蒼く恋しく
深め合う2人、すれ違う二人
カランカラン。扉を開けると、夏音と茜を歓迎する音が軽快に鳴った。傘置き場に傘を差し込んで、店の奥へと進んだ。
「いらっしゃい」
まず最初に出迎えたのは陽二だった。いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべていた。その笑顔だけでも今日の憂鬱とした天気を吹き飛ばしてくれるようだった。
「こんにちは」
二人は声を揃えて挨拶をした。
「茜ちゃん。久しぶり」
「ご無沙汰してました。元気でしたか?」
「お陰様でね。妻は出掛けて居ないけど、涼ちゃんは働いてるよ」
絶妙なタイミングで涼一が事務所の扉から出てきた。
「おっ。よう」
二人の存在に気付いた涼一が軽い挨拶を寄越した。
「ちょっと、大事なお客様にそんな挨拶はどうなの?」
早速、茜が食って掛かった。
「はいはい。そうですね」
涼一はまともに取り合わず軽く受け流す。
茜は少しふくれっ面になったが、特に反撃することなく引き下がった。二人はカウンターには座らず、カウンターから少し離れたテーブル席に座った。
「今日はこっちには座らないのか?」
涼一が聞いた。
「たまにはテーブル席も悪くはないかなって。ね、夏音」
「う、うん」
夏音は曖昧に頷いた。
「ま、どこでも良いけど」
涼一はさして興味も見せずに注文を聞いた。
「メロンクリームソーダ二つね」
「いま、混んでるから少し遅くなる」
「ゆっくりでいいわよ」
茜が答えた。涼一は軽く頭を下げてカウンターに戻った。
「それでどうだったの?」
涼一が去るやいなや、茜は身を乗り出して聞いた。
夏音は少しもじもじしてから答えた。
「凄い楽しかったよ」
それから、幾つもの質問が矢のように茜の口から飛び出した。恐らく、何を聞こうか前もって考えていたのだろう。夏音はほとんど正確に答えた。
「それにしても明治神宮とはね。せっかくなら、渋谷とかに行けば良かったのに」
話しを聞き終えた茜が最もな感想を漏らした。
「ほら私、渋谷みたいに人が多い所はあまり好きじゃないから」
「原宿には行ったじゃない」
「それは藤沢君に誘われたからで、普段は好んでは行かないよ」
「まぁそうだけど、明治神宮って見る所ある?」
「時間も無かったし、散歩がてらには丁度良いいよ。今度、風野君と行ってみたら?」
茜は手を思いっ切り振った。
「無理矢理。だって、あいつ神様とかこれっぽちも信じてないから。初詣のことを何て呼んでると思う?義理詣って呼んでるのよ」
「義理詣って・・・・・・」
夏音は思わず笑ってしまった。義理詣と言う表現が何だがツボに入ってしまった。
「はい。お待たせしました」
涼一がメロンクリームソーダを持ってきた。
「わぁ。待ってました」
茜が歓声をあげた。夏音も声は上げないが、目が輝いた。
二人はまず二つ乗っているサクランボの一つを摘まんだ。
「さて、藤沢と行ったサクランボの店とどっちが美味いのかな?」
涼一はニヤッとした。
夏音はおろか茜まで咽た。
「ど、どうして」
目をまん丸にて夏音が涼一を見た。
「藤沢に聞いたの?」
茜が聞いた。
「まさか」
涼一は鼻を鳴らした。
「もしかして、付けたの?」
茜が引き気味に言った。
「そんなバカな真似するかよ」
茜が何か言いかけた時、あしゅまろの扉が開いた。三人の意識がそちらに向いた。入ってきたのは沙織だった。沙織はサッと店内を見渡した。そして、三人の姿を見つけるとあらと言う顔をして声を掛けた。
「涼一君。おサボり?」
沙織は微笑みながら聞いた。
「沙織さん。お疲れ様です。サボりではありません。お客様とコミュニケーションを取っているだけです」
涼一は頭を下げた。
「相変わらずかわし方が上手ね」
「沙織さん程ではありません」
「まぁ。私がいつかわしたかしら」
沙織は微笑んだ。
「僕がいつもデートに誘っても応じてくれないじゃないですか」
「だって、本気じゃないもの。涼一君が本気ならいつでも受けるわよ」
沙織は意味ありげな視線を涼一に送り、夏音と茜に挨拶をした。
「こんにちは。夏音ちゃんに茜ちゃん」
「こんにちは」
二人も挨拶を返した。
「夏音ちゃん。あなたに聞きたいことがあるんだけど良いかしら」
「私にですか?」
夏音は驚いた。あしゅまろには足繫く通っているが、沙織とはそれほど親しくはなっていない。と言うよりなれなかった。沙織のオーラに圧倒されて上手く話せないのだった。そんな自分に聞きたいことがあるなんて驚き以外何でもなかった。
「確かお兄さんいたわよね?」
「はい」
「どんな人?」
「どんな人?」
夏音はオウム返しした。
「家ではどんな感じなのかなって」
「えーと、特に何もないです」
質問の意図が全く読めなかった。
「そう。お兄さんはあなたに優しい?」
ますます混乱したが、素直に答えることにした。
「悪口は言ってきますけど、凄い冷たいわけでありませんって感じです」
「そう。ありがとう。ごめんね急に変な事を聞いちゃって」
「いえ・・・・・・」
夏音はチラッと涼一を見た。さすがの涼一も訝しげに沙織を見ていた。
「あ、そうだ。涼一君」
今度は思いだしたように涼一に話しかけた。
「あ、はい」
「あなたの話しを大学の女の子に話したら、是非とも会いたいって子が沢山いたから、近いうちに彼女達と会ってくれないかしら?」
「合コンのお誘いですか?」
「みたいなもね。嫌?」
「沙織さんの頼みを断る訳には行きませんので、喜んで行きますよ。ただし、沙織さん彼女達に嫌われても知りませんから」
涼一がニヤリとした。
「あら、それは困るわ」
言葉とは裏腹に嬉しそうに微笑んだ。
夏音はその様子を見てそれにしても絵になる二人だなと思った。二人が付き合ったら、とんでもない美男美女カップルになるだろなと想像したら、何故か嫌な気持ちが胸をよぎった。
「どうしたの夏音?」
夏音は我に返った。茜が不思議そうにこちらを見ていた。
「お話のお邪魔をしてごめんなさいね。ごゆっくり」
沙織はそう言ってその場を後にして、カウンターに居た陽二に挨拶をして更衣室へと消えた。
「さっきの質問は何だったんだろうね」
茜がその場にいる全員の気持ちを代弁した。
「さぁ」
夏音も首を捻るばかりだった。
「涼一は何か分かる?」
茜が聞いた。
「いや、全く」
涼一は首を横に振った。
「そう言えば、夏音のお兄ちゃんと沙織さんって同じ大学だったよね」
「うん。でも、学年も学部も違うよ」
「そっか。なら、二人の接点はなしか」
「多分」
「涼一、何か探りを入れておいてよ」
「断る」
涼一は即答した。
「それにしても、その年で合コンってどうなの?」
茜が非難がましい目で言った。
「合コンなんてただの建前だろう」
「まぁ何を企んでるか分かりませんけど、あんたは黙ってるに限るわね」
「何でだよ」
「余計なことを言って、お姉様方を不愉快にさせるからよ」
涼一は口をへの字に曲げただけで、何も言い返さなかった。
「さてと、沙織さんも来たことだし、俺は上がるかな」
「え?涼一帰るの?」
「ああ。学校に呼び出されてるんでね」
「今から行くの?」
夏音が聞いた。
「そう」
「もしかして、停学の話しとか・・・・・・?」
茜が心配そうに言った。
「まさか。そこまで悪いことはしてないでしょ。ねぇ?」
夏音が不安そうに涼一の目を覗き込んだ。
涼一の生活態度は決して良いとは言えない。むしろ、悪いと言える。停学は厳しすぎるとは言え何かしらのペナルティを受けてもおかしくはない。
「多分ね」
当の本人はあっけらかんとしている。
「ま、そうなったら自業自得ね。これからは学校にちゃんと来なさいよ」
茜は同情余地なしという態度を取った。
「口うるさい誰かさんと同じクラスでなきゃ、ちゃんと毎日行くんだけどな」
涼一は嫌味で返した。
「ほんとムカつく」
茜は涼一を睨み付けた。
三人が出会った当初はこの二人のやり取りにヒヤヒヤしていた夏音だが、今や見慣れた光景なので、仲裁に入ることなく受け流していた。
涼一は高らかに笑い、その場を離れた。
「ったく。涼一のやつ。藤沢の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわ」
「まぁまぁ、そんなに怒らないで」
「夏音はよく耐えてきたわね。私だったら、とっくに大喧嘩してるよ」
どうやら、本気で怒っているみたいだった。夏音は火消しにかかった。
「んー。でも、涼があんな風に冗談で嫌味を言うのは茜だけだよ。他の子だったら、徹底的に無視するもん」
「そうなの?」
「うん。それだけ、涼が茜に心を開いてるってことだし、涼は茜がいると楽しいっていつも言ってるよ」
「それは嘘ね」
「嘘じゃないよ。本当だよ」
着替え終わった涼一が更衣室から出てきた。学校に行くのは本当のようで制服を着ていた。陽二が声を掛け、何やら話し始めた。そこに沙織も加わった。涼一は二人に挨拶をして、夏音達の所にやってきた。茜はそっぽを向いたままだった。
「じゃあな」
「バイバイ」
夏音が応じた。
「変に口答えしないで、真面目な態度でいなさいよ。そしたら、少しは印象が良くなるだろうから」
すっかりお咎めを受けると思っている茜なりの励ましだった。
「心配してくれてありがとうな」
涼一にしては珍しく殊勝な態度だった。
「別に心配なんか・・・・・・まぁ、その、あんたが居ないと、ちょっとだけ学校がつまらないだけよ」
「俺は茜が居ないと凄いつまらないと思ってるぜ。何たって、俺は茜のことが大好きだからな」
涼一はしれっと言った。
こんな軽いセリフも涼一が言うと許されてしまう。
茜が涼一の方を向いた。
「全く。だから、あんたのこと嫌いになれないのよね」
涼一と茜は笑い合った。どうやら、茜の怒りはどこかへ消えてしまったようだ。
「涼・・・・・・」
夏音はまた心配そうに見つめた。
「そんな顔するなよ。大丈夫だって。それに明日からは毎日学校に行く。テストが近いからな」
そう言って、涼一はあしゅまろから出ていった。夏音は最後まで心配そうに見送った。
「これ以上心配しても仕方ないって。気を取り直して話しの続きしよ」
茜はメロンクリームソーダを思いっ切り飲んだ。
それから二人は二時間近くガールズトークに花を咲かせた。
「夏音。17時半だけど時間は大丈夫?」
スマホで時間を確認した茜が言った。
「あ、そろそろ行かないと」
今日は18時から塾があった。
「じゃぁ、帰ろっか」
「うん」
二人はレジに向かった。
「二人とも今日はあろがとうね」
陽二が慇懃に言った。
「ごちそうさまでした。今日も最高に美味しかったです」
茜が元気よく答えた。
「最高の誉め言葉をありがとうございます。いつでもおいで」
まるで、可愛い孫娘を見つめるような優しい眼差しを二人に向けた。
「テストが終わったら、また必ず来ます」
「そうか。テストの時期か。頑張ってね」
「はーい。ありがとうございます」
二人は沙織にも会釈をして、あしゅまろを出た。外はスッカリ晴れていた。
「はぁー。テスト嫌だな」
茜はこの上ない盛大なため息をついた。それもそのはずで、茜はテストの成績があまり良くなかった。特に社会科目が酷く、世界史のカタカナを見るだけで目眩を起こしそうになると言うくらい苦手だった。
「茜は塾に行かないの?」
「中学の時は行ってたけど、全然成績が上がらなくて親に怒られたから止めた。お金の無駄になるし」
「風野君と一緒に勉強したりしないの?」
「しないわよ。祐介も私と同じくらいの成績だから、一緒に勉強しても意味ないの。それに私は誰かと勉強しても喋っちゃうから」
「じゃぁ、涼に教えてもらえば?涼ならお喋りしないんじゃない?」
「絶対に嫌」
即答だった。
「涼は教えるの上手いよ」
「私が教えてもらったって、涼一をイラつかせるだけよ」
「涼はそんな短気じゃないよ」
「そう言う、夏音は涼一に教えてもらわないの?」
「私はほら、塾に通ってるから」
「別に塾に通ってたって良いじゃない。むしろ、涼一に教えてもらえば塾に行く必要無いんじゃない?」
「まぁ、そうなんだけど。親が行けってうるさかったから」
「夏音の両親もそうゆうこと言うのね」
茜は意外そうに言った。
本当は親からも茜と全く同じこと言われたのだが、茜には黙っていることにした。
「ん。待てよ。そうだ。良いこと思い付いちゃった」
茜がニンマリした。夏音は嫌な予感がした。
「夏音。明日から、一緒に勉強しようよ」
「ついさっき、喋っちゃうって言わなかった?」
夏音は怪訝な表情を浮かべた。
「私も成績を上げなきゃ本当にヤバイから、今回は喋ってる余裕なんてないから大丈夫。ダメ?」
「ダメじゃないけど・・・・・・」
想定していたほど、大した思い付きでは無かったので、夏音は拍子抜けした。
「ありがとう夏音」
「でも、自分でもちゃんと勉強しなきゃダメだよ」
「それくらい分かってるって」
そうこうしている内に波花駅に着いた。
「じゃあね夏音。明日からよろしくね」
茜はウインクをして走り去っていった。
夏音は一人になるとさっきの茜の言葉を思い出した。”涼一に教えてもらえば塾に行く必要なんて無いんじゃない?”確かに、涼一に教えてもらえば、100点は無理にしろ、大概85点以上は取れる自信があった。ただ、ある時からそれではいけないと思い始めた。涼一に何でもかんでも頼りにしていたら、いざ離れ離れになった時に困るのは自分だと気付いた。だから、高校に入ってからは涼一に教えを乞いたことはなかった。何より、涼一の勉強時間を奪いたくなかった。涼一が自分以上に頑張っているのを知っているから、その頑張りを邪魔したくなかった。
涼一が何度も勉強を教えようかと言ってくれたが、頑なに断った。最初の方は少し怒っていた涼一だったが、次第に何も言わなくなってきた。どんなに分からない問題があっても涼一にだけは聞かなかった。ただ、一年の最初の頃は何とかなったものの、授業が進むにつれて、分からない問題がどんどん増えてしまった。そこで親を説得して、一年の冬休み手前に塾に入ることに決めた。塾に入ったのと、日々の努力のお陰で何とか今の成績を保てるようになった。
塾の授業が終わり、キャリングケースに教材をしまって講師に挨拶をして塾を出た。イヤホンをしながら駅の中を歩いていると突如肩を叩かれた。夏音は驚いて振り向いたら、そこには涼一が立っていた。
「塾の帰りか?」
「そうだけど、どうしてここに?」
夏音は驚きを隠さずに言った。
「学校の帰りだよ」
「こんな時間まで?」
夏音はますます驚いた。
「まぁな」
「怒られたの?」
夏音は恐る恐る聞いた。
「まさか。ただの進路の話しだよ」
「進路?」
予想外の返答だった。
「そう。何でも俺の進路先は学校の名誉が掛かっているみたいだからな」
それを聞いて夏音は納得した。夏音達が通う高校の偏差値は低くはないが、すこぶる高いわけでもない。どう考えても涼一の学力は、良い意味で大きく逸脱している。校長ですらその進路先に大いに関心を持っているという噂もあった。
「どんな話しだったの?」
夏音は気軽に聞いた。
「本校初の東大生になってくれないかと校長から直々に言われたよ」
どうやら噂は本当だったみたいだ。
「どうせ断ったんでしょ」
「ご名答」
涼一がニヤリと笑った。
「断ったのに、こんな時間になったの?」
「簡単には返してくれなくてね」
「また随分と必死なんだね」
「お陰で時間を無駄にしたよ」
「そこまで言わなくても。校長先生だって、涼の為を思ってるだろうし」
「どうだか。俺が東大に行けば、都合の良い煽り文句を付けた垂れ幕を校舎の壁に垂れ流すことが出来るからだろ」
「それはどうだろう」
ハッキリと否定は出来なかった。
「でもま、そんなに時間も無駄じゃなかったかもな」
「どうして?」
「こうしてなつに会えたし」
「えっ」
思わずドキッとした。
「さ、愛しの藤沢君とデート話しでも聞きながら帰ろうか」
涼一は歩き始めた。
「ちょっと待ってよ」
夏音は慌てて追いかけた。
いつもの帰り道を並んで歩く。
「それでデートはどうだったんだ?」
「それより、どうして私と藤沢君がサクランボを食べたって知ってたの?」
「ああ。あれ?適当に言っただけ。まさか当たるとはね」
「もう。あの後、茜とずっと考えてたんだからんね」
夏音は少しむくれた。
「悪い悪い。それでどうだった?」
「そんなに聞きたい?」
「聞きたくなかったら、聞いてない」
「素直に聞きたいって言えば良いのに」
夏音は少し呆れて見せ、深呼吸をした。何故か、茜に話す時より緊張した。夏音は話し始めた。
「めちゃくちゃ上手くいったじゃん」
涼一が感想を漏らした。
「上手くいったけど・・・・・・」
「けど?」
「上手くいきすぎて不安」
「相変わらずの心配性だな」
「だって、最初だけ上手くいって、後は何もかもダメってよくあることじゃない」
「まぁ、そうゆうこともあるだろうけどさ。今は素直に喜んでれば良いのによ」
「茜にも同じことを言われた」
「誰だって同じ事を言うさ」
「涼は上手くいかないことある?」
「何だ急に?」
「ほら、涼って何でも出来るから失敗することとかあるのかなって」
「あるに決まってるだろ。神様じゃあるまいし」
「そうだよね」
涼一の上手くいかないことが何なのか気になったが、答えてくれないだろうと思い聞かなかった。
「ま、上手くいくことの方が多いけどな」
「わ、嫌な奴ね」
「でも・・・・・・」
「でも?」
「いや、何でもない」
「何よ。気になるじゃない」
「じゃぁ、気にするな。時間の無駄だから」
会話が途切れ、二人はしばらくの間無言になった。夏音は横目で涼一を見た。夏音は以前から気になっていたことを聞いてみようかと思った。それは涼一の恋愛事情についてだった。もっと正確に言えば、沙織との関係だった。あしゅまろでの二人を見ていて、お互いに気があるのでは無いかと疑っていた。今までは何となく聞くのを躊躇していたが、今なら聞けるような気がした。
「涼は好きな人とかいないの?」
さすがに沙織のことをどう思っているとは聞けなかった。
「また急な質問だな」
涼一は驚いた。
「そんな深い意味は無いんだけど、いつも私の話しばかり聞いてもらってるから、たまには涼のそうゆう話しも聞いてみたいなって。答えるのが嫌なら無理して答えなくて良いけど」
「好きな人ね」
涼一は何やら考え込んだ。恐らく、答えてくれないと思っていた夏音は少し意外に思った。
「具体的な事を聞かれるのが嫌ならいるかいないかだけでもいいよ」
「なら、いるよ」
涼一は即答した。
「えっ・・・・・・」
「俺だって青春したい年頃だぜ?好きな人の一人くらいいるよ」
「そ、そっか」
夏音は激しく動揺した。何故、こんなにも動揺しているのか自分でも分からなかったが、涼一が素直に答えてくれたせいだと言い聞かせた。
「俺からも聞いていいか?」
「何?」
「なつは藤沢のどこに惚れたんだ?」
「どこって・・・・・・」
「なつが見た目だけで群がるような女ではないことくらい分かってる」
「好意を持ったのは、バスケの試合を観に行った時だよ」
「それは好意を持ったきっかけにすぎないだろ。好意を持った後で藤沢を見つめる中で好きに変わった瞬間があったはずだ。違うか?」
夏音は押し黙った。涼一の言う時、それは実際にあった。健吾のことを好きと自覚してから、どこから好きだったのかを思い出した。しかし、この事は誰にも茜にすら言ってなかった。本当に些細なことで、そんなことで好きになるなんて、単純すぎると思われるのが嫌だった。
「話してみろよ。絶対、笑わないから」
「知ってどうするの?」
「どうもしないけど、幼馴染みの心を奪った男の行動を聞いて、俺も真似させてもらおうかなって」
「涼一には真似出来ないよ。きっと」
「それは俺が判断する」
「踏まなかったの」
「踏まなかった?」
涼一は眉を顰めた。
「藤沢君だけ踏まなかったの。去年の夏休み廊下でお化け屋敷のセットの一部を作ってたんだけど、他の皆は通る時、申し訳なさそうな顔をして踏んで通ったけど、藤沢君だけは踏まずに教室の中を通ってくれたの。人が一生懸命作ってるものを踏んだりは出来ないって。その時からだと思う。藤沢君を好きになったのは」
「そうか」
「ほらね、単純すぎるでしょ」
「単純の何が悪い。人を好きになるのに、複雑な理由なんて要らないだろ」
涼一の言葉が胸に突き刺さった。
「ありがとう。涼は本当に良いことを言うね」
健吾の中身が素敵なことはこの前のデートでも伝わったが、涼一も負けてないと思った。自分以外の人にもこうしたことを言えば、間違いなく学校の人気者になれるだろうと思った。
「それにしても、逆踏み絵みたいだな」
「逆踏み絵?」
今度は夏音が眉を顰める番だった。
「いや、何。キリスト教禁止の時代には、キリストを踏み絵にして、隠れキリシタンを見つけてただろ。でもなつのは、踏まなかったから印象に残った訳だから、逆踏み絵みたいだなって」
「そんなこと考えたの?」
夏音は呆れ気味に言った。
「つい、な」
「やっぱり、涼って変わり者だね」
夏音はクスクス笑った。
「悪かったな。どうせ俺は変人で変態だよ」
「変態まで言ってないよ」
「それにしても、藤沢のやつカッコイイな。俺だったら、間違いなく踏んで歩いてる」
「珍しいね。涼が素直に相手を褒めるなんて」
「カッコイイものはカッコイイと認めるくらいの度量はあるさ」
「涼は藤沢君と仲良くなりたいと思わなかったの?」
「ないよ。俺みたいな陰キャの嫌われ者からしたら、藤沢は眩しくて付き合えない」
「陰キャじゃなくて人とコミュニケーションを取るのが下手なだけでしょ。涼がその気になれば女の子の10人や20人なんてあっという間に集まるわよ」
「それは否定しない」
「涼は他人に興味が無さすぎるだけでしょ」
「それも間違いない」
「たまには、恐竜じゃなくて、人間にも興味を持ったら?」
「それは無理な注文だな」
「ほんと変わってる」
夏音は小さくため息を漏らした。
いつもの分かれ道に差し掛かった。
「そうだなつ。明日は一緒に勉強しないか?」
「えっ。急にどうしたの?」
「たまには、気分転換に学校の勉強も良いかなって」
「それなら、一人で良いじゃない。私が居ても気が散るだけでしょ」
「前から思ってたけど、どうしてそう俺と勉強することを拒むんだ?」
涼一の口調が尖り始めた。
「拒んでなんかいないよ。ただ、涼に頼り過ぎないようにしてるだけで」
夏音は即座に否定した。
「ふーん」
「それに明日は茜と一緒に勉強するから無理なの」
「茜と?」
「そう。何でも成績が危ないから、勉強を教えてって泣きつかれて」
「どこで?」
「学校の図書室だけど」
「図書室ね。じゃぁ、俺は家で一人寂しくやるよ」
涼一は仲間外れにされたことで不貞腐れた。
「そんな不機嫌にならなくても良いでしょ」
「なってねぇよ。じゃあな」
涼一は夏音の言葉も待たず帰っていった。
「涼・・・・・・」
家に帰った夏音は少し暗い気分になっていた。あんなに怒った涼一を見たのは久し振りだった。別れ際の涼一の顔を思い出すと、胸がちくっと痛んだ。気分転換と言っていたが、夏音のことを思ってのことは重々承知していた。その涼一の優しさを無下にしてることを申し訳なく思った。特に最近は涼一に助けられぱなっしなことも相まって罪悪感が徐々に膨れてきた。明日、涼一に会ったら素直に謝ろうと思った。
翌日、学校の授業を終えた夏音は図書室に向かっていた。茜と一緒に来ようと思っていたが、先に行っててと言われたので、仕方なく一人で向かった。涼一が来なかったので、謝ることが出来ず少し暗い気分を引きずったまま一日を過ごしていた。図書室に入り、二人分の席を確保しようとテーブルに向かったら、何と涼一が座っていた。
「よ」
涼一がいつもの軽い挨拶を寄越した。
「何でここにいるの?」
夏音は挨拶も返さず詰め寄った。
「俺がどこにいようが勝手だ。とにかく、そこに座れよ」
涼一が自分と向かいの席を指差した。夏音は他の席を探したが、生憎埋まってしまっていた。夏音は仕方なくそこに座った。
「それで?」
夏音が再び問い詰めた。
「それでとは?」
「ここに何しにきたの?」
「何って勉強だけど」
「家でやるんじゃなかったの?」
「そう思ったんだけど、良いことを思いついてね」
「良いこと?」
「夏音に勉強を教わりに来た」
「はい?」
夏音の目が点になった。
「俺にも勉強を教えてくれと言ってるんだ」
「何を言ってるの?」
「何って。頼み事」
「私から教わることなんてないでしょ」
「いや、ある。三角関数が分からないから教えてくれ」
そう言うと、涼一はカバンの中から数学の教科書を取り出した。
「バカなこと言わないで。涼が分からない所なんて私に分かるわけないじゃない」
「そんなこと教えてもらわないと分からない」
「とにかく無理だって」
「しょうがない。教えてもらうのは諦めよう。でも、ここで勉強する分には構わないだろう?」
「それは・・・・・・」
断る理由が思いつかなかった。
「ダメなのか?」
「別に良いけど。邪魔だけはしないでよね」
「よし。決ま・・・・・・」
涼一の顔が急に険しくなった。
「涼?」
話しかけても返事はなかった。ただ、夏音の向こう側を凝視している。
「藤沢・・・・・・」
涼一が呟いた。
「えっ」
夏音が振り向くと、健吾がこちらに近づいて来ている所だった。健吾も二人に気付き、笑いかけたが、涼一の姿を見るなりハッとして立ち止まった。しかし、軽く咳ばらいをして二人の側へやってきた。
「や、やぁ」
健吾の声は明らかに強張っていた。
「藤沢君どうして?」
「滝川に一緒に勉強してくれって言われて来たんだけど」
健吾は頬を掻いた。
夏音は茜の目論見を理解した。変だとは思っていたけど、まさか健吾を呼び出すとは思ってもいなかった。だが、不思議と茜への怒りは沸いてこなかった。
「そっか。それで呼び出した本人は?」
「用があるから先に行っててとしか言われなくて。立花も居るってことは、立花も勉強教えてって頼まれたの?」
「いや、俺は偶然居合わせただけ。もう帰るから安心しろ」
涼一は教科書をしまい、席から立ち上がった。
「ちょ、ちょっと涼」
「じゃあな」
涼一は風のようにその場を立ち去った。健吾は呆気に取れらるだけで何も反応が出来なかった。
「とりあえず、ここに座ってもいい?」
健吾は今まで涼一が座っていた席を指差した。
「うん」
夏音は頷くしかなかった。
「ん?これは?」
健吾はしゃがみ込んで何かを拾い上げた。拾ったのはパスケースらしき物だった。
「あ、それは涼のパスケース」
「まだ追いつけるな。渡してくる」
健吾は急いで図書室を出た。
涼一には校門の所で追いついた。
「立花」
健吾が声を掛けると、涼一は足を止めて振り返った。
「これ。落としてた」
健吾はパスケースを差し出した。
「ああ。すまん」
涼一はパスケースを受け取った。
健吾は涼一をジッと見た。
「何だよ」
「お前も一緒に戻らないか?」
「何?」
「立花だって、河口と一緒に勉強がしたいんだろ?」
「急に何を言い出すと思えば。俺に試験勉強なんて必要ない」
「じゃぁ、何で数学の教科書を机に出してたんだ?」
「あれは・・・・・・暇潰しに読んでいただけだ」
「そんな見え透いた嘘つくなよ」
「嘘なんてついてない」
「河口の事、好きなんだろ?」
「またその話しか。うんざりするね。デートが上手くいったことを自慢でもしたいのか?」
「いい加減に自分の気持ちを素直に認めろよ。好きなのにどうして告白をしない?」
数秒間の沈黙が流れた。
「お前は清々しいほど単純で羨ましいな」
涼一は憎々しく吐き捨てた。
「何だと?」
「まぁいい。お前と無駄話しをするつもりはない」
踵を返そうとした涼一の腕を掴んだ。
「待て。まだ答えを聞いてない」
「藤沢は告白しないのか?」
健吾はまたそれかと思った。しかし、こちらが話さなければ話すことはないと分かっているので、健吾は本心を晒すことにした。
「したい。けど、まだできない」
「何故?二人で出掛ける仲にもなったじゃないか」
「まだお前に勝てないからだ」
「俺に勝てるなんてどうでも良いじゃないか。俺は告白するつもりはないし」
「告白するつもりがない?」
「そうゆうことだ。良かったな色男」
涼一が茶化したが、健吾は取り合わなかった。
「どうして?」
「世の中には伝えなくても良いことがあるってことだ」
健吾が更に聞こうとしたが、涼一がそれを遮った。
「質問タイムはもう終わりだ。パスケースをありがとう」
涼一は手を挙げて帰っていった。
健吾が図書室に戻ると、茜が夏音の隣に座っていた。健吾は先程の席に座ろうとしたが、茜が「違う。あんたはこっち」ともうひとつ空いていた夏音の隣の席を指した。健吾のカバンもそこに移動させらていた。
「俺はこっちでいいよ」
「ダメ。隣に座った方が教えやすいでしょ」
「そうだけど、狭くない?」
「夏音の隣が嫌なの?」
「いや、そうゆうわけじゃないけど・・・・・・」
「じゃぁ、文句を言わずに座って」
「分かったよ」
健吾はこれ以上逆らっても碌な目に合わないと悟り指示に従った。
「私は夏音から聞くけど、藤沢は夏音の分からない所を教えてあげてね」
「俺が?」
「他に誰がいるの?」
「あ、でも、私は一人で解くから」
「何言ってるの。藤沢の頭の良さを知ってるでしょ。涼一ほどじゃないにしてもこの中では一番成績が良いんだから、遠慮なく聞けばいいのよ」
「でも、藤沢君だって自分の勉強があるし」
「俺は大丈夫だけど、俺は誰に聞けばいいんだ?」
「自分でどうにか出来るでしょ」
茜はさも当たり前のように言い放った。
「全く」
健吾は呆れながら、夏音の隣に座った。
夏音は膝の上で手をモジモジさせた。
「それにしても、戻ってくるのに結構時間掛かったわね。渡せたの?」
「渡せたよ。あいつ歩くの速いな。校門の所まで行ったよ」
「涼一は逃げ足速いからねー」
茜は含んだ言い方をした。
「わざわざごめんね」
夏音は謝った。
「河口が謝ることじゃないよ」
健吾は苦笑いをした。
「ま、渡せたなら良いじゃん。そろそろ勉強始めよっか」
茜の一言で三人は勉強を始めた。最初の10分くらいは緊張で落ち着かなかった夏音だが、健吾の隣にも次第に慣れてきた。
「あれ?消しゴムがない」
健吾が筆箱の中を探り始めた。筆箱の中身を全部出したが、消しゴムは見つからなかった。
「おかしいな。五時間目まではちゃんと合ったのに」
茜が夏音の脇をつついた。夏音が茜を見ると、夏音の消しゴムを手に持っていた。これを貸してあげればいいという意味だとすぐに理解した。
「藤沢君。これ使って良いよ」
夏音は健吾に消しゴムを差し出した。
「いや、悪いし、教室を見てくるよ」
「消しゴムなんて明日回収すれば良いんだから、今は夏音の借りときなさいよ」
茜がしれっと助け船を出した。
「ああ、じゃぁ、今だけ。ありがとう」
健吾は消しゴムを受け取り、間違った箇所を消した。
「ここに置いておくから、好きに使って」
夏音は二人のノートとノートの間に消しゴムを置いた。
それからまた三人は黙々と勉強を始めた。夏音は消しゴムを使おうと手を伸ばした。すると、同じタイミングで手を伸ばした健吾の手が夏音の手に重なった。
「あ」
二人の声も重なり、目を合わせた。
「ご、ごめん。全然みてなくて」
健吾は慌てて手をどけた。
「い、いや、こっちこそ。先に使って」
夏音の顔は真っ赤に染まっていた。
「河口のなんだから、先に使いなよ」
「ありがとう。すぐに消すから」
自分でも意味のないことを口走っていると思ったが、どうしようもなかった。夏音は動揺で消さなくても良い箇所まで消してしまった。すぐに書き直そうとしたが、手の甲に健吾の大きな掌の感触が残っていて集中出来なかった。手が止まっている夏音を見て、解けない問題に苦戦していると思った健吾は「どこか分からないの?」と声をかけた。
「えっと。ここ」
夏音は思わず問題を指差してしまった。
「どれどれ」
健吾は問題を読むために夏音の方に体を寄せた。健吾の顔が数センチの距離に近づいた。夏音はチラッと盗み見た。そして、真剣に問題を読んでいる健吾の横顔に見とれてた。
「この問題の解き方はね・・・・・・どうかした?」
夏音の視線に気付いた健吾が聞いた。
「ううん。何でもないよ」
夏音は慌てて問題に目をやった。
健吾はキョトンとしたが、すぐに解説を始めた。実は問題の答えは分っていたが、夏音は黙って聞いていた。しかし、緊張のせいでほとんど耳に届いて無かった。
「一応、こんな感じでやれば解けるけど、今の説明で分かったかな?」
健吾が夏音の方に顔を向けると、夏音と目が合った。二人は思わず見つめ合った。僅かな距離で健吾と見つめ合う夏音の鼓動は否応なしに早まった。静かな図書室の中では、鼓動の音が大きく聞こえる。そんなはずはないと分かっているのだけれど、鼓動の音が健吾にも聞こえているのではないかと不安になった。見つめ合った時間はほんの数秒間に過ぎない。なのに、見えざる手によって時計の針を止めたのかと思うほど、その時間は長く感じられた。
不意に隣からカチャンと音が聞こえた二人はハッとなって、隣に目をやった。すると、茜が眠そうに目を擦っていた。どうやら、音の正体は茜がペンを手から落としたようだった。
「あ、ごめん。一瞬寝てた」
茜が大きな欠伸をした。
「まだ30分くらいしか経ってないよ」
夏音が冷静に突っ込んだ。
「だって、分かんないし、つまらない」
「茜が勉強を教えてって言い出したんだよ。ほら、どこが分からないの?教えるからシャーペンを持って」
夏音が茜をしゃんとさせた。
「もう良いよ。どうせ、勉強したって赤点だし」
「滝川が補習なんかで試合に帯同が出来なくなったら、皆と勝った喜びを分かち合えない。そんなの嫌だろ?」
「それは嫌だけど、勉強難しい」
「せめて赤点だけでも回避出来るように頑張ろ」
夏音も茜を励ました。
「そうだね。せっかく、付き合ってもらったのに、ワガママ言い出してごめんなさい。いきなり涼一みたいに頭が良くなる訳ないし、地道に頑張る」
茜は素直に二人に謝った。
夏音にはこの素直さが羨ましく映った。ハプニングがあったとは言え涼一に謝ることが出来なかった。そのことが夏音の心に暗い影を落としていたが、明日こそは茜みたいに素直に謝ろうと思ったら、少しだけ気持ちが明るくなった。
健吾からパスケースを受け取り一人寂しく学校を後にした涼一は家に帰るのももどかしく、気晴らしにどこか出掛けることにした。駅に着くとタイミング良くバスが来たのでバスに乗ることにした。バスのスッテプに足を掛けた時、後ろから「立花君!」と呼ぶ声が聞こえた。涼一が振り向くと、えりかが小走りで涼一の元に駆け寄ってきた。涼一の所まで来たえりかは少し息を弾ませながら「どこに行くの?」と聞いた。
「別にどこでも」
涼一は素っ気無く答えた。
「私もいっしょに付いていっていい?」
涼一は一瞬考えたが「好きにしろ」と言ってバスに乗り込んだ。えりかは嬉しそうに後に続いた。涼一は一番後ろの右端に座った。えりかは座席一つ分を空けて横に座った。えりかは涼一に話しかけたが、涼一は心ここにあらずといった反応だったので、すぐに話しかけるのを止めた。涼一は波花中央図書館前で降りた。しかし、図書館に寄ることはなく、図書館の近くを流れる川に向かった。えりかは横には並ばず、涼一の少し後ろを歩いた。その方が涼一をよく観察できるからだった。
「河口さんと帰らないなんて珍しいわね」
えりかはタイミングを見計らって話しかけた。
「なつは藤沢と図書室デートしてるから」
「ふーん。順調そうじゃない」
「そう言えば、この前三人でカフェに行ったそうだな。どうゆう風の吹き回しだ?」
「ああ。そんなこともあったわね。何だかもう懐かしく感じるわ」
「なつと藤沢の邪魔をしたかったのか?」
えりかは首を横に振った。
「まさか。私としては二人が付き合ってくれれば好都合と思って、手助けにしたつもりよ。全く伝わらなかったみたいだけど」
「特に茜にはな」
「そうでしょうね。次の日、廊下で私を見た途端に不機嫌丸出しになってたもの。まぁでも、別に彼女達にどう思われたって構わないわ」
言葉とは裏腹にえりかの顔には寂しさが漂っていた。
「そうか」
涼一はえりかの強がりに気付いていたが、敢えて言及しなかった。何故えりかが強がるのかを知っているからだ。
「それより立花君は良いの?」
「何が?」
「ただ黙ってるつもり?」
「黙るも何も、なつが藤沢の事を好きなのは事実だろ。俺がとやかく言う権利はない」
「そうじゃなくて、いつあの事を話すの?」
「それは・・・・・・」
涼一の歯切れが悪くなった。
「私が河口さんの立場なら絶対に言って欲しかったって思うわ」
「そうかもしれないけど、今は、幸せになろうとしてるなつを困らせたくない」
「立花君って本当に優しいよね」
「優柔不断なだけだ」
「ううん違う。立花君は本当に相手の事を思いやれる優しさを持ってる。高校生でそこまでの優しさを持てる人はそうは居ないわ」
「・・・・・・」
涼一は足を止めて川を眺めた。
「いつだって河口さんの事を一番に考えてる。それに気付かない河口さんにイライラするわ」
「好きな人がいるんだ。それ以外見えなくて当然だよ」
「恋は盲目って言うものね」
「そうだな」
「でも、いつまでも隠し通せる事じゃないでしょ」
「いずれは言う。ただ今はダメだ。だから、誰にも言わないでくれ」
「言わないわよ。私の事も秘密にしてもらってるし。それに、立花君に嫌われるような真似なんかしたくないもの」
「ありがとう」
「それにしても、学校の二大スターから想いを寄せらるなんて、河口さんはまるで小説のヒロインみたいね」
「永瀬だってモテモテじゃないか」
「一年生の最初の頃はね。私の性格を知られた今は誰も近寄っては来ないわ」
「その時に良い男は居なかったのか?」
「私に言い寄って来た男は、私の外見にしか興味ないから、もれなく振ったわ」
「健全な男子高校生なら仕方ないさ。可愛い女子を連れて歩くのがある種の名誉みたいなものだからな」
「まぁ、女子も似たようなもんよ。立花君もそう思ってる人?」
「俺は顔も中身も同じくらい求める強欲な奴だから」
「一番モテないパターンの人ね」
えりかはクスクス笑った。
「そんな自分の理想の女の子が誰よりも一番近くに居るのに、気持ちを伝えられないなんて世の中はそう上手くいかないもんだな」
「立花君・・・・・・」
「近ければ近いほど、大切に思えば思うほど、どう伝えて良いのか分からなくなる。藤沢のようにただ真っ直ぐに気持ちをぶつけられたらどんなに良いか」
「もし、このまま二人が付き合ったらどうする?」
「二人の前では目一杯祝福するさ。そして、その後で少しだけ泣くかな」
涼一は自嘲気味に笑った。
「その時は一緒に泣いてあげるわ」
「バカ言え、自分の情けない所なんて見られたくない」
「情けなくなんかないよ。辛い時は誰だって泣いて良いんだよ。そして、泣いた後は一緒に笑おう。辛い事は忘れて、私と一緒に笑っていようよ」
涼一は突然の告白に戸惑い、声を出すことが出来なかった。
「ダメ?」
えりかは涼一の正面に立って、少し潤みを含ませた瞳でジッと見つめた。
涼一はその視線耐えられず顔を逸らした。
「悪い・・・・・・今は何も答えられない」
「ううん良いの。私の気持ちは変わらないから」
「永瀬まで悲しませたくない」
次の瞬間、えりかは涼一に抱きついた。
「私はもう悲しんだりしないわ。だって、もう一生分の悲しい思いをしてきたもの」
えりかの声は少し震えていた。
「永瀬・・・・・・」
「側に居てくれなくても私は大丈夫。声だけでも聞ければそれだけで十分よ」
「分かった。今はその気持ちだけ受け取っておく」
涼一はえりかの頭を優しく撫で、自分の体からそっと離した。
「ごめんね、困らせちゃって」
えりかは指先で涙を拭った。
「いや、謝るのは俺の方だ」
「ねぇ、テストが終わったら、一緒に出掛けない?」
えりかは努めて明るい声を出した。
「時間は取れるのか?」
「大丈夫。何とかするから」
「永瀬が良いなら、俺は良いよ」
「ほんと!嬉しい!」
えりかは無邪気に笑った。
「どこに行くとか決まってるのか?」
えりかは少し得気な顔をした。
「立花君も行きたいって思ってる場所だよ」
「俺も?ああ、そうゆうことか」
涼一は楽しそうに頷いた。
勉強を終えて夏音と茜は二人と反対方向の健吾を見送り、電車を待っていた。
「はぁー疲れた。こんな長い時間勉強したの生まれて初めて」
茜は肩をグルグル回した。
「お疲れ様」
夏音は笑った。
「夏音はどうだった?楽しかった?」
「勉強が楽しいわけないでしょ」
「そっちじゃなくて。藤沢と一緒に居てどうだったって聞いてるの?」
「嬉しかったけど、集中出来なかったよ」
「藤沢に夢中だったわけね」
茜がチェシャ猫のようにニヤニヤと笑った。
「そんなんじゃなよ」
実際は茜の言う通りな所もあるのだが、涼一のことを気掛かりに思っていた方のが強かった。明日、素直に謝るとは言え涼一が学校に来るとは限らない。それに、茜の粋な計らいにより、明日からテストが終わるまで夏音の塾の日以外は三人で勉強して帰ると言う話しになった。明日とは言わず今日の夜に電話して謝ろうと思った。
お風呂から上がった夏音は早速涼一に電話を掛けようとした。スマホを見ると健吾から着信が来ていた。夏音は驚きのあまり一瞬涼一に事が頭から吹き飛んだ。どちらに先に電話するべきか迷ったが、夏音は健吾に電話することにした。健吾は間違えて夏音の消しゴムを持って帰ってしまったことを電話で謝っきた。それくらいの用ならはメッセージだけでも良かったのではと思ったが、どうやら消しゴムは表向きで自分と電話して話しかったと言う健吾の一言によりあっけなく撃沈した。不思議なことに電話だとスムーズに会話が出来た。夏音も次第に気持ちが入り、気付けば2時間以上も電話していた。
「ごめん。少し喋りすぎちゃったね」
「ううん。楽しかったよ。ありがとう」
「良かった。じゃぁ、また明日」
「おやすみなさい
「おやすみ」
健吾との電話を終えた夏音は自分の体が少し熱く感じた。窓を開けると心地良い風が部屋を横切った。体が冷めていくのと同時に涼一の事を思い出した。涼一のトーク画面を開いた。夏音は電話を掛けようと通話ボタンを押そうとしたが、思いとどまった。せっかくの幸福な気分を涼一に電話をして台無しになったらどうしようと思ってしまった。夏音は結局電話を掛けることなくラインを閉じた。夏音は罪悪感を抱いたが、無理矢理気持ちから追い出した。
次の日から涼一と学校で会わなくなった。以前みたいに夏音も涼一に声を掛けることはしなかった。また変な噂を立てられたら困るし、何より涼一が自分を避けていると感じた。最初の方こそ電話しなかった時の罪悪感を思い出したりもしたが、次第に自分は悪くないと開き直ることにして、健吾と過ごす幸せを噛み締めていた。一度、涼一がえりかと一緒に帰っている所を目撃した時は、どうしようもない虚無感に捉われる事もあったが無視した。
そうこうする内に中間テストを迎えた。三人とも成績が上がり喜んでいた。特に茜は赤点を取らなかった事に感動して泣いていた。何度も二人のお陰で、この恩は忘れませんとしきりに頭を下げた。夏音と健吾はその様子を楽しそうに眺めては、茜の努力の賜物だと言って茜の気持ちを持ち上げた。そして、涼一は学年一位を見事に飾ったものの、当の本人は喜ぶこともなく中間テストは終わった。
中間テストが終わったので、部活動が解禁された。健吾の所属するバスケ部はインターハイに向けての猛練習が始まった。
テストが終わってしまったので、健吾と一緒にいる時間は減ってしまったが、夏音は何一つ不満等抱かなかった。健吾は部活が無い日は極力一緒に帰ってくれるようにしてくれたし、電話の回数も増えてきた。そんな健吾にこれ以上のワガママを望むような夏音では無かった。
そんな幸せ一杯の夏音にも一つだけ心に影を落とすことがあった。それは涼一との関係だった。テストも終わり部活も始まったので、密かに涼一と一緒に帰れる機会があると思っていたが、夏音だがそんな機会は中間テストが終わってから2週間近く経っても訪れなかった。涼一が学校に来ないのはいつも通りなので心配はしてなかったが、学校で見かける度に涼一の側にはえりかがいることが心に漣を立たせた。嫌な予感がチクチクと胸を刺激してくるせいで、話しかけるのはおろかラインを送るのも躊躇ってしまった。
いつものようにあしゅまろのメロンクリームソーダを飲んでいた茜が唐突に切り出した。
「最近、あの二人仲良いみたいなんだよね」
茜も涼一とえりかの仲の良さを妙に思っていたみたいだった。
「確かに、最近よく二人の名前を聞くな」
健吾が同意した。
今日はバスケ部は休みだったので、健吾も二人に付き合いあしゅまろに来ていた。健吾にとっては初来店となる。
「そうなの?」
茜と健吾に挟まれて座っていた夏音が聞いた。
「俺の友達が永瀬と同じクラスなんだけど、いつもより機嫌が良くなったって言ってた」
「涼一と上手くいってるから機嫌が良いってこと?」
「そこまでは聞いてないけど」
「そう言えば、テスト期間の時期に二人が一緒に帰っている所を見たわね。それ以来見かけて無いから、単に涼一の気紛れだと思って気にしてなかったけど」
「だけど、最近は一緒に遊んでることも多いみたいだね」
「マジ?」
「そいつが言うには駅からバスに乗ってどこかに行くのを何回か見たって」
「たまたま乗るバスが被った訳じゃなくて?」
「いや、かなり親しげに会話をしてたみたいだよ。それで、次の日は凄い機嫌が良くて友達が話しかけたら、笑顔で話してくれて驚いたってさ」
「ふーん。かなり怪しいわね。あの涼一が夏音以外と二人で帰るなんて聞いたこともないし」
茜の言葉に夏音の胸がざわついた。
「滝川はあの二人が出来てると思う?」
「そうねぇ。半々って所ね」
「でも、二人で帰るなんて涼からしたら何でもないことだよ。それだけで付き合ってるって話しになるのは変よ」
なぜ、こんなに必死に否定するのか自分でも分からなかった。
「別にあの二人が付き合ったって良いじゃん。そっちの方が好都合だし」
「何が好都合なんだ?」
「ああ。まぁこっちの話しだから気にしないで」
茜は舌を出して誤魔化した。
健吾は今一つ納得しなかったが、それ以上は聞かなかった。
「もうこの話しはやめようよ。本人にしか分からないことだし」
夏音は早く次の話題に移行したかった。
「そうだな。ところで、今日は立花は働かないかな?そうすれば聞けるのに」
「え?まさか涼一に聞くつもり?」
「だって、それが一番手っ取り早いし」
健吾はさも当たり前のような顔をした。
「絶対答えてくれないし」
「聞いてみないと分からないよ。すみませーん」
健吾は側にいたかなえを呼んだ。
「何?注文?」
「今日って立花君は来ますか?」
「涼ちゃん?今日は来ないよ。涼ちゃんに用があったの?」
「あ、いや大したことではないので、来ないなら大丈夫です。すみません」
「そう。なら、良いんだけど」
かなえはすぐに引き下がった。
「そろそろ帰ろう」
特に話すこともなくなったので、茜が切り出した。
「私、お手洗い行くから先に出てて」
夏音が言った。
トイレから戻ってきた夏音は会計を行った。
「あの、涼はいつ入ってるんですか?」
トイレに行ったのは陽二に涼一の出勤日を聞くための言い訳だった。
「涼ちゃんは珍しく当分入ってないよ。次は確か、六月の中旬の日曜日だったかな」
陽二はお金を確認しながら言った。
「えっ。そうなんですか?」
「何か忙しいみたいだよ。聞いてない?」
「最近、話してなくて・・・・・・」
夏音はバツ悪そうに答えた。
「そうか。最近はあのイケメン君と一緒にいるのかな?」
陽二はニコリと笑った。
「そんなことは無いです」
夏音は俯いた。
「おやおや?図星みたいだねぇ。今度は彼と二人でおいでよ」
「え、ええ。ありがとうございます。ごちそうさまでした」
夏音はお礼を言って出口に向かった。
「なっちゃん」
陽二が呼び止めた。夏音は振り返った。
「後悔しないようにね」
「えっ?」
夏音は陽二を見つめた。
「夏音まだー?」
扉を開けて茜が声をかけてきた。
「う、うん。今行くよ」
夏音は返事をして、もう一度陽二の目を向けた。陽二はただ微笑んでいるだけだった。夏音は踵を返してあしゅまろを後にした。
二人と別れた後も夏音の頭から陽二の言葉が離れなかった。陽二は自分に何を伝えたかったのか、まるで見当もつかなかった。そして、そのことを考えると涼一とえりかが仲が良いという話しが頭にチラついた。少し前に涼一に好きな人が居ると言われた時は、てっきり沙織だと勝手に思っていたが、あれはえりかのことだったのだろうか。しかし、そんな素振りは見えたことがない。何なら、えりかのことはむしろ嫌いなのではと思っていた。また胸の奥がチクチクと痛み始めた。今の涼一が何を考えているのか全く分からなかった。それもそのはずで、もう二週間以上も口を聞いてない。元から何を考えているのか解りづらい人物ではあったが、この二週間で随分と遠くにいってしまったように感じていた。健吾と仲良くなればなるほど涼一が遠ざかっていく。そんな一抹の不安を夏音は抱え始めていた。
そんな悩みを抱えながらも、健吾のために手作りの御守りを制作し始めた。元来、不器用な所がある夏音にとって細かい作業を要求される御守りは相当な労作業だった。何度も指に針を刺したりと苦労したが、一生懸命頑張っている健吾の役に少しでも立ちたい夏音は寝る間を惜しんで御守り作りに励んだ。皮肉なことに、御守りを作っている間は涼一のことでも悩まずに済んだ。
御守り制作のせいもあってか、あっという間にインターハイ予選が始まった。直接渡すのが恥ずかしくて茜に頼んで渡してもらおうと思ったが、茜は自分で渡しなさいの一点張りで受け取ってくれなかった。困った夏音だったが、勇気を出して試合の前日に健吾に電話をして試合の前に少しだけ時間を作ってほしいと頼んだ。
「ごめん。お待たせ」
待ち合わせの場所にユニフォーム姿の健吾が現れた。アップの後なのか、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「ううん。試合前なのにごめんね」
「大丈夫だよ。それで話しって?」
「あ、うん。今日の試合を頑張ってって言いたくて・・・・・・」
「そうか。ありがとう」
健吾はニコリと笑った。
「あ、後、これを渡したくて・・・・・・要らなかったら捨ててもいいから・・・・・・」
夏音は顔を真っ赤にして俯かせたまま今にも消えりそうな声で言ってから、制服のポケットからお手製の御守りを健吾に差し出した。
健吾は差し出された御守りを見つめた。
「これってまさか手作り?」
「一応・・・・・・」
夏音は自信無さげに答えた。
健吾は御守りから目を離さない。
「下手だよね。やっぱりこんな出来の悪い御守りなんてもらっても迷惑だよね」
夏音は急いで御守りを引っ込めようとしたが、健吾は夏音の手を御守りごと素早く握った。夏音は驚いて顔を上げた。
「要らないわけないだろ。嬉しくてつい何も言えなかったんだ」
「あ・・・・・・」
健吾の手の温もりが夏音の手を包む。
「今まで貰った物で一番嬉しいよ」
健吾は真剣に夏音を見つめた。夏音も見つめた。今度は手をすぐには離さなかった。
健吾は握っていた手を緩めた。そして、夏音の手から御守りを受け取った。
「ありがとう。大事にするよ」
「うん。ありがとう」
「そろそそ戻らないと」
「怪我しないでね」
「ああ」
健吾は手を挙げて軽く走って戻った。その手は夏音の御守りをしっかりと握り締めていた。夏音はその背中が見えなくなるまで見送り、さっきまで健吾が握り締めてくれていた右手を左手の掌で覆った。
「涼ちゃん。手止まってるよ」
洗い物をしている涼一の横で、今日の分の売り上げを数えていた陽二が言った。
「あ、すみません」
「今日はもう帰りなさい。後は僕がやっておくから」
「でも・・・・・・」
「良いから」
「・・・・・・すみません」
涼一はもう一度謝った。
涼一は着替えようと更衣室へ向かおうとした。
「ちょっと待って涼ちゃん。これ先月のお給料」
あしゅまろでは銀行振り込みではなく手渡しだった。
「あ、ありがとうごさいます」
「うん。ご苦労様」
給料を受け取った涼一は改めて更衣室に向かい、着替えを済ませた。
「お疲れ様でした」
陽二に挨拶をした。
「涼ちゃん」
「はい?」
「まだ悩んでるんでしょ?」
「いえ、別に」
涼一は目を逸らした。
「そうだ。明日は来なくて良いから。学校に行きなさい」
涼一は何か言い返そうとしたが、陽二の目がそれを許してくれなかった。
「分かりました。お疲れ様でした」
「はい。お疲れ様」
陽二はいつもの笑顔で涼一を見送っった。
明くる日の朝。夏音はいつも通りに家を出て学校に向かっていた。学校の最寄り駅に着いて、歩いていると少し前に涼一の姿を発見した。夏音は少しドキリとした。いつものなら声を掛けるはずだが、今日に限っては躊躇ってしまった。涼一の歩くスピードは速く、夏音は小走りしないとすぐに離されてしまいそうになった。夏音は何も後ろめたいことなんてないと自分に言い聞かせ涼一に声を掛けた。
「涼。おはよ」
声をかけながら横に並んだ。
「なつか。おはよう」
涼一は抑揚の無い声で言った。
「遅刻せずに学校に行くなんて珍しいね」
「まぁな」
いつも通りの反応ではあるが、長年付き合っている夏音からすると、心無しか元気がないようにみえた。
「どうしたの?元気がないようだけど」
「そうか?いつも通りだけど」
「あ、そうだ。バスケ部勝ったよ」
「あっそ」
涼一は素っ気無く返した。
「少しは興味ないの?」
「全くないね」
「そう」
涼一の態度にムッとしながらも、やはりどこかおかしいと思った。夏音は何があったのか、詳しく聞き出そうとした。
「ねぇ」
「なぁ」
二人の声が重なった。
「何?」
涼一が聞いた。
「あ、えっと、やっぱり元気が無いなって。本当にどうしたの?」
「元気だよ。ただ・・・・・・」
「ただ?」
「なつに話したいことがあって」
涼一は夏音に目を向けた。その目は夏音が今までに見たことがないような真剣な眼つきをしていた。夏音は思わず唾を飲み込んだ。そして何故だが、話しを聞きたいと思う以上に聞きたくない方が強かった。
「おーい」
二人の流れている空気とは正反対の能天気な声が聞こえた。
「藤沢君・・・・・・」
「おはよう」
健吾が言った。
「おはよう」
夏音は返したが、涼一は何も言わなかった。
「二人で何話してたの?」
「えっと」
夏音はチラッと涼一を見た。
「お前の話しをしてたんだ」
涼一が妙に明るい声で言った。
「俺の?」
「そうだ。昨日は試合で大活躍したそうだな。河口が今嬉しそうに語ってくれたよ」
「そんなことは無いけど」
健吾は照れた。
「じゃぁ、後は二人でよろしくやってくれ。じゃあな河口」
涼一はそれだけ言うとあっという間にその場から離れて行った。
夏音はただただショックを受けていた。涼一が最初河口と言った時は空耳かと思った。しかし、場を離れる時にもう一度言った河口の声が夏音の頭から離れなかった。夏音はしばらくその場で立ち竦んでしまった。
夏音は涼一に名字で呼ばれたショックを放課後になっても引きずっていた。昼は箸が進まずお弁当に入っていたサクランボを残してしまった。茜に心配され、理由も聞かずに健吾のことをぶっ飛ばしてくると言ったので、胃の調子が悪いだけと言って何とか引き止めた。
涼一がどうして名字で呼んできたのは何となく分かった。恐らく、健吾が来たからだ。涼一が気を遣ってくれたのは分かっている。でも、夏音にはそれが寂しくて堪らなかった。物心つく前からなつと呼ばれ、名字で呼ばれるなんてことは一度たりともなかった。涼一以外でなつと呼ぶ人物はいない。ある意味で涼一だけに許された呼び名だった。そして、その呼び名を夏音はとても気に入っていた。涼となつという呼び名はこの先二人がどんなに変わっていってもこれだけは変わらないと思っていただけに、そのショックは大きかった。
夏音は速く明後日になってほしかった。明後日は創立記念日で学校は休みととなる。その日は、健吾と上野動物園に行く約束をしていた。健吾と楽しい時間を過ごして、少しでも涼一のことを忘れたかった。
創立記念日の朝。夏音はデート用の服に着替えて上野に向かった。11時に上野動物園前に集合だったので、今日は遅刻しないようにかなりの余裕を持って家を出た。平日と言うこともあり、土日は大混雑する上野の公園口も人がまばらにいる程度だった。
動物園に向かう途中の掲示板には色んな博物館のポスターが貼られており、その中の一つはきっと涼一が目を輝かせるだろうなと分かるポスターが貼られていた。それは恐竜博のポスターだった。中学二年生頃まではこう言った恐竜展が開催されると、夏音は涼一に半ば強引に連れて来られた。いつもは冷めている涼一も恐竜の化石を目の前にすると、人が変わったように目を輝かせては夏音に恐竜の説明をしてきた。正直、恐竜には興味がなかったので、何を言われてもピンと来なかったが、あまりのも楽しそうに話す涼一が見ていたくて、健気に耳を傾けていた。その甲斐もあってか、興味が無い割には人並み以上の知識がついていた。大抵の人が覚えるのに苦労する恐竜の名前もスンナリ頭に入ってくる。
そんな懐かしい記憶に浸っていた夏音はハッと我に帰って首を横に振った。これから健吾とデートだと言うのに、涼一との思い出で浸っていた自分が嫌になった。
約束の15分前に動物園の前に着いた。健吾は五分前にやって来た。
「お待たせ」
今日はネイビーの薄い長袖シャツを羽織っていた。よく似合っていて、いつもより大人っぽく見えた。
「おはよう」
夏音は以前のように緊張をしなくなった。それだけ仲が深まってきたと実感して、嬉しくなった。
「先にチケット買っておいたから」
夏音はチケットを渡した。
「ありがとう。お金払うよ」
「ううん。今日は私の奢り。試合に勝ったご褒美」
「河口・・・・・・」
「大したご褒美じゃなくて申し訳無いけど・・・・・・」
「いや、嬉しいよ。ありがとう」
健吾はニッコリ笑った。
「じゃぁ、行こう」
二人は動物園の門を潜った。
久々の動物園は楽しかった。虎がガラスに思いっ切り体当たりしてきた時は二人して本気で怖がったり、ウサギを抱きかかえたり、パンダの勝手気ままな行動に二人で笑いあった。
動物園を満喫した二人は上野公園内にあるカフェでコーヒーを買って公園内を適当に散策していた。話題は先日の試合で大いに盛り上がった。少し歩き疲れた二人は適当なベンチに腰を下ろした。
「あ。お手洗い行くついでにゴミ捨ててきてあげる」
「ああ。ありがとう」
夏音は健吾の飲み終えたカップを受け取り、トイレを探した。
用を終え健吾の元へと戻る時にベンチに座っている男女のペアが目についた。後ろ姿で詳しくは分らないが自分達と年齢が同じくらいに見えた。夏音はその後ろ姿に何となく見覚えがあるよな気がした。その二人の後ろでは小さい男の子がしゃがみ込んで、地面に木の棒で何やら書いていた。周りにはその子の親らしき人が見当たらなかったので、迷子なのかと思い、声を掛けに行くべきか迷った。
ベンチに座っていた女の子が隣の男子に顔を向けた。夏音はその横顔を見て心臓が飛び出すくらい驚いた。その女の子の正体はえりかだった。えりかは後ろの男の子に目を向けた際に夏音に気付いて同じように驚いた顔をした。夏音は慌てて目を逸らした。夏音はそのまま過ぎ去ろうとしたが、嫌な予感がよぎりもう一度目を向けた。その男の正体が分かると、愕然とした気持ちになった。夏音の嫌な予感は的中した。えりかの隣に座っていたのは、紛れもなく涼一だった。夏音は思わず立ち止まって二人を観察してしまった。涼一の楽しそうな表情が十分に見て取れた。その様子を見た夏音の胸は痛いほど締め付けられた。その様子を見かねた夏音は重い足取りでその場から離れた。
健吾の所に戻ると、健吾が心配そうな顔を向けた。
「顔色悪いけど、どうしたの?」
「そんなことないよ。ねぇ、もう少しあっちに行ってみようよ」
夏音はあの二人からもっと離れるべく、散歩を促した。
「良いけど。少し休んだ方が良いんじゃない?」
「大丈夫。ね。行こ」
夏音は歩き出した。健吾は首を捻りながらも後に従った。
とにかくあの二人から遠ざかりたかった。健吾が気付くのはもちろん、涼一に気付かれるのは避けたかった。二人から遠く離れたが、涼一の楽し気な顔が頭から離れなかった。
「ねぇ、本当にどうしたの?さっきから様子が変だけど」
さすがの健吾も夏音に対する違和感を感じ取っていた。
「ううん。何でもないよ」
「嘘つかないでよ。何かあるなら言ってくれよ。そうじゃないと分らないよ」
「そうだよね。ごめん」
だからと言って、さっき見たことを話したくはなかった。
「俺といるのつまらない?」
「そ、そんなことないよ」
「でも、さっきから返事が雑だし」
「それは・・・・・・」
「やっぱり、立花といる方が楽しい?」
夏音は驚いて健吾も見た。
「どうしたの急に?」
「俺といるときより、立花といる時の方が笑ってる気がするから」
健吾の声には悲壮感が漂っていた。
夏音は何て言って良いのか分からなかった。
「そうなんだろ」
健吾が決めつけるように言った。
この時初めて夏音の気持ちに健吾に対しての苛立ちが生まれた。
「違うよ。どうしてそんな話しになるの?涼の話しなんてしてないでしょ」
「じゃぁ、どうしてそんな機嫌が悪そうな顔をしてるの?」
「ちょっと具合が悪くなって」
「本当?」
「本当だよ」
「そっか。変なことを言ってごめん」
「私の方こそ気を遣わせてごねんね」
お互い謝ったものの、微妙な空気が二人の間に流れた。
「じゃぁ、今日はもう帰ろうか」
「えっでも、この後はスカイツリーに行くんじゃないの?」
「よく考えたら明日も部活だし、あまり疲れるわけにはいかないんだ。それに、無理をさせたくないし」
夏音は嘘だと思ったが、反論する気力はなかった。
「藤沢君がそう言うなら」
そのあとの二人は終始無言だった。いつもなら夏音が先に電車を乗るまで待ってくれた健吾も今日は先に電車に乗って帰った。
悲しい気持ちを抱えたまま地元についた夏音はすぐに花織神社に向かった。そして、いつもの場所に膝を抱えて座り込んだ。
健吾と喧嘩別れしたことも辛かったが、それでも涼一とえりかの二人の姿の方がショックの方が大きかった。
夏音は一昨日に涼一が話しがあると言った内容はえりかと付き合ってる事を言いたかったのでは無いかと思った。あの二人は付き合い始めたのだろうか。恋人と一目で分かる行動をしてたわけではない。だからと言って、付き合っていないとも言えない。本当にあの二人が付き合い始めたと考えると、さっきと同じように胸が締め付けられた。どうしてこんなにも苦しいのか分からないのが嫌だった。
喧嘩と喧嘩別れみたいになったことも辛い気持ちを増長させた。何もかもめちゃくちゃになってしまったような気分だった。いつもならここで涼一が颯爽と現れ、夏音の話しを聞いてどうすればいいのかを教えてくれる。しかし今は、涼一に来てほしくはなかった。
時間が経てば経つほど辛い気持ちが胸を襲い、ついには涙を流した。泣いた所で何も解決はしないと分かっていた。それなのに、泣くことしか出来ない自分に腹が立ってまた涙が溢れた。
そんな夏の様子を陰でそっと見守る影があった。その影はもちろん涼一だった。えりかと別れる際に夏音に二人でいると誤解されたと言われ、嫌な予感がして急いでここにやって来たのだった。予想通り神社に居たが、泣いている夏音を見て声をかけることが出来なかった。涼一は声にならない溜め息を一つ吐いて、夏音に気付かれないように引き返した。
ひとしきり泣いた夏音は少しだけスッキリした。夏音は家に帰ってすぐに健吾に電話をかけた。3コール目で相手が出た。
「もしもし。藤沢君?」
「河口」
健吾の声には元気が無かった。夏音は申し訳なさで一杯になった。
「あの、今日は本当にごめんなさい。藤沢君が私のことを嫌いになったとしても、藤沢君にことを傷つけるつもりなんて無かったことだけはどうしても伝えたくて」
少しの間が空いた。
「いや、謝るのは俺の方だよ。あんな情けない態度を取って、河口のことを傷つけて本当にごめん。俺の方こそ愛想をつかされたって思ってたから」
「そんなことはないよ。だって・・・・・・」
そこで言葉を区切った。その先は自分の口から言うのはまだ躊躇われた。
「だって?」
「う、ううん。何でもない。ごめんね」
「そうか。とにかく嫌われてなくてホッとしたよ」
健吾の声にはいつもの明るさが戻っていた。その声を聞いて夏音はまた少し元気が出た。
「本来は直接謝るべきなのに、電話でごめんね」
「もう謝らなくていいよ。電話でも十分気持ちは伝わったから」
「ありがとう」
二人の間のわだかまりがスーと消えた。
「じゃぁ、また明日。お休み」
「おやすみなさい」
夏音も明るく返した。
電話を終えた夏音はひとまず安心した。しかし、健吾に嘘をついたままだという事が、胸にしこりは残した。結局、涼一とえりかが一緒にいたことは話すことが出来なかった。そして、もう一つ大きなしこりが一つ。夏音はバルコニーに出て空を見上げた。夏音の心とは対称的なな雲一つない澄んだ夜空だった。また涼一とえりかのこと思い出した。
「どうして」
無意識に呟いた言葉だった。それと同時に一筋の涙が頬を伝った。
この涙が意味するのかは、いつか気付くその日まで夏音自身にも分からない。
その日を知ってか知らず、夜空に煌めく星達はその輝きを世界に散らしていた。
「いらっしゃい」
まず最初に出迎えたのは陽二だった。いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべていた。その笑顔だけでも今日の憂鬱とした天気を吹き飛ばしてくれるようだった。
「こんにちは」
二人は声を揃えて挨拶をした。
「茜ちゃん。久しぶり」
「ご無沙汰してました。元気でしたか?」
「お陰様でね。妻は出掛けて居ないけど、涼ちゃんは働いてるよ」
絶妙なタイミングで涼一が事務所の扉から出てきた。
「おっ。よう」
二人の存在に気付いた涼一が軽い挨拶を寄越した。
「ちょっと、大事なお客様にそんな挨拶はどうなの?」
早速、茜が食って掛かった。
「はいはい。そうですね」
涼一はまともに取り合わず軽く受け流す。
茜は少しふくれっ面になったが、特に反撃することなく引き下がった。二人はカウンターには座らず、カウンターから少し離れたテーブル席に座った。
「今日はこっちには座らないのか?」
涼一が聞いた。
「たまにはテーブル席も悪くはないかなって。ね、夏音」
「う、うん」
夏音は曖昧に頷いた。
「ま、どこでも良いけど」
涼一はさして興味も見せずに注文を聞いた。
「メロンクリームソーダ二つね」
「いま、混んでるから少し遅くなる」
「ゆっくりでいいわよ」
茜が答えた。涼一は軽く頭を下げてカウンターに戻った。
「それでどうだったの?」
涼一が去るやいなや、茜は身を乗り出して聞いた。
夏音は少しもじもじしてから答えた。
「凄い楽しかったよ」
それから、幾つもの質問が矢のように茜の口から飛び出した。恐らく、何を聞こうか前もって考えていたのだろう。夏音はほとんど正確に答えた。
「それにしても明治神宮とはね。せっかくなら、渋谷とかに行けば良かったのに」
話しを聞き終えた茜が最もな感想を漏らした。
「ほら私、渋谷みたいに人が多い所はあまり好きじゃないから」
「原宿には行ったじゃない」
「それは藤沢君に誘われたからで、普段は好んでは行かないよ」
「まぁそうだけど、明治神宮って見る所ある?」
「時間も無かったし、散歩がてらには丁度良いいよ。今度、風野君と行ってみたら?」
茜は手を思いっ切り振った。
「無理矢理。だって、あいつ神様とかこれっぽちも信じてないから。初詣のことを何て呼んでると思う?義理詣って呼んでるのよ」
「義理詣って・・・・・・」
夏音は思わず笑ってしまった。義理詣と言う表現が何だがツボに入ってしまった。
「はい。お待たせしました」
涼一がメロンクリームソーダを持ってきた。
「わぁ。待ってました」
茜が歓声をあげた。夏音も声は上げないが、目が輝いた。
二人はまず二つ乗っているサクランボの一つを摘まんだ。
「さて、藤沢と行ったサクランボの店とどっちが美味いのかな?」
涼一はニヤッとした。
夏音はおろか茜まで咽た。
「ど、どうして」
目をまん丸にて夏音が涼一を見た。
「藤沢に聞いたの?」
茜が聞いた。
「まさか」
涼一は鼻を鳴らした。
「もしかして、付けたの?」
茜が引き気味に言った。
「そんなバカな真似するかよ」
茜が何か言いかけた時、あしゅまろの扉が開いた。三人の意識がそちらに向いた。入ってきたのは沙織だった。沙織はサッと店内を見渡した。そして、三人の姿を見つけるとあらと言う顔をして声を掛けた。
「涼一君。おサボり?」
沙織は微笑みながら聞いた。
「沙織さん。お疲れ様です。サボりではありません。お客様とコミュニケーションを取っているだけです」
涼一は頭を下げた。
「相変わらずかわし方が上手ね」
「沙織さん程ではありません」
「まぁ。私がいつかわしたかしら」
沙織は微笑んだ。
「僕がいつもデートに誘っても応じてくれないじゃないですか」
「だって、本気じゃないもの。涼一君が本気ならいつでも受けるわよ」
沙織は意味ありげな視線を涼一に送り、夏音と茜に挨拶をした。
「こんにちは。夏音ちゃんに茜ちゃん」
「こんにちは」
二人も挨拶を返した。
「夏音ちゃん。あなたに聞きたいことがあるんだけど良いかしら」
「私にですか?」
夏音は驚いた。あしゅまろには足繫く通っているが、沙織とはそれほど親しくはなっていない。と言うよりなれなかった。沙織のオーラに圧倒されて上手く話せないのだった。そんな自分に聞きたいことがあるなんて驚き以外何でもなかった。
「確かお兄さんいたわよね?」
「はい」
「どんな人?」
「どんな人?」
夏音はオウム返しした。
「家ではどんな感じなのかなって」
「えーと、特に何もないです」
質問の意図が全く読めなかった。
「そう。お兄さんはあなたに優しい?」
ますます混乱したが、素直に答えることにした。
「悪口は言ってきますけど、凄い冷たいわけでありませんって感じです」
「そう。ありがとう。ごめんね急に変な事を聞いちゃって」
「いえ・・・・・・」
夏音はチラッと涼一を見た。さすがの涼一も訝しげに沙織を見ていた。
「あ、そうだ。涼一君」
今度は思いだしたように涼一に話しかけた。
「あ、はい」
「あなたの話しを大学の女の子に話したら、是非とも会いたいって子が沢山いたから、近いうちに彼女達と会ってくれないかしら?」
「合コンのお誘いですか?」
「みたいなもね。嫌?」
「沙織さんの頼みを断る訳には行きませんので、喜んで行きますよ。ただし、沙織さん彼女達に嫌われても知りませんから」
涼一がニヤリとした。
「あら、それは困るわ」
言葉とは裏腹に嬉しそうに微笑んだ。
夏音はその様子を見てそれにしても絵になる二人だなと思った。二人が付き合ったら、とんでもない美男美女カップルになるだろなと想像したら、何故か嫌な気持ちが胸をよぎった。
「どうしたの夏音?」
夏音は我に返った。茜が不思議そうにこちらを見ていた。
「お話のお邪魔をしてごめんなさいね。ごゆっくり」
沙織はそう言ってその場を後にして、カウンターに居た陽二に挨拶をして更衣室へと消えた。
「さっきの質問は何だったんだろうね」
茜がその場にいる全員の気持ちを代弁した。
「さぁ」
夏音も首を捻るばかりだった。
「涼一は何か分かる?」
茜が聞いた。
「いや、全く」
涼一は首を横に振った。
「そう言えば、夏音のお兄ちゃんと沙織さんって同じ大学だったよね」
「うん。でも、学年も学部も違うよ」
「そっか。なら、二人の接点はなしか」
「多分」
「涼一、何か探りを入れておいてよ」
「断る」
涼一は即答した。
「それにしても、その年で合コンってどうなの?」
茜が非難がましい目で言った。
「合コンなんてただの建前だろう」
「まぁ何を企んでるか分かりませんけど、あんたは黙ってるに限るわね」
「何でだよ」
「余計なことを言って、お姉様方を不愉快にさせるからよ」
涼一は口をへの字に曲げただけで、何も言い返さなかった。
「さてと、沙織さんも来たことだし、俺は上がるかな」
「え?涼一帰るの?」
「ああ。学校に呼び出されてるんでね」
「今から行くの?」
夏音が聞いた。
「そう」
「もしかして、停学の話しとか・・・・・・?」
茜が心配そうに言った。
「まさか。そこまで悪いことはしてないでしょ。ねぇ?」
夏音が不安そうに涼一の目を覗き込んだ。
涼一の生活態度は決して良いとは言えない。むしろ、悪いと言える。停学は厳しすぎるとは言え何かしらのペナルティを受けてもおかしくはない。
「多分ね」
当の本人はあっけらかんとしている。
「ま、そうなったら自業自得ね。これからは学校にちゃんと来なさいよ」
茜は同情余地なしという態度を取った。
「口うるさい誰かさんと同じクラスでなきゃ、ちゃんと毎日行くんだけどな」
涼一は嫌味で返した。
「ほんとムカつく」
茜は涼一を睨み付けた。
三人が出会った当初はこの二人のやり取りにヒヤヒヤしていた夏音だが、今や見慣れた光景なので、仲裁に入ることなく受け流していた。
涼一は高らかに笑い、その場を離れた。
「ったく。涼一のやつ。藤沢の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわ」
「まぁまぁ、そんなに怒らないで」
「夏音はよく耐えてきたわね。私だったら、とっくに大喧嘩してるよ」
どうやら、本気で怒っているみたいだった。夏音は火消しにかかった。
「んー。でも、涼があんな風に冗談で嫌味を言うのは茜だけだよ。他の子だったら、徹底的に無視するもん」
「そうなの?」
「うん。それだけ、涼が茜に心を開いてるってことだし、涼は茜がいると楽しいっていつも言ってるよ」
「それは嘘ね」
「嘘じゃないよ。本当だよ」
着替え終わった涼一が更衣室から出てきた。学校に行くのは本当のようで制服を着ていた。陽二が声を掛け、何やら話し始めた。そこに沙織も加わった。涼一は二人に挨拶をして、夏音達の所にやってきた。茜はそっぽを向いたままだった。
「じゃあな」
「バイバイ」
夏音が応じた。
「変に口答えしないで、真面目な態度でいなさいよ。そしたら、少しは印象が良くなるだろうから」
すっかりお咎めを受けると思っている茜なりの励ましだった。
「心配してくれてありがとうな」
涼一にしては珍しく殊勝な態度だった。
「別に心配なんか・・・・・・まぁ、その、あんたが居ないと、ちょっとだけ学校がつまらないだけよ」
「俺は茜が居ないと凄いつまらないと思ってるぜ。何たって、俺は茜のことが大好きだからな」
涼一はしれっと言った。
こんな軽いセリフも涼一が言うと許されてしまう。
茜が涼一の方を向いた。
「全く。だから、あんたのこと嫌いになれないのよね」
涼一と茜は笑い合った。どうやら、茜の怒りはどこかへ消えてしまったようだ。
「涼・・・・・・」
夏音はまた心配そうに見つめた。
「そんな顔するなよ。大丈夫だって。それに明日からは毎日学校に行く。テストが近いからな」
そう言って、涼一はあしゅまろから出ていった。夏音は最後まで心配そうに見送った。
「これ以上心配しても仕方ないって。気を取り直して話しの続きしよ」
茜はメロンクリームソーダを思いっ切り飲んだ。
それから二人は二時間近くガールズトークに花を咲かせた。
「夏音。17時半だけど時間は大丈夫?」
スマホで時間を確認した茜が言った。
「あ、そろそろ行かないと」
今日は18時から塾があった。
「じゃぁ、帰ろっか」
「うん」
二人はレジに向かった。
「二人とも今日はあろがとうね」
陽二が慇懃に言った。
「ごちそうさまでした。今日も最高に美味しかったです」
茜が元気よく答えた。
「最高の誉め言葉をありがとうございます。いつでもおいで」
まるで、可愛い孫娘を見つめるような優しい眼差しを二人に向けた。
「テストが終わったら、また必ず来ます」
「そうか。テストの時期か。頑張ってね」
「はーい。ありがとうございます」
二人は沙織にも会釈をして、あしゅまろを出た。外はスッカリ晴れていた。
「はぁー。テスト嫌だな」
茜はこの上ない盛大なため息をついた。それもそのはずで、茜はテストの成績があまり良くなかった。特に社会科目が酷く、世界史のカタカナを見るだけで目眩を起こしそうになると言うくらい苦手だった。
「茜は塾に行かないの?」
「中学の時は行ってたけど、全然成績が上がらなくて親に怒られたから止めた。お金の無駄になるし」
「風野君と一緒に勉強したりしないの?」
「しないわよ。祐介も私と同じくらいの成績だから、一緒に勉強しても意味ないの。それに私は誰かと勉強しても喋っちゃうから」
「じゃぁ、涼に教えてもらえば?涼ならお喋りしないんじゃない?」
「絶対に嫌」
即答だった。
「涼は教えるの上手いよ」
「私が教えてもらったって、涼一をイラつかせるだけよ」
「涼はそんな短気じゃないよ」
「そう言う、夏音は涼一に教えてもらわないの?」
「私はほら、塾に通ってるから」
「別に塾に通ってたって良いじゃない。むしろ、涼一に教えてもらえば塾に行く必要無いんじゃない?」
「まぁ、そうなんだけど。親が行けってうるさかったから」
「夏音の両親もそうゆうこと言うのね」
茜は意外そうに言った。
本当は親からも茜と全く同じこと言われたのだが、茜には黙っていることにした。
「ん。待てよ。そうだ。良いこと思い付いちゃった」
茜がニンマリした。夏音は嫌な予感がした。
「夏音。明日から、一緒に勉強しようよ」
「ついさっき、喋っちゃうって言わなかった?」
夏音は怪訝な表情を浮かべた。
「私も成績を上げなきゃ本当にヤバイから、今回は喋ってる余裕なんてないから大丈夫。ダメ?」
「ダメじゃないけど・・・・・・」
想定していたほど、大した思い付きでは無かったので、夏音は拍子抜けした。
「ありがとう夏音」
「でも、自分でもちゃんと勉強しなきゃダメだよ」
「それくらい分かってるって」
そうこうしている内に波花駅に着いた。
「じゃあね夏音。明日からよろしくね」
茜はウインクをして走り去っていった。
夏音は一人になるとさっきの茜の言葉を思い出した。”涼一に教えてもらえば塾に行く必要なんて無いんじゃない?”確かに、涼一に教えてもらえば、100点は無理にしろ、大概85点以上は取れる自信があった。ただ、ある時からそれではいけないと思い始めた。涼一に何でもかんでも頼りにしていたら、いざ離れ離れになった時に困るのは自分だと気付いた。だから、高校に入ってからは涼一に教えを乞いたことはなかった。何より、涼一の勉強時間を奪いたくなかった。涼一が自分以上に頑張っているのを知っているから、その頑張りを邪魔したくなかった。
涼一が何度も勉強を教えようかと言ってくれたが、頑なに断った。最初の方は少し怒っていた涼一だったが、次第に何も言わなくなってきた。どんなに分からない問題があっても涼一にだけは聞かなかった。ただ、一年の最初の頃は何とかなったものの、授業が進むにつれて、分からない問題がどんどん増えてしまった。そこで親を説得して、一年の冬休み手前に塾に入ることに決めた。塾に入ったのと、日々の努力のお陰で何とか今の成績を保てるようになった。
塾の授業が終わり、キャリングケースに教材をしまって講師に挨拶をして塾を出た。イヤホンをしながら駅の中を歩いていると突如肩を叩かれた。夏音は驚いて振り向いたら、そこには涼一が立っていた。
「塾の帰りか?」
「そうだけど、どうしてここに?」
夏音は驚きを隠さずに言った。
「学校の帰りだよ」
「こんな時間まで?」
夏音はますます驚いた。
「まぁな」
「怒られたの?」
夏音は恐る恐る聞いた。
「まさか。ただの進路の話しだよ」
「進路?」
予想外の返答だった。
「そう。何でも俺の進路先は学校の名誉が掛かっているみたいだからな」
それを聞いて夏音は納得した。夏音達が通う高校の偏差値は低くはないが、すこぶる高いわけでもない。どう考えても涼一の学力は、良い意味で大きく逸脱している。校長ですらその進路先に大いに関心を持っているという噂もあった。
「どんな話しだったの?」
夏音は気軽に聞いた。
「本校初の東大生になってくれないかと校長から直々に言われたよ」
どうやら噂は本当だったみたいだ。
「どうせ断ったんでしょ」
「ご名答」
涼一がニヤリと笑った。
「断ったのに、こんな時間になったの?」
「簡単には返してくれなくてね」
「また随分と必死なんだね」
「お陰で時間を無駄にしたよ」
「そこまで言わなくても。校長先生だって、涼の為を思ってるだろうし」
「どうだか。俺が東大に行けば、都合の良い煽り文句を付けた垂れ幕を校舎の壁に垂れ流すことが出来るからだろ」
「それはどうだろう」
ハッキリと否定は出来なかった。
「でもま、そんなに時間も無駄じゃなかったかもな」
「どうして?」
「こうしてなつに会えたし」
「えっ」
思わずドキッとした。
「さ、愛しの藤沢君とデート話しでも聞きながら帰ろうか」
涼一は歩き始めた。
「ちょっと待ってよ」
夏音は慌てて追いかけた。
いつもの帰り道を並んで歩く。
「それでデートはどうだったんだ?」
「それより、どうして私と藤沢君がサクランボを食べたって知ってたの?」
「ああ。あれ?適当に言っただけ。まさか当たるとはね」
「もう。あの後、茜とずっと考えてたんだからんね」
夏音は少しむくれた。
「悪い悪い。それでどうだった?」
「そんなに聞きたい?」
「聞きたくなかったら、聞いてない」
「素直に聞きたいって言えば良いのに」
夏音は少し呆れて見せ、深呼吸をした。何故か、茜に話す時より緊張した。夏音は話し始めた。
「めちゃくちゃ上手くいったじゃん」
涼一が感想を漏らした。
「上手くいったけど・・・・・・」
「けど?」
「上手くいきすぎて不安」
「相変わらずの心配性だな」
「だって、最初だけ上手くいって、後は何もかもダメってよくあることじゃない」
「まぁ、そうゆうこともあるだろうけどさ。今は素直に喜んでれば良いのによ」
「茜にも同じことを言われた」
「誰だって同じ事を言うさ」
「涼は上手くいかないことある?」
「何だ急に?」
「ほら、涼って何でも出来るから失敗することとかあるのかなって」
「あるに決まってるだろ。神様じゃあるまいし」
「そうだよね」
涼一の上手くいかないことが何なのか気になったが、答えてくれないだろうと思い聞かなかった。
「ま、上手くいくことの方が多いけどな」
「わ、嫌な奴ね」
「でも・・・・・・」
「でも?」
「いや、何でもない」
「何よ。気になるじゃない」
「じゃぁ、気にするな。時間の無駄だから」
会話が途切れ、二人はしばらくの間無言になった。夏音は横目で涼一を見た。夏音は以前から気になっていたことを聞いてみようかと思った。それは涼一の恋愛事情についてだった。もっと正確に言えば、沙織との関係だった。あしゅまろでの二人を見ていて、お互いに気があるのでは無いかと疑っていた。今までは何となく聞くのを躊躇していたが、今なら聞けるような気がした。
「涼は好きな人とかいないの?」
さすがに沙織のことをどう思っているとは聞けなかった。
「また急な質問だな」
涼一は驚いた。
「そんな深い意味は無いんだけど、いつも私の話しばかり聞いてもらってるから、たまには涼のそうゆう話しも聞いてみたいなって。答えるのが嫌なら無理して答えなくて良いけど」
「好きな人ね」
涼一は何やら考え込んだ。恐らく、答えてくれないと思っていた夏音は少し意外に思った。
「具体的な事を聞かれるのが嫌ならいるかいないかだけでもいいよ」
「なら、いるよ」
涼一は即答した。
「えっ・・・・・・」
「俺だって青春したい年頃だぜ?好きな人の一人くらいいるよ」
「そ、そっか」
夏音は激しく動揺した。何故、こんなにも動揺しているのか自分でも分からなかったが、涼一が素直に答えてくれたせいだと言い聞かせた。
「俺からも聞いていいか?」
「何?」
「なつは藤沢のどこに惚れたんだ?」
「どこって・・・・・・」
「なつが見た目だけで群がるような女ではないことくらい分かってる」
「好意を持ったのは、バスケの試合を観に行った時だよ」
「それは好意を持ったきっかけにすぎないだろ。好意を持った後で藤沢を見つめる中で好きに変わった瞬間があったはずだ。違うか?」
夏音は押し黙った。涼一の言う時、それは実際にあった。健吾のことを好きと自覚してから、どこから好きだったのかを思い出した。しかし、この事は誰にも茜にすら言ってなかった。本当に些細なことで、そんなことで好きになるなんて、単純すぎると思われるのが嫌だった。
「話してみろよ。絶対、笑わないから」
「知ってどうするの?」
「どうもしないけど、幼馴染みの心を奪った男の行動を聞いて、俺も真似させてもらおうかなって」
「涼一には真似出来ないよ。きっと」
「それは俺が判断する」
「踏まなかったの」
「踏まなかった?」
涼一は眉を顰めた。
「藤沢君だけ踏まなかったの。去年の夏休み廊下でお化け屋敷のセットの一部を作ってたんだけど、他の皆は通る時、申し訳なさそうな顔をして踏んで通ったけど、藤沢君だけは踏まずに教室の中を通ってくれたの。人が一生懸命作ってるものを踏んだりは出来ないって。その時からだと思う。藤沢君を好きになったのは」
「そうか」
「ほらね、単純すぎるでしょ」
「単純の何が悪い。人を好きになるのに、複雑な理由なんて要らないだろ」
涼一の言葉が胸に突き刺さった。
「ありがとう。涼は本当に良いことを言うね」
健吾の中身が素敵なことはこの前のデートでも伝わったが、涼一も負けてないと思った。自分以外の人にもこうしたことを言えば、間違いなく学校の人気者になれるだろうと思った。
「それにしても、逆踏み絵みたいだな」
「逆踏み絵?」
今度は夏音が眉を顰める番だった。
「いや、何。キリスト教禁止の時代には、キリストを踏み絵にして、隠れキリシタンを見つけてただろ。でもなつのは、踏まなかったから印象に残った訳だから、逆踏み絵みたいだなって」
「そんなこと考えたの?」
夏音は呆れ気味に言った。
「つい、な」
「やっぱり、涼って変わり者だね」
夏音はクスクス笑った。
「悪かったな。どうせ俺は変人で変態だよ」
「変態まで言ってないよ」
「それにしても、藤沢のやつカッコイイな。俺だったら、間違いなく踏んで歩いてる」
「珍しいね。涼が素直に相手を褒めるなんて」
「カッコイイものはカッコイイと認めるくらいの度量はあるさ」
「涼は藤沢君と仲良くなりたいと思わなかったの?」
「ないよ。俺みたいな陰キャの嫌われ者からしたら、藤沢は眩しくて付き合えない」
「陰キャじゃなくて人とコミュニケーションを取るのが下手なだけでしょ。涼がその気になれば女の子の10人や20人なんてあっという間に集まるわよ」
「それは否定しない」
「涼は他人に興味が無さすぎるだけでしょ」
「それも間違いない」
「たまには、恐竜じゃなくて、人間にも興味を持ったら?」
「それは無理な注文だな」
「ほんと変わってる」
夏音は小さくため息を漏らした。
いつもの分かれ道に差し掛かった。
「そうだなつ。明日は一緒に勉強しないか?」
「えっ。急にどうしたの?」
「たまには、気分転換に学校の勉強も良いかなって」
「それなら、一人で良いじゃない。私が居ても気が散るだけでしょ」
「前から思ってたけど、どうしてそう俺と勉強することを拒むんだ?」
涼一の口調が尖り始めた。
「拒んでなんかいないよ。ただ、涼に頼り過ぎないようにしてるだけで」
夏音は即座に否定した。
「ふーん」
「それに明日は茜と一緒に勉強するから無理なの」
「茜と?」
「そう。何でも成績が危ないから、勉強を教えてって泣きつかれて」
「どこで?」
「学校の図書室だけど」
「図書室ね。じゃぁ、俺は家で一人寂しくやるよ」
涼一は仲間外れにされたことで不貞腐れた。
「そんな不機嫌にならなくても良いでしょ」
「なってねぇよ。じゃあな」
涼一は夏音の言葉も待たず帰っていった。
「涼・・・・・・」
家に帰った夏音は少し暗い気分になっていた。あんなに怒った涼一を見たのは久し振りだった。別れ際の涼一の顔を思い出すと、胸がちくっと痛んだ。気分転換と言っていたが、夏音のことを思ってのことは重々承知していた。その涼一の優しさを無下にしてることを申し訳なく思った。特に最近は涼一に助けられぱなっしなことも相まって罪悪感が徐々に膨れてきた。明日、涼一に会ったら素直に謝ろうと思った。
翌日、学校の授業を終えた夏音は図書室に向かっていた。茜と一緒に来ようと思っていたが、先に行っててと言われたので、仕方なく一人で向かった。涼一が来なかったので、謝ることが出来ず少し暗い気分を引きずったまま一日を過ごしていた。図書室に入り、二人分の席を確保しようとテーブルに向かったら、何と涼一が座っていた。
「よ」
涼一がいつもの軽い挨拶を寄越した。
「何でここにいるの?」
夏音は挨拶も返さず詰め寄った。
「俺がどこにいようが勝手だ。とにかく、そこに座れよ」
涼一が自分と向かいの席を指差した。夏音は他の席を探したが、生憎埋まってしまっていた。夏音は仕方なくそこに座った。
「それで?」
夏音が再び問い詰めた。
「それでとは?」
「ここに何しにきたの?」
「何って勉強だけど」
「家でやるんじゃなかったの?」
「そう思ったんだけど、良いことを思いついてね」
「良いこと?」
「夏音に勉強を教わりに来た」
「はい?」
夏音の目が点になった。
「俺にも勉強を教えてくれと言ってるんだ」
「何を言ってるの?」
「何って。頼み事」
「私から教わることなんてないでしょ」
「いや、ある。三角関数が分からないから教えてくれ」
そう言うと、涼一はカバンの中から数学の教科書を取り出した。
「バカなこと言わないで。涼が分からない所なんて私に分かるわけないじゃない」
「そんなこと教えてもらわないと分からない」
「とにかく無理だって」
「しょうがない。教えてもらうのは諦めよう。でも、ここで勉強する分には構わないだろう?」
「それは・・・・・・」
断る理由が思いつかなかった。
「ダメなのか?」
「別に良いけど。邪魔だけはしないでよね」
「よし。決ま・・・・・・」
涼一の顔が急に険しくなった。
「涼?」
話しかけても返事はなかった。ただ、夏音の向こう側を凝視している。
「藤沢・・・・・・」
涼一が呟いた。
「えっ」
夏音が振り向くと、健吾がこちらに近づいて来ている所だった。健吾も二人に気付き、笑いかけたが、涼一の姿を見るなりハッとして立ち止まった。しかし、軽く咳ばらいをして二人の側へやってきた。
「や、やぁ」
健吾の声は明らかに強張っていた。
「藤沢君どうして?」
「滝川に一緒に勉強してくれって言われて来たんだけど」
健吾は頬を掻いた。
夏音は茜の目論見を理解した。変だとは思っていたけど、まさか健吾を呼び出すとは思ってもいなかった。だが、不思議と茜への怒りは沸いてこなかった。
「そっか。それで呼び出した本人は?」
「用があるから先に行っててとしか言われなくて。立花も居るってことは、立花も勉強教えてって頼まれたの?」
「いや、俺は偶然居合わせただけ。もう帰るから安心しろ」
涼一は教科書をしまい、席から立ち上がった。
「ちょ、ちょっと涼」
「じゃあな」
涼一は風のようにその場を立ち去った。健吾は呆気に取れらるだけで何も反応が出来なかった。
「とりあえず、ここに座ってもいい?」
健吾は今まで涼一が座っていた席を指差した。
「うん」
夏音は頷くしかなかった。
「ん?これは?」
健吾はしゃがみ込んで何かを拾い上げた。拾ったのはパスケースらしき物だった。
「あ、それは涼のパスケース」
「まだ追いつけるな。渡してくる」
健吾は急いで図書室を出た。
涼一には校門の所で追いついた。
「立花」
健吾が声を掛けると、涼一は足を止めて振り返った。
「これ。落としてた」
健吾はパスケースを差し出した。
「ああ。すまん」
涼一はパスケースを受け取った。
健吾は涼一をジッと見た。
「何だよ」
「お前も一緒に戻らないか?」
「何?」
「立花だって、河口と一緒に勉強がしたいんだろ?」
「急に何を言い出すと思えば。俺に試験勉強なんて必要ない」
「じゃぁ、何で数学の教科書を机に出してたんだ?」
「あれは・・・・・・暇潰しに読んでいただけだ」
「そんな見え透いた嘘つくなよ」
「嘘なんてついてない」
「河口の事、好きなんだろ?」
「またその話しか。うんざりするね。デートが上手くいったことを自慢でもしたいのか?」
「いい加減に自分の気持ちを素直に認めろよ。好きなのにどうして告白をしない?」
数秒間の沈黙が流れた。
「お前は清々しいほど単純で羨ましいな」
涼一は憎々しく吐き捨てた。
「何だと?」
「まぁいい。お前と無駄話しをするつもりはない」
踵を返そうとした涼一の腕を掴んだ。
「待て。まだ答えを聞いてない」
「藤沢は告白しないのか?」
健吾はまたそれかと思った。しかし、こちらが話さなければ話すことはないと分かっているので、健吾は本心を晒すことにした。
「したい。けど、まだできない」
「何故?二人で出掛ける仲にもなったじゃないか」
「まだお前に勝てないからだ」
「俺に勝てるなんてどうでも良いじゃないか。俺は告白するつもりはないし」
「告白するつもりがない?」
「そうゆうことだ。良かったな色男」
涼一が茶化したが、健吾は取り合わなかった。
「どうして?」
「世の中には伝えなくても良いことがあるってことだ」
健吾が更に聞こうとしたが、涼一がそれを遮った。
「質問タイムはもう終わりだ。パスケースをありがとう」
涼一は手を挙げて帰っていった。
健吾が図書室に戻ると、茜が夏音の隣に座っていた。健吾は先程の席に座ろうとしたが、茜が「違う。あんたはこっち」ともうひとつ空いていた夏音の隣の席を指した。健吾のカバンもそこに移動させらていた。
「俺はこっちでいいよ」
「ダメ。隣に座った方が教えやすいでしょ」
「そうだけど、狭くない?」
「夏音の隣が嫌なの?」
「いや、そうゆうわけじゃないけど・・・・・・」
「じゃぁ、文句を言わずに座って」
「分かったよ」
健吾はこれ以上逆らっても碌な目に合わないと悟り指示に従った。
「私は夏音から聞くけど、藤沢は夏音の分からない所を教えてあげてね」
「俺が?」
「他に誰がいるの?」
「あ、でも、私は一人で解くから」
「何言ってるの。藤沢の頭の良さを知ってるでしょ。涼一ほどじゃないにしてもこの中では一番成績が良いんだから、遠慮なく聞けばいいのよ」
「でも、藤沢君だって自分の勉強があるし」
「俺は大丈夫だけど、俺は誰に聞けばいいんだ?」
「自分でどうにか出来るでしょ」
茜はさも当たり前のように言い放った。
「全く」
健吾は呆れながら、夏音の隣に座った。
夏音は膝の上で手をモジモジさせた。
「それにしても、戻ってくるのに結構時間掛かったわね。渡せたの?」
「渡せたよ。あいつ歩くの速いな。校門の所まで行ったよ」
「涼一は逃げ足速いからねー」
茜は含んだ言い方をした。
「わざわざごめんね」
夏音は謝った。
「河口が謝ることじゃないよ」
健吾は苦笑いをした。
「ま、渡せたなら良いじゃん。そろそろ勉強始めよっか」
茜の一言で三人は勉強を始めた。最初の10分くらいは緊張で落ち着かなかった夏音だが、健吾の隣にも次第に慣れてきた。
「あれ?消しゴムがない」
健吾が筆箱の中を探り始めた。筆箱の中身を全部出したが、消しゴムは見つからなかった。
「おかしいな。五時間目まではちゃんと合ったのに」
茜が夏音の脇をつついた。夏音が茜を見ると、夏音の消しゴムを手に持っていた。これを貸してあげればいいという意味だとすぐに理解した。
「藤沢君。これ使って良いよ」
夏音は健吾に消しゴムを差し出した。
「いや、悪いし、教室を見てくるよ」
「消しゴムなんて明日回収すれば良いんだから、今は夏音の借りときなさいよ」
茜がしれっと助け船を出した。
「ああ、じゃぁ、今だけ。ありがとう」
健吾は消しゴムを受け取り、間違った箇所を消した。
「ここに置いておくから、好きに使って」
夏音は二人のノートとノートの間に消しゴムを置いた。
それからまた三人は黙々と勉強を始めた。夏音は消しゴムを使おうと手を伸ばした。すると、同じタイミングで手を伸ばした健吾の手が夏音の手に重なった。
「あ」
二人の声も重なり、目を合わせた。
「ご、ごめん。全然みてなくて」
健吾は慌てて手をどけた。
「い、いや、こっちこそ。先に使って」
夏音の顔は真っ赤に染まっていた。
「河口のなんだから、先に使いなよ」
「ありがとう。すぐに消すから」
自分でも意味のないことを口走っていると思ったが、どうしようもなかった。夏音は動揺で消さなくても良い箇所まで消してしまった。すぐに書き直そうとしたが、手の甲に健吾の大きな掌の感触が残っていて集中出来なかった。手が止まっている夏音を見て、解けない問題に苦戦していると思った健吾は「どこか分からないの?」と声をかけた。
「えっと。ここ」
夏音は思わず問題を指差してしまった。
「どれどれ」
健吾は問題を読むために夏音の方に体を寄せた。健吾の顔が数センチの距離に近づいた。夏音はチラッと盗み見た。そして、真剣に問題を読んでいる健吾の横顔に見とれてた。
「この問題の解き方はね・・・・・・どうかした?」
夏音の視線に気付いた健吾が聞いた。
「ううん。何でもないよ」
夏音は慌てて問題に目をやった。
健吾はキョトンとしたが、すぐに解説を始めた。実は問題の答えは分っていたが、夏音は黙って聞いていた。しかし、緊張のせいでほとんど耳に届いて無かった。
「一応、こんな感じでやれば解けるけど、今の説明で分かったかな?」
健吾が夏音の方に顔を向けると、夏音と目が合った。二人は思わず見つめ合った。僅かな距離で健吾と見つめ合う夏音の鼓動は否応なしに早まった。静かな図書室の中では、鼓動の音が大きく聞こえる。そんなはずはないと分かっているのだけれど、鼓動の音が健吾にも聞こえているのではないかと不安になった。見つめ合った時間はほんの数秒間に過ぎない。なのに、見えざる手によって時計の針を止めたのかと思うほど、その時間は長く感じられた。
不意に隣からカチャンと音が聞こえた二人はハッとなって、隣に目をやった。すると、茜が眠そうに目を擦っていた。どうやら、音の正体は茜がペンを手から落としたようだった。
「あ、ごめん。一瞬寝てた」
茜が大きな欠伸をした。
「まだ30分くらいしか経ってないよ」
夏音が冷静に突っ込んだ。
「だって、分かんないし、つまらない」
「茜が勉強を教えてって言い出したんだよ。ほら、どこが分からないの?教えるからシャーペンを持って」
夏音が茜をしゃんとさせた。
「もう良いよ。どうせ、勉強したって赤点だし」
「滝川が補習なんかで試合に帯同が出来なくなったら、皆と勝った喜びを分かち合えない。そんなの嫌だろ?」
「それは嫌だけど、勉強難しい」
「せめて赤点だけでも回避出来るように頑張ろ」
夏音も茜を励ました。
「そうだね。せっかく、付き合ってもらったのに、ワガママ言い出してごめんなさい。いきなり涼一みたいに頭が良くなる訳ないし、地道に頑張る」
茜は素直に二人に謝った。
夏音にはこの素直さが羨ましく映った。ハプニングがあったとは言え涼一に謝ることが出来なかった。そのことが夏音の心に暗い影を落としていたが、明日こそは茜みたいに素直に謝ろうと思ったら、少しだけ気持ちが明るくなった。
健吾からパスケースを受け取り一人寂しく学校を後にした涼一は家に帰るのももどかしく、気晴らしにどこか出掛けることにした。駅に着くとタイミング良くバスが来たのでバスに乗ることにした。バスのスッテプに足を掛けた時、後ろから「立花君!」と呼ぶ声が聞こえた。涼一が振り向くと、えりかが小走りで涼一の元に駆け寄ってきた。涼一の所まで来たえりかは少し息を弾ませながら「どこに行くの?」と聞いた。
「別にどこでも」
涼一は素っ気無く答えた。
「私もいっしょに付いていっていい?」
涼一は一瞬考えたが「好きにしろ」と言ってバスに乗り込んだ。えりかは嬉しそうに後に続いた。涼一は一番後ろの右端に座った。えりかは座席一つ分を空けて横に座った。えりかは涼一に話しかけたが、涼一は心ここにあらずといった反応だったので、すぐに話しかけるのを止めた。涼一は波花中央図書館前で降りた。しかし、図書館に寄ることはなく、図書館の近くを流れる川に向かった。えりかは横には並ばず、涼一の少し後ろを歩いた。その方が涼一をよく観察できるからだった。
「河口さんと帰らないなんて珍しいわね」
えりかはタイミングを見計らって話しかけた。
「なつは藤沢と図書室デートしてるから」
「ふーん。順調そうじゃない」
「そう言えば、この前三人でカフェに行ったそうだな。どうゆう風の吹き回しだ?」
「ああ。そんなこともあったわね。何だかもう懐かしく感じるわ」
「なつと藤沢の邪魔をしたかったのか?」
えりかは首を横に振った。
「まさか。私としては二人が付き合ってくれれば好都合と思って、手助けにしたつもりよ。全く伝わらなかったみたいだけど」
「特に茜にはな」
「そうでしょうね。次の日、廊下で私を見た途端に不機嫌丸出しになってたもの。まぁでも、別に彼女達にどう思われたって構わないわ」
言葉とは裏腹にえりかの顔には寂しさが漂っていた。
「そうか」
涼一はえりかの強がりに気付いていたが、敢えて言及しなかった。何故えりかが強がるのかを知っているからだ。
「それより立花君は良いの?」
「何が?」
「ただ黙ってるつもり?」
「黙るも何も、なつが藤沢の事を好きなのは事実だろ。俺がとやかく言う権利はない」
「そうじゃなくて、いつあの事を話すの?」
「それは・・・・・・」
涼一の歯切れが悪くなった。
「私が河口さんの立場なら絶対に言って欲しかったって思うわ」
「そうかもしれないけど、今は、幸せになろうとしてるなつを困らせたくない」
「立花君って本当に優しいよね」
「優柔不断なだけだ」
「ううん違う。立花君は本当に相手の事を思いやれる優しさを持ってる。高校生でそこまでの優しさを持てる人はそうは居ないわ」
「・・・・・・」
涼一は足を止めて川を眺めた。
「いつだって河口さんの事を一番に考えてる。それに気付かない河口さんにイライラするわ」
「好きな人がいるんだ。それ以外見えなくて当然だよ」
「恋は盲目って言うものね」
「そうだな」
「でも、いつまでも隠し通せる事じゃないでしょ」
「いずれは言う。ただ今はダメだ。だから、誰にも言わないでくれ」
「言わないわよ。私の事も秘密にしてもらってるし。それに、立花君に嫌われるような真似なんかしたくないもの」
「ありがとう」
「それにしても、学校の二大スターから想いを寄せらるなんて、河口さんはまるで小説のヒロインみたいね」
「永瀬だってモテモテじゃないか」
「一年生の最初の頃はね。私の性格を知られた今は誰も近寄っては来ないわ」
「その時に良い男は居なかったのか?」
「私に言い寄って来た男は、私の外見にしか興味ないから、もれなく振ったわ」
「健全な男子高校生なら仕方ないさ。可愛い女子を連れて歩くのがある種の名誉みたいなものだからな」
「まぁ、女子も似たようなもんよ。立花君もそう思ってる人?」
「俺は顔も中身も同じくらい求める強欲な奴だから」
「一番モテないパターンの人ね」
えりかはクスクス笑った。
「そんな自分の理想の女の子が誰よりも一番近くに居るのに、気持ちを伝えられないなんて世の中はそう上手くいかないもんだな」
「立花君・・・・・・」
「近ければ近いほど、大切に思えば思うほど、どう伝えて良いのか分からなくなる。藤沢のようにただ真っ直ぐに気持ちをぶつけられたらどんなに良いか」
「もし、このまま二人が付き合ったらどうする?」
「二人の前では目一杯祝福するさ。そして、その後で少しだけ泣くかな」
涼一は自嘲気味に笑った。
「その時は一緒に泣いてあげるわ」
「バカ言え、自分の情けない所なんて見られたくない」
「情けなくなんかないよ。辛い時は誰だって泣いて良いんだよ。そして、泣いた後は一緒に笑おう。辛い事は忘れて、私と一緒に笑っていようよ」
涼一は突然の告白に戸惑い、声を出すことが出来なかった。
「ダメ?」
えりかは涼一の正面に立って、少し潤みを含ませた瞳でジッと見つめた。
涼一はその視線耐えられず顔を逸らした。
「悪い・・・・・・今は何も答えられない」
「ううん良いの。私の気持ちは変わらないから」
「永瀬まで悲しませたくない」
次の瞬間、えりかは涼一に抱きついた。
「私はもう悲しんだりしないわ。だって、もう一生分の悲しい思いをしてきたもの」
えりかの声は少し震えていた。
「永瀬・・・・・・」
「側に居てくれなくても私は大丈夫。声だけでも聞ければそれだけで十分よ」
「分かった。今はその気持ちだけ受け取っておく」
涼一はえりかの頭を優しく撫で、自分の体からそっと離した。
「ごめんね、困らせちゃって」
えりかは指先で涙を拭った。
「いや、謝るのは俺の方だ」
「ねぇ、テストが終わったら、一緒に出掛けない?」
えりかは努めて明るい声を出した。
「時間は取れるのか?」
「大丈夫。何とかするから」
「永瀬が良いなら、俺は良いよ」
「ほんと!嬉しい!」
えりかは無邪気に笑った。
「どこに行くとか決まってるのか?」
えりかは少し得気な顔をした。
「立花君も行きたいって思ってる場所だよ」
「俺も?ああ、そうゆうことか」
涼一は楽しそうに頷いた。
勉強を終えて夏音と茜は二人と反対方向の健吾を見送り、電車を待っていた。
「はぁー疲れた。こんな長い時間勉強したの生まれて初めて」
茜は肩をグルグル回した。
「お疲れ様」
夏音は笑った。
「夏音はどうだった?楽しかった?」
「勉強が楽しいわけないでしょ」
「そっちじゃなくて。藤沢と一緒に居てどうだったって聞いてるの?」
「嬉しかったけど、集中出来なかったよ」
「藤沢に夢中だったわけね」
茜がチェシャ猫のようにニヤニヤと笑った。
「そんなんじゃなよ」
実際は茜の言う通りな所もあるのだが、涼一のことを気掛かりに思っていた方のが強かった。明日、素直に謝るとは言え涼一が学校に来るとは限らない。それに、茜の粋な計らいにより、明日からテストが終わるまで夏音の塾の日以外は三人で勉強して帰ると言う話しになった。明日とは言わず今日の夜に電話して謝ろうと思った。
お風呂から上がった夏音は早速涼一に電話を掛けようとした。スマホを見ると健吾から着信が来ていた。夏音は驚きのあまり一瞬涼一に事が頭から吹き飛んだ。どちらに先に電話するべきか迷ったが、夏音は健吾に電話することにした。健吾は間違えて夏音の消しゴムを持って帰ってしまったことを電話で謝っきた。それくらいの用ならはメッセージだけでも良かったのではと思ったが、どうやら消しゴムは表向きで自分と電話して話しかったと言う健吾の一言によりあっけなく撃沈した。不思議なことに電話だとスムーズに会話が出来た。夏音も次第に気持ちが入り、気付けば2時間以上も電話していた。
「ごめん。少し喋りすぎちゃったね」
「ううん。楽しかったよ。ありがとう」
「良かった。じゃぁ、また明日」
「おやすみなさい
「おやすみ」
健吾との電話を終えた夏音は自分の体が少し熱く感じた。窓を開けると心地良い風が部屋を横切った。体が冷めていくのと同時に涼一の事を思い出した。涼一のトーク画面を開いた。夏音は電話を掛けようと通話ボタンを押そうとしたが、思いとどまった。せっかくの幸福な気分を涼一に電話をして台無しになったらどうしようと思ってしまった。夏音は結局電話を掛けることなくラインを閉じた。夏音は罪悪感を抱いたが、無理矢理気持ちから追い出した。
次の日から涼一と学校で会わなくなった。以前みたいに夏音も涼一に声を掛けることはしなかった。また変な噂を立てられたら困るし、何より涼一が自分を避けていると感じた。最初の方こそ電話しなかった時の罪悪感を思い出したりもしたが、次第に自分は悪くないと開き直ることにして、健吾と過ごす幸せを噛み締めていた。一度、涼一がえりかと一緒に帰っている所を目撃した時は、どうしようもない虚無感に捉われる事もあったが無視した。
そうこうする内に中間テストを迎えた。三人とも成績が上がり喜んでいた。特に茜は赤点を取らなかった事に感動して泣いていた。何度も二人のお陰で、この恩は忘れませんとしきりに頭を下げた。夏音と健吾はその様子を楽しそうに眺めては、茜の努力の賜物だと言って茜の気持ちを持ち上げた。そして、涼一は学年一位を見事に飾ったものの、当の本人は喜ぶこともなく中間テストは終わった。
中間テストが終わったので、部活動が解禁された。健吾の所属するバスケ部はインターハイに向けての猛練習が始まった。
テストが終わってしまったので、健吾と一緒にいる時間は減ってしまったが、夏音は何一つ不満等抱かなかった。健吾は部活が無い日は極力一緒に帰ってくれるようにしてくれたし、電話の回数も増えてきた。そんな健吾にこれ以上のワガママを望むような夏音では無かった。
そんな幸せ一杯の夏音にも一つだけ心に影を落とすことがあった。それは涼一との関係だった。テストも終わり部活も始まったので、密かに涼一と一緒に帰れる機会があると思っていたが、夏音だがそんな機会は中間テストが終わってから2週間近く経っても訪れなかった。涼一が学校に来ないのはいつも通りなので心配はしてなかったが、学校で見かける度に涼一の側にはえりかがいることが心に漣を立たせた。嫌な予感がチクチクと胸を刺激してくるせいで、話しかけるのはおろかラインを送るのも躊躇ってしまった。
いつものようにあしゅまろのメロンクリームソーダを飲んでいた茜が唐突に切り出した。
「最近、あの二人仲良いみたいなんだよね」
茜も涼一とえりかの仲の良さを妙に思っていたみたいだった。
「確かに、最近よく二人の名前を聞くな」
健吾が同意した。
今日はバスケ部は休みだったので、健吾も二人に付き合いあしゅまろに来ていた。健吾にとっては初来店となる。
「そうなの?」
茜と健吾に挟まれて座っていた夏音が聞いた。
「俺の友達が永瀬と同じクラスなんだけど、いつもより機嫌が良くなったって言ってた」
「涼一と上手くいってるから機嫌が良いってこと?」
「そこまでは聞いてないけど」
「そう言えば、テスト期間の時期に二人が一緒に帰っている所を見たわね。それ以来見かけて無いから、単に涼一の気紛れだと思って気にしてなかったけど」
「だけど、最近は一緒に遊んでることも多いみたいだね」
「マジ?」
「そいつが言うには駅からバスに乗ってどこかに行くのを何回か見たって」
「たまたま乗るバスが被った訳じゃなくて?」
「いや、かなり親しげに会話をしてたみたいだよ。それで、次の日は凄い機嫌が良くて友達が話しかけたら、笑顔で話してくれて驚いたってさ」
「ふーん。かなり怪しいわね。あの涼一が夏音以外と二人で帰るなんて聞いたこともないし」
茜の言葉に夏音の胸がざわついた。
「滝川はあの二人が出来てると思う?」
「そうねぇ。半々って所ね」
「でも、二人で帰るなんて涼からしたら何でもないことだよ。それだけで付き合ってるって話しになるのは変よ」
なぜ、こんなに必死に否定するのか自分でも分からなかった。
「別にあの二人が付き合ったって良いじゃん。そっちの方が好都合だし」
「何が好都合なんだ?」
「ああ。まぁこっちの話しだから気にしないで」
茜は舌を出して誤魔化した。
健吾は今一つ納得しなかったが、それ以上は聞かなかった。
「もうこの話しはやめようよ。本人にしか分からないことだし」
夏音は早く次の話題に移行したかった。
「そうだな。ところで、今日は立花は働かないかな?そうすれば聞けるのに」
「え?まさか涼一に聞くつもり?」
「だって、それが一番手っ取り早いし」
健吾はさも当たり前のような顔をした。
「絶対答えてくれないし」
「聞いてみないと分からないよ。すみませーん」
健吾は側にいたかなえを呼んだ。
「何?注文?」
「今日って立花君は来ますか?」
「涼ちゃん?今日は来ないよ。涼ちゃんに用があったの?」
「あ、いや大したことではないので、来ないなら大丈夫です。すみません」
「そう。なら、良いんだけど」
かなえはすぐに引き下がった。
「そろそろ帰ろう」
特に話すこともなくなったので、茜が切り出した。
「私、お手洗い行くから先に出てて」
夏音が言った。
トイレから戻ってきた夏音は会計を行った。
「あの、涼はいつ入ってるんですか?」
トイレに行ったのは陽二に涼一の出勤日を聞くための言い訳だった。
「涼ちゃんは珍しく当分入ってないよ。次は確か、六月の中旬の日曜日だったかな」
陽二はお金を確認しながら言った。
「えっ。そうなんですか?」
「何か忙しいみたいだよ。聞いてない?」
「最近、話してなくて・・・・・・」
夏音はバツ悪そうに答えた。
「そうか。最近はあのイケメン君と一緒にいるのかな?」
陽二はニコリと笑った。
「そんなことは無いです」
夏音は俯いた。
「おやおや?図星みたいだねぇ。今度は彼と二人でおいでよ」
「え、ええ。ありがとうございます。ごちそうさまでした」
夏音はお礼を言って出口に向かった。
「なっちゃん」
陽二が呼び止めた。夏音は振り返った。
「後悔しないようにね」
「えっ?」
夏音は陽二を見つめた。
「夏音まだー?」
扉を開けて茜が声をかけてきた。
「う、うん。今行くよ」
夏音は返事をして、もう一度陽二の目を向けた。陽二はただ微笑んでいるだけだった。夏音は踵を返してあしゅまろを後にした。
二人と別れた後も夏音の頭から陽二の言葉が離れなかった。陽二は自分に何を伝えたかったのか、まるで見当もつかなかった。そして、そのことを考えると涼一とえりかが仲が良いという話しが頭にチラついた。少し前に涼一に好きな人が居ると言われた時は、てっきり沙織だと勝手に思っていたが、あれはえりかのことだったのだろうか。しかし、そんな素振りは見えたことがない。何なら、えりかのことはむしろ嫌いなのではと思っていた。また胸の奥がチクチクと痛み始めた。今の涼一が何を考えているのか全く分からなかった。それもそのはずで、もう二週間以上も口を聞いてない。元から何を考えているのか解りづらい人物ではあったが、この二週間で随分と遠くにいってしまったように感じていた。健吾と仲良くなればなるほど涼一が遠ざかっていく。そんな一抹の不安を夏音は抱え始めていた。
そんな悩みを抱えながらも、健吾のために手作りの御守りを制作し始めた。元来、不器用な所がある夏音にとって細かい作業を要求される御守りは相当な労作業だった。何度も指に針を刺したりと苦労したが、一生懸命頑張っている健吾の役に少しでも立ちたい夏音は寝る間を惜しんで御守り作りに励んだ。皮肉なことに、御守りを作っている間は涼一のことでも悩まずに済んだ。
御守り制作のせいもあってか、あっという間にインターハイ予選が始まった。直接渡すのが恥ずかしくて茜に頼んで渡してもらおうと思ったが、茜は自分で渡しなさいの一点張りで受け取ってくれなかった。困った夏音だったが、勇気を出して試合の前日に健吾に電話をして試合の前に少しだけ時間を作ってほしいと頼んだ。
「ごめん。お待たせ」
待ち合わせの場所にユニフォーム姿の健吾が現れた。アップの後なのか、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「ううん。試合前なのにごめんね」
「大丈夫だよ。それで話しって?」
「あ、うん。今日の試合を頑張ってって言いたくて・・・・・・」
「そうか。ありがとう」
健吾はニコリと笑った。
「あ、後、これを渡したくて・・・・・・要らなかったら捨ててもいいから・・・・・・」
夏音は顔を真っ赤にして俯かせたまま今にも消えりそうな声で言ってから、制服のポケットからお手製の御守りを健吾に差し出した。
健吾は差し出された御守りを見つめた。
「これってまさか手作り?」
「一応・・・・・・」
夏音は自信無さげに答えた。
健吾は御守りから目を離さない。
「下手だよね。やっぱりこんな出来の悪い御守りなんてもらっても迷惑だよね」
夏音は急いで御守りを引っ込めようとしたが、健吾は夏音の手を御守りごと素早く握った。夏音は驚いて顔を上げた。
「要らないわけないだろ。嬉しくてつい何も言えなかったんだ」
「あ・・・・・・」
健吾の手の温もりが夏音の手を包む。
「今まで貰った物で一番嬉しいよ」
健吾は真剣に夏音を見つめた。夏音も見つめた。今度は手をすぐには離さなかった。
健吾は握っていた手を緩めた。そして、夏音の手から御守りを受け取った。
「ありがとう。大事にするよ」
「うん。ありがとう」
「そろそそ戻らないと」
「怪我しないでね」
「ああ」
健吾は手を挙げて軽く走って戻った。その手は夏音の御守りをしっかりと握り締めていた。夏音はその背中が見えなくなるまで見送り、さっきまで健吾が握り締めてくれていた右手を左手の掌で覆った。
「涼ちゃん。手止まってるよ」
洗い物をしている涼一の横で、今日の分の売り上げを数えていた陽二が言った。
「あ、すみません」
「今日はもう帰りなさい。後は僕がやっておくから」
「でも・・・・・・」
「良いから」
「・・・・・・すみません」
涼一はもう一度謝った。
涼一は着替えようと更衣室へ向かおうとした。
「ちょっと待って涼ちゃん。これ先月のお給料」
あしゅまろでは銀行振り込みではなく手渡しだった。
「あ、ありがとうごさいます」
「うん。ご苦労様」
給料を受け取った涼一は改めて更衣室に向かい、着替えを済ませた。
「お疲れ様でした」
陽二に挨拶をした。
「涼ちゃん」
「はい?」
「まだ悩んでるんでしょ?」
「いえ、別に」
涼一は目を逸らした。
「そうだ。明日は来なくて良いから。学校に行きなさい」
涼一は何か言い返そうとしたが、陽二の目がそれを許してくれなかった。
「分かりました。お疲れ様でした」
「はい。お疲れ様」
陽二はいつもの笑顔で涼一を見送っった。
明くる日の朝。夏音はいつも通りに家を出て学校に向かっていた。学校の最寄り駅に着いて、歩いていると少し前に涼一の姿を発見した。夏音は少しドキリとした。いつものなら声を掛けるはずだが、今日に限っては躊躇ってしまった。涼一の歩くスピードは速く、夏音は小走りしないとすぐに離されてしまいそうになった。夏音は何も後ろめたいことなんてないと自分に言い聞かせ涼一に声を掛けた。
「涼。おはよ」
声をかけながら横に並んだ。
「なつか。おはよう」
涼一は抑揚の無い声で言った。
「遅刻せずに学校に行くなんて珍しいね」
「まぁな」
いつも通りの反応ではあるが、長年付き合っている夏音からすると、心無しか元気がないようにみえた。
「どうしたの?元気がないようだけど」
「そうか?いつも通りだけど」
「あ、そうだ。バスケ部勝ったよ」
「あっそ」
涼一は素っ気無く返した。
「少しは興味ないの?」
「全くないね」
「そう」
涼一の態度にムッとしながらも、やはりどこかおかしいと思った。夏音は何があったのか、詳しく聞き出そうとした。
「ねぇ」
「なぁ」
二人の声が重なった。
「何?」
涼一が聞いた。
「あ、えっと、やっぱり元気が無いなって。本当にどうしたの?」
「元気だよ。ただ・・・・・・」
「ただ?」
「なつに話したいことがあって」
涼一は夏音に目を向けた。その目は夏音が今までに見たことがないような真剣な眼つきをしていた。夏音は思わず唾を飲み込んだ。そして何故だが、話しを聞きたいと思う以上に聞きたくない方が強かった。
「おーい」
二人の流れている空気とは正反対の能天気な声が聞こえた。
「藤沢君・・・・・・」
「おはよう」
健吾が言った。
「おはよう」
夏音は返したが、涼一は何も言わなかった。
「二人で何話してたの?」
「えっと」
夏音はチラッと涼一を見た。
「お前の話しをしてたんだ」
涼一が妙に明るい声で言った。
「俺の?」
「そうだ。昨日は試合で大活躍したそうだな。河口が今嬉しそうに語ってくれたよ」
「そんなことは無いけど」
健吾は照れた。
「じゃぁ、後は二人でよろしくやってくれ。じゃあな河口」
涼一はそれだけ言うとあっという間にその場から離れて行った。
夏音はただただショックを受けていた。涼一が最初河口と言った時は空耳かと思った。しかし、場を離れる時にもう一度言った河口の声が夏音の頭から離れなかった。夏音はしばらくその場で立ち竦んでしまった。
夏音は涼一に名字で呼ばれたショックを放課後になっても引きずっていた。昼は箸が進まずお弁当に入っていたサクランボを残してしまった。茜に心配され、理由も聞かずに健吾のことをぶっ飛ばしてくると言ったので、胃の調子が悪いだけと言って何とか引き止めた。
涼一がどうして名字で呼んできたのは何となく分かった。恐らく、健吾が来たからだ。涼一が気を遣ってくれたのは分かっている。でも、夏音にはそれが寂しくて堪らなかった。物心つく前からなつと呼ばれ、名字で呼ばれるなんてことは一度たりともなかった。涼一以外でなつと呼ぶ人物はいない。ある意味で涼一だけに許された呼び名だった。そして、その呼び名を夏音はとても気に入っていた。涼となつという呼び名はこの先二人がどんなに変わっていってもこれだけは変わらないと思っていただけに、そのショックは大きかった。
夏音は速く明後日になってほしかった。明後日は創立記念日で学校は休みととなる。その日は、健吾と上野動物園に行く約束をしていた。健吾と楽しい時間を過ごして、少しでも涼一のことを忘れたかった。
創立記念日の朝。夏音はデート用の服に着替えて上野に向かった。11時に上野動物園前に集合だったので、今日は遅刻しないようにかなりの余裕を持って家を出た。平日と言うこともあり、土日は大混雑する上野の公園口も人がまばらにいる程度だった。
動物園に向かう途中の掲示板には色んな博物館のポスターが貼られており、その中の一つはきっと涼一が目を輝かせるだろうなと分かるポスターが貼られていた。それは恐竜博のポスターだった。中学二年生頃まではこう言った恐竜展が開催されると、夏音は涼一に半ば強引に連れて来られた。いつもは冷めている涼一も恐竜の化石を目の前にすると、人が変わったように目を輝かせては夏音に恐竜の説明をしてきた。正直、恐竜には興味がなかったので、何を言われてもピンと来なかったが、あまりのも楽しそうに話す涼一が見ていたくて、健気に耳を傾けていた。その甲斐もあってか、興味が無い割には人並み以上の知識がついていた。大抵の人が覚えるのに苦労する恐竜の名前もスンナリ頭に入ってくる。
そんな懐かしい記憶に浸っていた夏音はハッと我に帰って首を横に振った。これから健吾とデートだと言うのに、涼一との思い出で浸っていた自分が嫌になった。
約束の15分前に動物園の前に着いた。健吾は五分前にやって来た。
「お待たせ」
今日はネイビーの薄い長袖シャツを羽織っていた。よく似合っていて、いつもより大人っぽく見えた。
「おはよう」
夏音は以前のように緊張をしなくなった。それだけ仲が深まってきたと実感して、嬉しくなった。
「先にチケット買っておいたから」
夏音はチケットを渡した。
「ありがとう。お金払うよ」
「ううん。今日は私の奢り。試合に勝ったご褒美」
「河口・・・・・・」
「大したご褒美じゃなくて申し訳無いけど・・・・・・」
「いや、嬉しいよ。ありがとう」
健吾はニッコリ笑った。
「じゃぁ、行こう」
二人は動物園の門を潜った。
久々の動物園は楽しかった。虎がガラスに思いっ切り体当たりしてきた時は二人して本気で怖がったり、ウサギを抱きかかえたり、パンダの勝手気ままな行動に二人で笑いあった。
動物園を満喫した二人は上野公園内にあるカフェでコーヒーを買って公園内を適当に散策していた。話題は先日の試合で大いに盛り上がった。少し歩き疲れた二人は適当なベンチに腰を下ろした。
「あ。お手洗い行くついでにゴミ捨ててきてあげる」
「ああ。ありがとう」
夏音は健吾の飲み終えたカップを受け取り、トイレを探した。
用を終え健吾の元へと戻る時にベンチに座っている男女のペアが目についた。後ろ姿で詳しくは分らないが自分達と年齢が同じくらいに見えた。夏音はその後ろ姿に何となく見覚えがあるよな気がした。その二人の後ろでは小さい男の子がしゃがみ込んで、地面に木の棒で何やら書いていた。周りにはその子の親らしき人が見当たらなかったので、迷子なのかと思い、声を掛けに行くべきか迷った。
ベンチに座っていた女の子が隣の男子に顔を向けた。夏音はその横顔を見て心臓が飛び出すくらい驚いた。その女の子の正体はえりかだった。えりかは後ろの男の子に目を向けた際に夏音に気付いて同じように驚いた顔をした。夏音は慌てて目を逸らした。夏音はそのまま過ぎ去ろうとしたが、嫌な予感がよぎりもう一度目を向けた。その男の正体が分かると、愕然とした気持ちになった。夏音の嫌な予感は的中した。えりかの隣に座っていたのは、紛れもなく涼一だった。夏音は思わず立ち止まって二人を観察してしまった。涼一の楽しそうな表情が十分に見て取れた。その様子を見た夏音の胸は痛いほど締め付けられた。その様子を見かねた夏音は重い足取りでその場から離れた。
健吾の所に戻ると、健吾が心配そうな顔を向けた。
「顔色悪いけど、どうしたの?」
「そんなことないよ。ねぇ、もう少しあっちに行ってみようよ」
夏音はあの二人からもっと離れるべく、散歩を促した。
「良いけど。少し休んだ方が良いんじゃない?」
「大丈夫。ね。行こ」
夏音は歩き出した。健吾は首を捻りながらも後に従った。
とにかくあの二人から遠ざかりたかった。健吾が気付くのはもちろん、涼一に気付かれるのは避けたかった。二人から遠く離れたが、涼一の楽し気な顔が頭から離れなかった。
「ねぇ、本当にどうしたの?さっきから様子が変だけど」
さすがの健吾も夏音に対する違和感を感じ取っていた。
「ううん。何でもないよ」
「嘘つかないでよ。何かあるなら言ってくれよ。そうじゃないと分らないよ」
「そうだよね。ごめん」
だからと言って、さっき見たことを話したくはなかった。
「俺といるのつまらない?」
「そ、そんなことないよ」
「でも、さっきから返事が雑だし」
「それは・・・・・・」
「やっぱり、立花といる方が楽しい?」
夏音は驚いて健吾も見た。
「どうしたの急に?」
「俺といるときより、立花といる時の方が笑ってる気がするから」
健吾の声には悲壮感が漂っていた。
夏音は何て言って良いのか分からなかった。
「そうなんだろ」
健吾が決めつけるように言った。
この時初めて夏音の気持ちに健吾に対しての苛立ちが生まれた。
「違うよ。どうしてそんな話しになるの?涼の話しなんてしてないでしょ」
「じゃぁ、どうしてそんな機嫌が悪そうな顔をしてるの?」
「ちょっと具合が悪くなって」
「本当?」
「本当だよ」
「そっか。変なことを言ってごめん」
「私の方こそ気を遣わせてごねんね」
お互い謝ったものの、微妙な空気が二人の間に流れた。
「じゃぁ、今日はもう帰ろうか」
「えっでも、この後はスカイツリーに行くんじゃないの?」
「よく考えたら明日も部活だし、あまり疲れるわけにはいかないんだ。それに、無理をさせたくないし」
夏音は嘘だと思ったが、反論する気力はなかった。
「藤沢君がそう言うなら」
そのあとの二人は終始無言だった。いつもなら夏音が先に電車を乗るまで待ってくれた健吾も今日は先に電車に乗って帰った。
悲しい気持ちを抱えたまま地元についた夏音はすぐに花織神社に向かった。そして、いつもの場所に膝を抱えて座り込んだ。
健吾と喧嘩別れしたことも辛かったが、それでも涼一とえりかの二人の姿の方がショックの方が大きかった。
夏音は一昨日に涼一が話しがあると言った内容はえりかと付き合ってる事を言いたかったのでは無いかと思った。あの二人は付き合い始めたのだろうか。恋人と一目で分かる行動をしてたわけではない。だからと言って、付き合っていないとも言えない。本当にあの二人が付き合い始めたと考えると、さっきと同じように胸が締め付けられた。どうしてこんなにも苦しいのか分からないのが嫌だった。
喧嘩と喧嘩別れみたいになったことも辛い気持ちを増長させた。何もかもめちゃくちゃになってしまったような気分だった。いつもならここで涼一が颯爽と現れ、夏音の話しを聞いてどうすればいいのかを教えてくれる。しかし今は、涼一に来てほしくはなかった。
時間が経てば経つほど辛い気持ちが胸を襲い、ついには涙を流した。泣いた所で何も解決はしないと分かっていた。それなのに、泣くことしか出来ない自分に腹が立ってまた涙が溢れた。
そんな夏の様子を陰でそっと見守る影があった。その影はもちろん涼一だった。えりかと別れる際に夏音に二人でいると誤解されたと言われ、嫌な予感がして急いでここにやって来たのだった。予想通り神社に居たが、泣いている夏音を見て声をかけることが出来なかった。涼一は声にならない溜め息を一つ吐いて、夏音に気付かれないように引き返した。
ひとしきり泣いた夏音は少しだけスッキリした。夏音は家に帰ってすぐに健吾に電話をかけた。3コール目で相手が出た。
「もしもし。藤沢君?」
「河口」
健吾の声には元気が無かった。夏音は申し訳なさで一杯になった。
「あの、今日は本当にごめんなさい。藤沢君が私のことを嫌いになったとしても、藤沢君にことを傷つけるつもりなんて無かったことだけはどうしても伝えたくて」
少しの間が空いた。
「いや、謝るのは俺の方だよ。あんな情けない態度を取って、河口のことを傷つけて本当にごめん。俺の方こそ愛想をつかされたって思ってたから」
「そんなことはないよ。だって・・・・・・」
そこで言葉を区切った。その先は自分の口から言うのはまだ躊躇われた。
「だって?」
「う、ううん。何でもない。ごめんね」
「そうか。とにかく嫌われてなくてホッとしたよ」
健吾の声にはいつもの明るさが戻っていた。その声を聞いて夏音はまた少し元気が出た。
「本来は直接謝るべきなのに、電話でごめんね」
「もう謝らなくていいよ。電話でも十分気持ちは伝わったから」
「ありがとう」
二人の間のわだかまりがスーと消えた。
「じゃぁ、また明日。お休み」
「おやすみなさい」
夏音も明るく返した。
電話を終えた夏音はひとまず安心した。しかし、健吾に嘘をついたままだという事が、胸にしこりは残した。結局、涼一とえりかが一緒にいたことは話すことが出来なかった。そして、もう一つ大きなしこりが一つ。夏音はバルコニーに出て空を見上げた。夏音の心とは対称的なな雲一つない澄んだ夜空だった。また涼一とえりかのこと思い出した。
「どうして」
無意識に呟いた言葉だった。それと同時に一筋の涙が頬を伝った。
この涙が意味するのかは、いつか気付くその日まで夏音自身にも分からない。
その日を知ってか知らず、夜空に煌めく星達はその輝きを世界に散らしていた。