのだ。健吾はまだ一度しか会ったこともないのに、そんな厚かましいことは出来ないと思い、行くのを躊躇っていたが、もはや悠長なことは言ってられないと思い切って部活終わりにあしゅまろに行くことを決意した。

 練習に身が入ってないとは言え、来る試合に向けて猛練習をしなければならず、あしゅまろに着いた時には閉店間際だった。来たのは良いが、涼一が働いていたらどうしようと入るのを躊躇っていると、看板をしまいに外に出てきた沙織と目が合った。

 「あら?あなた」

 「こ、今晩は」

 健吾はしっかり頭を下げた。

 「今晩は。確か、夏音ちゃんの彼氏の?」

 「あ、いえ、違います。ただの友達です」

 健吾は慌てて否定した。

 「あら、そうなの?私はてっきりそうだと思ってたから。それにしても、ここで何をしてるの?」

 「えーと、店長さんにお話を聞いてもらいたくて来たんですけど、もう閉店ですよね。すみません。また来ます」

 健吾はすぐに引き返そうとしたが、沙織が引き留めた。

 「待って。こんな時間になっても来るってことは大事な話しなんでしょ。陽二さん呼んでくるから待ってて」

 沙織は店に戻り、すぐに陽二が出てきた。

 「やぁ、久ぶりだね。藤沢君だったよね。僕に話しがあるみたいだね。良いよ。入ってらっしゃい」

 「良いんですか?」

 「悩める若者の話しを聞くのは、僕の数少ない楽しみなんだ。遠慮しないで」

 陽二はニコッと笑い、健吾を招き入れた。

 テーブルの椅子は全て机に上げられていて、健吾はカウンター席に座った。

 沙織が更衣室から出てきた。

 「陽二さん。お疲れ様でした」

 「はい、お疲れ様。今日も文也君は迎えに来てるのかな?」

 「家がすぐそこだから断ってるのに、来るって聞かなくて」

 沙織はにこやかに言った。

 「文也君の気持ちはよく分かるよ。こんな美人を一人で夜道を歩かせる訳にはいかないからね」

 「相変わらず上手ですね」

 沙織はますます笑った。その表情があまりにも艶っぽかったので、健吾は思わず顔を赤らめてしまった。

 「あれ?藤沢君。顔が赤いけどどうしたの?」

 陽二が聞いた。

 「い、いえ。何でもないです」

 「じゃぁ、私はこれで失礼します」

 沙織は軽く頭を下げて店を出た。

 店内が健吾と陽二の二人きりになった。

 「とりあえず、コーヒーでも淹れるね。藤沢君はコーヒー飲める」

 「あ、はい。すみません」

 陽二は手早く二人分のコーヒーをカップに注いだ。

 「はい、どうぞ。売れ残りで悪いね」

 「ありがとうございます。後、ごめんなさい。こんな時間に来て、お時間を取らしてしまって」

 「余程の大人より礼儀がしっかりしてるね。とても高校生とは思えないよ」

 「これくらいは当たり前です。その上、コーヒーまで頂いてますし」

 「なるほど。なっちゃんが君に惚れるのも分かった気がするよ」

 「あ、いえ、そんな・・・・・・」

 予想外の言葉に健吾は照れてしまった。

 「今日ここに来たのは、もしかして、なっちゃんと涼ちゃんのことかい?」

 健吾は黙ったまま俯いた。

 「どうやら図星のようだね」

 陽二はコーヒーを啜った。

 「陽二さんから見て、二人はどう見えますか?」

 「実にお似合いな二人に見えてるよ。この近所でも評判の二人だからねぇ」

 「あの二人は本当に付き合ってないんですか?」

 「ないよ。だから、なっちゃんは君と遊びに出掛けてるんじゃない」

 健吾は自身の最大の不安を口にした。

 「でも、河口は本当は立花のことが好きなんじゃないかって不安に思ってます」

 「どうしてそう思うの?」

 「どうしてって。見てれば誰だってそう思います」

 「あの二人が仲良くしてるのは嫌かい?」

 「嫌です。だって、僕は河口のことが好きですから」

 「そうかそうか」

 陽二は満足そうに頷いた。

 「でも、これだけはハッキリ言っておくよ。なっちゃんの中から涼ちゃんの存在を消し去ることは出来ないと思うよ」

 「なら、僕は河口と付き合えないと」

 「いやいや、そうは言ってない。ただ、覚悟の問題ではあるかな」

 「覚悟?」

 「うん。なっちゃんもしくは涼ちゃんを好きになる上で、君のように二人の関係に悩む者は多い。何たってベストカップルと言われるくらいお似合いで仲も良いからね。だから、あの二人の仲を理解できない人間には好きになれる資格はないと僕は思ってる」

 「理解ですか・・・・・・」

 健吾はその場で考え込んだ。現時点では、理解よりも嫉妬の方が勝っていてとても理解出来る日が来るとは思えなかった。

 「僕が君の立場でも同じように悩んだだろうね。あらゆる関係を見てきたけど、あの二人のようなケースは初めてだったよ。運命の赤い糸で繋がってる二人と言うのはなっちゃんと涼ちゃんのことを言うんだろうなって本気で思ってるよ」

 「なら、僕が入り込む隙間なんて無いってことじゃないか」

 「赤い糸で繋がってるとは言ったけど、二人が結ばれるかと言われたら必ずしもそうとはならない」

 「赤い糸で繋がってるのであれば。必ず結ばれるんじゃ」

 「映画や小説のように全ての赤い糸が蝶々結びのように綺麗に結ばれるわけじゃないよ」

 陽二は意味あり気に目くばせをした。

 「すみません。僕には分かりません」

 「いずれ分かる日が来るさ」

 「立花は河口のどこを好きになったのでしょうか?」

 「藤沢君はどこを好きになったんだい?」

 「僕は・・・・・・」

 健吾はまた考え込んだ。好きな所は沢山出てくるのに、明確にここが好きと言える所がなかった。

 「答えられない?」

 健吾は唇を噛んだ。それでは涼一に勝てないと言われると思った。

 「別に落ち込むことはないよ。多分だけど、この質問には涼ちゃんも答えられないと思うよ」

 「えっ。だけど・・・・・・」」

 「正確に言うなら、どこが好き?と聞いても全部って答えてくるだろうね」

 陽二は笑いながら、コーヒーを飲んだ。

 「僕は立花に勝てるのでしょうか?」

 「涼ちゃんに勝つ必要はあるのかな?」

 「だって、河口は立花の事を・・・・・・」

 それ以上は言いたくなかった。

 「そりゃ、なっちゃんも涼ちゃんのことを好いてるだろうけど、他の人が考えてる好きとは違うよ。今はの話しだけど」

 陽二の最後の言葉に健吾は動揺した。

 「陽二さんは、河口がどっちと付き合う方が良いと思ってますか?」

 「どっちでもないよ。別に君達二人じゃなくても、なっちゃんが一番好きだと思ってる人と付き合ってほしいと思ってる」

 「てっきり、立花の味方をすると思ってました」

 「涼ちゃんも確かに良い男だけど、君も負けてないと思うけどねぇ。藤沢君は余計なことに囚われすぎてると思うよ。君は涼ちゃんになりたいのかな?」

 「そんな事は思ってないですけど」

 「なら、涼ちゃんに勝てるかどうかなんてどうでも良いじゃない。君がどんなに頑張った所で、涼ちゃんにはなれないんだから」

 「それはそうですけど」

 「もっと自信を持った方が良いよ。何たって、あの涼ちゃんが認めてるくらいだもの」

 「立花が僕を?」

 健吾は驚いた。

 「そうだよ。なっちゃんが涼ちゃん以外の男の子と二人で遊ぶって聞いた時はそれはそれは驚いたよ。涼ちゃんは今までなっちゃんに近付く男は完膚なきまでに叩きのめしてたのに、ただ見守ってるんだから」

 「でも、彼からしたら僕は邪魔者に過ぎないんじゃ」

 「まさか。むしろ、君にとっての一番の協力者だったはずだよ。サクランボのことは変だと思わなかった?」

 健吾はいつかの昼休みの涼一とのやり取りを思い出した。あの時、夏のサクランボ好きを教えてくれたのは、単に余裕ゆえの当てつけとしか思ってなかった。

 「サクランボのことこそ涼ちゃんからの君へのアシストだったんだよ。わざと挑発させるようなことも言ったのももちろんわざと。お店だと、君の事いつもべた褒めだよ。知り合って間もないのに、なっちゃんのあんなに嬉しそうな顔を作れるなんてさすがだだって」

 健吾は言葉を失っていた。テーブルの上で拳を強く握り締めた。そして、言葉を絞り出した。

 「どうして・・・・・・どうして立花は僕に協力をしようと思ったんですか?」

 「藤沢君がなっちゃんの彼氏に相応しいと思ったからでしょ」

 「そうだとしても、何故こんな回りくどいやり方で。下手したら河口にだって嫌われてかもしれないのに」

 「藤沢君の言う通り、涼ちゃんはなっちゃんに嫌われたかったんだよ」

 「何で?僕が彼氏になるからって嫌われる必要なんてないじゃないですか」

 「嫌われるのは何も自分のためだけじゃない、なっちゃんのことを思ってのこともある」

 「どんな理由ですか?」

 「悪いけど、それは言えない。僕が言えるのはここまでだよ」

 「そんな・・・・・・」

 健吾はこんな気持ちを抱えたまま帰れないと思った。

 「一人だけ・・・・・・一人だけ全ての理由を知ってる子はいる」

 「誰ですか?」

 「だけど、聞くことはオススメしない。それでも知りたいなら教えるよ」

 健吾は迷わず答えた。

 「教えてください」

 陽二は健吾の目をジッと見据えてから、小さく息を吐いた。

 「えりかちゃんだよ」

意外な人物の名前に健吾は驚きと戸惑いを隠せなかった。



 昨夜、あしゅまろから帰った後にえりかと話したいことがあると電話をした。えりかに家の近くであれば会えると言われたので、えりかに会う場所の住所を教えてもらい、部活が終わり次第向かうことになっていた。

 練習が長引いたこともあり健吾がえりかに会えたのは、間もなく19時を迎える頃だった。えりかが指定した場所はどこにでもありそうな公園だった。えりかの家はここから三分もかからない。健吾が公園に着くと、退屈そうな顔で一人ベンチに座っているえりかを見つけた。

 「永瀬」

 健吾が名前を呼ぶと、えりかが健吾の方を向いて手を振った。

 「遅かったわね」

 「ごめん。部活が長引いて」

 「別に責めてないわ」

 健吾はえりかのあまりにもラフな格好に思わずまじまじと見てしまった。

 「何よ?」

 「ごめん。あまりにも意外な格好だったから」

 「ああ。これ?別にデートとかするわけじゃないし、別に良いでしょ。それともそんなに変かしら?」

 えりかの格好は中央にプリントが入った少し大きめの赤いTシャツに黒のホットパンツと言う出で立ちだったりホットパンツから伸びる白くてスラリと長い足があまりにも奇麗だったので、健吾は目のやり場に困った。普段学校で見かけるえりかからはあまりにかけ離れていた。加えて、学校では結んでいる髪を下ろしているので別人に思えた。

 「何突っ立てるの?早く座りなさいよ」

 口調だけは学校のままなのが、幸いだった。

 「あ、ああ」

 健吾は極力足が目に入らないように注意喚起深く座った。

 「さっきから様子が変だけど、どうしたの?」

 「気にしないでくれ」

 「あっそ」

 えりかは足を組んだ。

 健吾はますます目のやり場に困ったが、えりかは一向にそのことに気付く様子はなかった。

 「昨日は驚いたわ。まさか藤沢君から電話が来るなんて思ってもなかったから」

 「俺も永瀬に電話をする日が来るとは、思ってなかったよ」

 「それどうゆう意味?」

 「別に永瀬と電話したくないとかじゃないんだ。ほら、永瀬とは学校であまり話してなかったから、俺から電話をかけるなんて良い迷惑になるだろうなって」

 「あははは。藤沢君ってほんと純粋だね。別に怒ってなんかないから安心して。私の方こそ学校一の人気者と関われるなんて思ってなかったから」

 「河口から全部聞いたよ。何て言うか、本当に今まで気づかずに冷たそうなんて思ってた自分を恥じたよ」

 「ふーん。私のこと冷たいって思ってたんだ」

 「あ、いや、その」

 「ま、別に間違ってないし、そう思われるように態度を取ってきたから、今更そんなことを聞いても何とも思わないわ。本当は誰にも気づかさせないで卒業するつもりだったから」

 「俺に出来ることがあれば手伝うから言ってくれよ」

 えりかは優しく微笑んだ。

 「ありがと。それで、今日は私に聞きたいことがあるって言ってたけど、何を聞くつもりなの?」

 「立花のことで」

 「立花君の?それなら河口さんに聞いた方がいいんじゃない?」

 「いや、あしゅまろの店長が言うには、永瀬だけが知ってるって」

 えりかの顔に動揺が見られた。

 「陽二さんから何を聞いたの?」

 「何も。知りたいなら、永瀬に聞きなさいって。だから、永瀬に会いに来たんだ。一体、立花は何を隠している?」

 えりかは黙り込んだ。その暗い顔からして、決して、良い話しでは無い事は分かった。

 「藤沢君は知らない方が良いよ。聞いても後悔するだけよ」

 「陽二さんも同じようなことを言ってくれた。でも、俺は知りたいんだ。このまま立花に借りを作ったまま河口と付き合うことなんて出来ない」

 「そっか。立花君が藤沢君のことを手助けしてたのを聞いたのね」

 「ああ。でも、納得がいかない。どうして、そんなことをするのか」

 「決まってるでしょ。河口さんのためよ」

 「陽二さんが言ってた、立花は河口に嫌われたがってるって。あんなに好きなのに、どうしてそんな辛い事自ら進んでしないといけない。俺がもし河口と付き合えたとしても、幼馴染みでいることに何の問題もないはずだ」

 「どうしても知りたい?」

 「知りたい」

 「後悔しても知らないわよ」

 「全て自己責任だから」

 えりかは溜め息を吐いた。

 「分かったわ。そこまで言うなら教えてあげる」

 「ありがとう」

 「まず、立花君があなたに協力したのは、河口さんに出来る最後の贈り物だったの」

 「最後?・・・・・・」

 「立花君は夏休みが終わったら、アメリカに旅立つわ」

 「なっ・・・・・・」

 健吾は言葉を失ってしまった。

 「去年から私と立花君にアメリカの大学に推薦したいって話しが学校側から来てたの。私は洸太のこともあるから、即座に断ったけど、立花君は相当悩んだわ。その推薦された大学には立花君が行きたかった学科があったから。河口さんの側に居るのか、夢を追ってアメリカに旅立つのか、立花君の心はその狭間でずっと揺れ続けた。そして、今年に入ってアメリカ行きを決断したわ」

 えりかは悲しみを飲み込むかのようにそっと目を閉じた。

 「そんな・・・・・・だって、河口はどうするるもりだったんだ」

 「河口さんと藤沢君がお互いに好意を持ってることは、立花君はすぐに分かったそうよ。最初は藤沢君にどうやって河口さんのことを諦めてもらうか考えていたそうだけど、藤沢君を観察している内に藤沢君なら河口さんを任せても大丈夫だって確信したの。それで、アメリカ行きを決断したわ。まぁ、何だかんだでそのことを伝えたのは期限ギリギリの五月になってからのことだけどね」

 「それと、俺の背中を押すことと何の関係があるんだ。河口に一言待っててくれと言えば良かったじゃないか」

 「藤沢君はあの二人を分かってないのよ。いきなりそんなことを言ったら、河口さんは立花君泣いてを止めるに決まってるでしょ。そして、立花君はそんな河口を放って行ける程冷たくはないのよ」

 「だからって」

 「もし、藤沢君が居なければ立花君はアメリカ行きを決断しなかったと思うわ」

 「そんなに立花にとって河口は特別な存在なのか」

 「当たり前じゃない。小さい頃からずっと好きだから側に居たのよ。特別に決まってるじゃない。高校だって、立花君なら選びたい放題なのに、河口さんの側に居たいがために、今の高校を選んだに過ぎないわ」

 健吾は以前、校門で涼一が何でも伝えれば良いわけじゃないと言っていたことを思い出した。まさかその言葉にこんなにも深い理由が隠されていたことの驚きを禁じ得なかった。

 「立花君はアメリカ行きを決断したからには、それまでにやるべきことが二つあった。一つはあなたと河口さんがいつ付き合ってもおかしくないように仲を近づけること。けど、何でもかんでも協力するわけにはいかない上に、裏で自分が藤沢君と繋がっていたことを、河口さんや滝川さんに知られる訳にはいかなかった。あなたを挑発したのは、対抗意識を強めさせて間違ってもあなたの口から自分の名前を出せないためにやったのよ」

 「もう一つの理由はなんだ?」

 「もう一つは・・・・・・多分、こっちの方が立花君は辛かったと思う。それは、河口さんに嫌われることよ。立花君の筋書きでは、立花君のことを河口さんが嫌い、心置きなく藤沢君と付き合うと言う形にしたかったのでしょうけど、こっちは見事に失敗してるわ。まぁ無理な話しよね。今更、嫌いになることも嫌われることも出来るはずがないわ」

 健吾は打ちのめされて言葉を挟む余裕すら無かった。

 「落ち込んでる?」

 えりかが優しく聞いた。

 「どうかな。色々、衝撃的過ぎて感情が追いついてこない」

 「こんなこと言うのもアレだけど、藤沢君にとってはチャンスね」

 「こんな話しを聞いておいそれと喜べるはずがないだろう。俺が立花の代わりになんてなれるはずがない」

 「何、勘違いしてるの?立花君のは自分の代わりになんて思ってないわよ。藤沢君はあくまで藤沢君よ」

 「陽二さんにも全く同じこと言われたな。けど。どうしたってそう思えてしまうんだ」

 「あのね、立花君には立花君の藤沢君には藤沢君の良さがそれぞれあるの。それを河口さんに見せつけてやればいいのよ。確かに、河口さんにとって立花君の存在は巨大よ。でも、何もしなければ何も生まれはしないわ」

 「永瀬・・・・・・」

 「私から言わせれば、藤沢君の立場なんて羨ましい限りよ。私なんてただ好きな人を見送ることしか出来ないんだから」

 「永瀬・・・もしかして、立花のこと好きなのか?」

 「そうよ。ずっと好きだったわよ。でも、立花君は振り向いてくれなかった。私じゃ河口さんには超えられないが分かったわ」

 「そうだったのか」

 「立花君の思い通りになるのは嫌かもしれないけど、そんなことを言って河口さんを逃したりしても知らないわよ。河口さんが立花君を追いかけてアメリカに行くってこともあり得るのよ」

 「もし、河口にこの事を話したらどうなるだろう」

 えりかは目を見張った。

 「まさか。話すつもりなの?」

えりかは目を開いた。

 「分からない。もしも、話したらとしたら河口はどんな答えを出すんだろう」

 「それは河口さんにしか分からないわ」



 翌日から健吾の中で目まぐるしく揺れる葛藤を抱えながら過ごした。しかし、不思議なことの妙に力が抜けていて、最近のスランプが嘘のように消えていた。

 ある日、夏音から上野でのデートの時に嘘をついていたことを謝罪されたが、あまりショックを受けなかった。むしろ、夏音の気持ちを考慮すれば、あんな反応を取っても仕方がないことだと思えた。夏音は嘘を吐くなんて最低だから嫌われても何も言えないと言っていたが、何よりも大事な話しを夏音に黙ってる自分の方が最低だと思った。夏音の幸せを考えれば話してあげるべきなのは分かっているが、こんな大事な事を自分の口から話して良いのかという迷いと、それでも夏音と付き合いたいと言う自分を誤魔化すことは出来なかった。

 ただ、このまま何も言わずに夏音と付き合ったとして、いずれは涼一がアメリカに行ったことを知る日はきてしまう。その時に、自分はアメリカに行きを知ってたのにも関わらず、夏音と付き合いたいがために黙っていたことを知られれば、例えどんな言い訳をしたとしても夏音は自分の元から消えてしまうことは容易に想像が出来た。知らなかったと白を切り通すにも良心の呵責が耐えられるか心許なかった。夏音との関係がこの先どこまで続くか分からないが、続く限りは罪悪感を抱えたまま関係を保たなければならないのかと思うと、そんな事は絶対に無理だと思えた。 

 結局、何の答えも出せないまま日々は過ぎ、試合の日を迎えた。ベスト16の相手は運の悪いことに全国の常連である県内でも指折りの強豪だった。劣勢に劣勢を強いられたものの、健吾達は必死に闘った。終わってみればダブルスコア負けを喫したものの、そのプレーに恥じるものはなく会場からは惜しみない拍手が贈られた。中には号泣する選手もいたが、健吾は最後まで堂々と胸を張った。勿論、全国大会に出場することは叶わなかった悔しさもあったが、その胸中は晴れやかだった。

帰りの間選手以上に泣きじゃくる茜を励ましながら、家に帰ったらえりかに電話をしようと思っていた。

 体は疲れていたが、頭は冴えていた。部屋に戻った健吾は早速えりかに電話をかけた。

 「もしもし」

 えりかはすぐに出てくれた。

 「永瀬か。今少し話せる?」

 「良いけど、私で良いの?」

 「どうゆうことだ?」

 「今日大会だったんでしょ。負けたって聞いたから、私じゃなくて河口さんに慰めてもらった方がいいんじゃないの?」

 「あ、ああ。それは後日改めて慰めてもらうよ」

 「そう。でも、残念だったわね。相手が違えばもっと上に行けたのに」

 「そうかもしれないけど、全国には行けなかった」

 「弱気ね」

 「バスケはそう簡単に力の差が埋まらないからね。でも、悔いはないよ」

 「藤沢君がそう思ってるなら、私としては何も言う事はないわ。それで、電話して来た用はなに?」

 「永瀬はさ、まだ立花のこと好きなんだよな?」

 「藪から棒ね。そうだって言ったじゃない」

 「永瀬はあの二人を見て辛く思わなかったのか?」

 「辛かったに決まってるでしょ。でもね、一番辛かったのは、立花君にとっての何者にもなれなかったこと。彼にとって必要な存在になれなかったことね。河口さんにきつく当たってたのは、嫉妬からよ。だって、私が一番望んでる存在になってたから。どう足掻いても勝てないと分かってるから、少しでも痛い目に合わせたかったの。三人でカフェ行ったの覚えてるでしょ。わざわざ付いていったのはいやがらせの意味もあったのよ。でも、二人と別れた途端にただただ虚しかった」

 「そうか。辛いな」

 「・・・・・・でも、もう忘れる努力をしないと」

 「立花が日本に帰ってくるまで待ったりしないのか?」

 電話の向こうでえりかが笑った。

 「するわけないじゃない。そんな無駄な時間を過ごすつもりはないわ。男は立花君だけじゃないのよ。うんと良い女になって後悔してもらうわ」

 「永瀬は強いな」

 「洸太を守る為に無理矢理でも強くならないといけないの。正直、未練たっぷりよ。両想いのあなたとは違って、忘れるのも苦労するわ」

 「俺は本当に両想いなのかな」

 「さっきから随分と弱気じゃない」

 「河口は本当は立花のことが好きなんだろう」

 「まぁそうかもしれないわね」

 「ハッキリ言えよ」

 えりかの口調が一気に鋭さを増した。

 「だったら何?河口さんが誰を好きだとか関係あるの?まさか両想いじゃないから、立花君の方が相応しいと思ってるわけ?全然格良くないんだけど」

 「俺は色々考えて・・・・・・」

 健吾は言い返そうとしたが、えりかに遮られた。

 「色々考えて?逃げてるの間違いでしょ。そりゃ立花君と比べたら誰だって勝てないわよ。彼はずっと河口さんのことを優先して生きてきたの。今の藤沢君に出来ることはもっと自己中になることよ。河口さんのことを誰にも渡さないくらいのことを言ってみなさいよ」

 えりかの言葉が健吾の心にズシリとのしかかった。

 「ありがとう永瀬。お陰で目が覚めたよ」

 「そう。なら、良かったわ」

 「永瀬は本当に立花のことが好きなんだな」

 「そうよ。何か文句ある?」

 「いや、カッコイイよ」

 「素直に褒め言葉として受け取っておくわ」

 「電話をして良かった。ありがとう」

 「じゃあね。おやすみなさい」

 えりかは電話を切った後に、胸を襲ってきた切ない痛みに泣きそうになった。何とか堪えようとしたが、ダメだった。えりかは襖を開けて洸太の側に座った。気持ち良さそうに寝ている洸太の頭を撫でながら、頬に伝っていた涙を袖で拭った。



 えりかとの電話を終えた、健吾はすぐさま別の相手に電話をかけた。相手はすぐに出た。

 「もしもし?藤沢君どうしたの?」

 電話を掛けた相手は夏音だった。

 「河口。今年の花火大会に一緒に行ってくれないか?」

 健吾は単刀直入に聞いた。

 少しの間が空いた。

 「うん。良いよ」

 「良かった。後、その日に大事な話しがあるんだ」

 「だ、大事な話し?」

 夏音の声が震えた。

 「その日が一番なんだ。聞いてくれるかな?」

 「う、うん。分かった」

 「じゃぁ、決まりだね。楽しみにしてるよ」

 「私も」

 「じゃぁ、またね」

 健吾は電話を終えようとした。

 「あ、ちょっと待って。今日は残念だったね」

 「うん。まぁこれが実力だよ」

 「でも、藤沢君が一番輝いてたよ。本当に一番」

 「ありがとう」

 「今までお疲れ様」

 その言葉を聞いた途端、健吾の頭に今までの練習や仲間達の顔が浮かんだ。健吾は目頭が熱くなってきたのを感じた。

 「・・・・・・」

 「藤沢君?」

 「ご、ごめん・・・・・・急に悔しくなって・・・・・・」

 仲間の前でも見せなかった涙がこみ上げてきた。

 「泣いたって恥ずかしくないよ。誰よりも頑張った証だよ」

 「ありがとう・・・・・・」

 健吾が泣いてる涙を流してる間、夏音はひたすら黙っていた。

 顔を上げた健吾の目は真っ赤だったが、涙はなかった。

 「河口・・・・・・」

 「うん?」

 健吾はこのままの勢いで告白してしまいたかった。

 「いや、何でもない。おやすみ」

 「おやすみなさい」

 健吾は電話を切った。

 健吾は窓から顔を出して夜空を見上げた。ここ一週間は空にへばりついたかのように雲が動かず、月や星は全く見えなかったが、今夜は幾分か雲に隙間が出来ていた。その隙間から見える月はいつもより輝き奇麗に見えた。その輝きに呼応するかのように、健吾の目にも同じような輝きを放っていた。
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