蒼く恋しく
夏の結末
   生徒にとって夏休み前の最後の試練である期末テストも終わり、学校内の憂鬱な雰囲気は消え去り、三学年の一部を除いては夏休みの期待に胸を膨らませていた。夏休みに解放するべきテンションを先ばらせてバカ騒ぎを起こして、先生にキツく叱られるやんちゃな男子生徒の一人や二人いるのは健全な学校の証だろう。そんな生徒全員が夏休みと言う響きに浮かれていく中、そんな空気とは無縁の男がいた。

 その男とは他ならぬ涼一だった。いつもなら中庭や図書室で勝手気ままなスクールライフを過ごしているのだが、今日は珍しく教室で大人しく過ごしていた。茜以外に涼一に話しかける者はいなかったが、涼一はそれがありがたかった。今は変に話しかけられても迷惑なだけだった。クラスメイトは弁当を食べながら、楽しそうに話していた。もちろん、受験を迎えることもあって、中には夏休みは勉強漬けと言う者もいた。しかし、耳に届いてくる話題は一様にして今月に開催される花火大会を誰と行くかだった。そんな楽し気な会話をよそに涼一は深い溜め息を吐きながら、窓の外を眺めた。しかし、その溜め息を聞いてる者は誰一人としていなかった。唯一気付ける茜も昼休みは夏音と一緒にご飯を食べているため今は教室には居ない。仮に居たとしても茜もどうすることは出来なかったことだろう。

 空はどんよりと曇っていた。その事が一層気持ちを憂鬱にさせた。せめて、晴れやかな空であれば多少はマシなのにと思った。また溜め息をを吐いた。しかし、陽気なクラスの空気に溶けて消えてしまった。涼一の頭を深い懊悩の世界へと沈んでいった。



 「ねぇ、そう言えば藤沢から花火大会に誘われた?」

 夏音と茜は一緒に帰り、久し振りにあしゅまろに来ていた。そして、いつものようにカウンターに座って、いつも通りにメロンクリームソーダを飲んでいた。平日のお昼過ぎということもあって、店内はガラガラだった。学校は早帰りの期間に入っているので、こんな時間に来れたのだった。

 「うん。誘われたよ」

 夏音はメロンクリームソーダを少し啜った。

 「行くって言った?」

 「断れる訳ないよ」

 「そりゃそうか」

 「後・・・・・・」

 「ん?どうした?」

 「花火大会の日に大事な話しがあるって」

 「大事な話し?それって告白ってこと?」

 「そ、それは分からないけど」

 「それ以外にないでしょ」

 「もしかしたら、遠くに行きますってことかもしれないし」

 夏音がそう言うと、茜はメロンクリームソーダが入っていたグラスを倒してしまった。

 「あ、ヤバイヤバイ。マスター。ごめんなさいタオルありますか?」

 「何?こぼしちゃったの?はいはい。どうぞ」

 「良かったー。ほとんど飲み終わってて。夏音濡れなかった?」

 茜は濡れた場所を丁寧に拭きながら聞いた。

 「大丈夫だけど、茜この前から変だよ?」

 「な、何が?」

 「お昼食べてる時とか、ボーっとすることも多いし、今も何か動揺して倒したでしょ」

 「そんなことないよ」

 茜は気が気では無かった。

 「何か隠してるの?」

 「何も隠してないって。ボーっとしてるのは暑いからよ」

 「そうは見えなかったけど・・・・・・」

 夏音は納得しかねると言う表情だった。

 「そんなことよりさ、もし藤沢の話しが告白だったら、夏音の答えはもう決まってるの?」

 茜は強引に話題を逸らした。

 「え、うん。まぁ」

 「何か迷いでもあるの?」

 「ううん。そんなことはないけど・・・・・・」

 夏音は目を伏せた。

 現時点での、夏音の返事はイエスだった。ただ、そのイエスは健吾からの申し出を断れる自分が想像出来ないが故のイエスでもあった。健吾のことが好きなのは間違いないと思ってるのだが、最近は涼一のことが気になって仕方なかった。えりかの件で仲直りというか、以前のように接することができるようになったが、ふと涼一に視線を向けると、やはりどこか遠くを見ていることが多いなと思った。元気がないというよりは覇気を感じなかった。そして、涼一の話したいことが何なのか、健吾の言う大事な話しと同じくらい気になって頭を悩ませていた。

 「あ、そうだ。夏音」

 「何?」

 「夏休みさ、えりかも連れてどこか遊びに行かない?」

 茜の意外な提案に夏音は目を丸くした。

 えりかが倒れて以来、茜のえりかに対する評価は180度変わっていた。

 「それにほら、洸太が一緒でも良いし。そしたら、私の弟も連れて行こうかな」

 茜にもえりかと洸太程ではないが年の離れた弟がいた。その事もえりかに対して他人事には思えなかったのだろう。茜は涼一から話しを聞いた三日後に洸太に会いにいった。弟の扱いになれているからか、茜の天性なのか分からないが、洸太はすぐに涼一や夏音と比べ物にならないくらいあっという間に懐いた。えりかもその事には大層驚いた。それから、二人は何だかんだで仲良くなり、茜は早くも呼び捨てで呼んでいる。

 「うん。良いと思う。えりかもきっと喜ぶよ」

 夏音は一にもなく賛同した。それと、同時に茜の優しさに心を打たれた。

 「じゃぁ、夏音の方からえりかに伝えておいて」

 「何でよ。言い出した茜が誘いなよ」

 「私は誘ったって嫌味の一つを言われるだけだから嫌よ」

 「それはいわゆるツンデレってやつだから、気にしなくていいよ。ほら、今電話をしちゃいなよ」

 夏音はニコニコしながら、茜のスマホを指差した。

 「今?」

 「そうだよ。えりかは忙しくてあまりラインを見ないから、大事な用件はメッセージじゃなくて電話して欲しいって言ってたでしょ」

 「そ、そうだけど、別に電話をするほど大切な用でも無いでしょ」

 「思い立ったが吉日てって言うじゃない。ほら、早くしてきなよ」

 夏音にしては珍しくグイグイ押した。

 「わ、分かったわよ。じゃあ、少し電話してくるね」

 根負けした茜はスマホを手に取って外へと出た。あしゅまろ内は通話禁止だからだ。扉の向こうに見える茜はどこかぎこちなく落ち着きがなかった。夏音はその様子を優しく見守った。

 「なっちゃん」

 陽二が声をかけた」

 「は、はい」

 夏音は陽二の方に体を向けた。

 「ごめんね。聞こえちゃったんだけど、花火大会に誘われたんだって」

 「ええと、はい」

 夏音は少し俯き加減に答えた。

 「どっちに誘われたの?」

 「どっち?」

 夏音は首を傾げた。

 「その反応を見ると、涼ちゃんには誘われてないみたいだね」

 「涼とは花火大会の話しすらしてません」

 「じゃぁ、涼ちゃんは一人で見るわけか。涼ちゃんの頑固さには困ったものだな」

 「どうゆう意味ですか?」

 「いや、ただの独り言だよ」

 夏音は陽二も何か隠しているのかと疑った。茜と言い陽二と言い、何をそんなにひた隠しするのだろうと訝しんだ。もしかしたら、えりかも何か知ってるのではないかと思った。自分だけ蚊帳の外に置かれた気分になり、夏音はなんだが急に寂しくなった。いっそのこと今陽二から聞き出そうかと迷っている内にえりかと電話を終えた茜が店内に戻ってきた。少し乱暴に扉を開けたので、何か嫌味を言われたのは明白だった。

 「全く。えりかのやつ本当に素直じゃないんだから」

 茜は座るとすぐに文句を言った。

 「断られたの?」

 「いや、断られてないけど、景品で当たった日焼け止めクリームを消費するのに、丁度いいわだって。あーもう。ムカつく」

 「まぁまぁ。今頃、嬉しそうに洸太君に話してると思うよ」

 「茜ちゃん。えりかちゃんと仲良くなったの?」

 「別に仲良くなったわけじゃないですよ」

 茜はまだ不貞腐れていた。

 「そんなこと言って、本当はえりかちゃんのことが大好きなんでしょ」

 「ちょっと、止めてくださいよ。誰がえりかの事なんか。ただ、同じ弟を持つ姉として気にしてるだけですよ」

 「素直じゃないね」

 陽二と夏音は目を合わせてクスリと笑った。

 「マスターからえりかに言ってくださいよ。あんまり皮肉ばっか言ってると友達無くすよって」

 「どうして?あんなに健気で可愛い女の子なんて滅多にいないじゃない」

 「それは学校でのえりかを知らないから言えるんですよ」

 「なら、茜ちゃんはどうしてえりかちゃんと一緒に居るのかな?本当に嫌なら離れれば良いじゃない」

 「だって、悪いやつじゃないし、それに涼一みたい」

 「涼ちゃんみたい?」

 「話してて思ったけど、えりかと涼一って凄い似てるなって。基本冷たいし、付き合いも悪いけど、何だかんだ優しくて頼れるから、受け入れられちゃう」

 「確かに、あの二人は似てるよね。あの二人が仲良くなったのも頷けるな。個人的には似た者同士の素敵なカップルだと思うんだけどね」

 陽二の発言に夏音の心に波が立った。

 「皮肉屋同士でお互いを皮肉ってれば良いのに。あの二人に皮肉には大抵の人間は耐えられないですし」

 茜の発言に陽二が思いきっり笑った。夏音も笑った素振りを見せた。

 「まぁでも、似た者同士だと上手くいかないケースもよくあるからね。でも、あの二人ならお互いの皮肉に隠された愛情も見抜けるだろうから、上手くいくだろうね」

 夏音はますますドキッとした。

 「マスターが言うと、説得力が違うなー」 

 「伊達に年を重ねてないからね」

 店内に居た他の客が手を挙げたので、陽二はそちらに向かった。

 

 「今年の夏は遊んでばっかりいられないなー」

 茜が憂鬱そうに言った。

 「受験一色になっていくもんね」

 「夏音はどこに行くのか決めた?」

 「一応、推薦で行きたい所があったからそれを狙ってるけど、ライバルも多いから取れるか分からないし、センター試験どころか来年の三月までガッツリ勉強をしないと思うと、さすがに心が折れそう」

 「まぁ夏音は藤沢にミッチリ教えてもらいなよ」

 「どうして、涼一じゃなくて藤沢君なの?」

 「だって、藤沢と付き合ったらいくら涼一でも二人きりで教わる訳にはいかないでしょ。藤沢だって嫌がるよ」

 「そう・・・・・・だよね」

 「藤沢じゃ不満なの?」

 「う、ううん。そんな当たり前のことに気付かなかった自分がバカだなって。茜こそ大学決めたの?」

 「私が大学には行かないかな。てか、私の頭じゃ夏音達が行くような大学はいけないから」

 「でも、大学はたくさんあるし」

 「それに、親にも下手にランクの低い大学に行くくらいなら、就職に役立つ専門学校に行きなさいって言われてるから」

 「何の専門?」

 「そこは全く未定。でも、保育士とかいいかなって思ってる」

 夏音は茜が保育士になって子供達の面倒を見てる場面を想像したみて。あまりにもしっくりきたので、思わず笑いそうになってしまった。

 「今、私の保育士の姿想像したでしょ」

 茜は夏音の心を読んだ。

 「あ、えーと、凄く似合ってたよ」

 「あーあ。私も涼一やえりかみたいな頭を持っていたらな。どこでも受け放題なのに。こうゆう時は羨ましく思っちゃう」

 「そうだね。涼はどうするんだろ」

 「さぁ?あの男が何を考えているかなんて私には分からないし。まぁ、今はとにかく花火大会に集中すれば良いのよ。藤沢ととことん楽しんでから、悩んでも遅くないって」

 茜が夏音の背中をバシバシ叩いた。

 「もう。茜はお気楽なんだから」

 「さてと、帰ろっか」

 「そうだね」

 二人は会計を済ませた。

 「なっちゃん」

 陽二が夏を呼び止めた。

 「はい」

 「前回来てくれた時に、僕が言った言葉を覚えてる?」

 夏音は前回の時の記憶を辿り、思い出して頷いた。

 「自分の気持ちには嘘をついてはいけないよ。それはいつか誰かを傷つけることになってしまう。そして、なっちゃん自身もね。分かったかな?」

 夏音は動揺したが、曖昧に頷いただけだった。

 それでも陽二は満足気な表情で、二人を見送った。

 店の外に出た後に茜が今のやり取りの意味を問いてきた。

 「マスターに前回何て言われたの?」

 「後悔しないようにねって・・・・・・」

 「ふーん」

 茜は何とも言えない表情をした。

 「てかさ、花火大会の次の日は夏音の誕生日じゃん」

 茜が重たい空気を取り払うかのように言った。

 「うん」

 「今年は何をあげよっかなー。あ、藤沢から何か貰えるんじゃない?」

 「藤沢君に私の誕生日教えてないから知らないよ」

 「そうだろうと思って、私が伝えておきました」

 「藤沢君のことだから、何かあげなきゃって思っちゃうから、教えてなかったのに」

 「貰えば良いじゃん。好きな人からの誕プレなんだから、貰って嬉しくないわけないでしょ」

 「そうだけど」

 「涼一からは毎年貰ってるでしょ」

 「貰ってるけど、毎年あしゅまろのサクランボの詰め合わせだよ」

 「えっそれだけ?」

 「うん。私もそれで十分だし」

 「さすがに毎年は飽きない?」

 「うーん。誕生日プレゼントって言うよりお歳暮に近い感覚かも。だから、飽きないし、不満もないよ。くれるから貰ってるって感じだから」

 「熟年の夫婦かよ」

 茜は突っ込まずにはいられなかった。

 あしゅまろから帰った夏音は特にやることもないので、夜まで部屋でゴロゴロして過ごした。途中で真面目に勉強をしようとも思ったのだが、涼一のスパルタなテスト勉強を思い出してしまい嫌気が差してやめた。涼一のお陰で中間テストから更に成績は上がったが、やはりズルをしたみたいで素直に喜べなかった。受験の時も頼りたくて仕方ないが、そこで頼ったらそれこど一生頼りっぱなしの人生になってしまう気がしたので、受験中は何があっても勉強を見てもらう事を頼みはしないと固く誓っていた。ご飯とお風呂を済ませて、部屋に戻るとスマホに涼一から着信が来ていた。夏音はすぐに折り返しの電話をかけた。

 「もしもし。涼?」

 「悪いな。急に電話して」

 「どうしたの?」

 「今から少し会えないか?」

 「今から?」

 「渡したいものがあるんだけど、無理なら明日でも良いけど」

 夏音は少し悩んだが、会うことに決めた。

 「少し時間がかかるけど、それでも良いならいいよ」

 「ありがとう。すぐそこの公園で待ってるから」

 「分かった」

 電話を終えた夏音は急いで髪を乾かし、パジャマを脱いで適当な服に着替えた。

 部屋を出ると一階から上がってきた文也と鉢合わせした。

 「どこ行くんだよ?」

 「どこでもいいでしょ」

 「もう夜も遅いんだから、気をつけろよ」

 文也の優しい言葉に夏音は驚いた。そういえば最近の文也は異様に優しかった。急にお小遣いをくれたり、いつもなら頑なに貸してくれない漫画も急に読んでいいと許可をくれた。最初はどこかで頭をぶつけたのかと思った。

 「涼がいるから大丈夫。ありがとう」

 涼一の名前を聞いた文也は口をへの字に曲げて自分の部屋に入った。一階に降りると眉を顰めた母親からも同じことを聞かれたが、涼一に会ってくると言ったら、すんなりと了承してくれた。どうやら、我が家の涼一に対する信頼は絶大らしい。公園に着くと、涼一はブランコに乗っていた。夏音は涼一の隣のブランコに座った。

 「わざわざ悪かったな」

 涼一が謝った。

 「別に良いよ。それで渡したいものってなに?」

 「まずはこれ」

 涼一が小さな柄物の袋を差し出した。

 「これはどうしたの?」

 「永瀬と洸太からのこの前のお礼だよ」

 「本当に贈ってくれるなんて」

 夏音の胸がジーンとした。

 「中見てみなよ」

 涼一に促された夏音は袋を開けて中に入っていたものを取り出した。可愛らしい柄のハンカチと手紙が入っていた。手紙の中身は一生懸命書いたのが良くわかる洸太からのお礼の言葉が綴られていた。夏音はその手紙を読んでつい泣きそうになった。

 「泣いてるなら、そのハンカチで拭けばいい」

 「な、泣いてなんかないよ」

 「そしてもう一つ、少し早いけど誕生日プレゼント」

 今度はどこにでもありそうなビニール袋を差し出した。

 「少し?大分早くない?」

 「永瀬のも渡すし、丁度いいかなって」

 「今年もサクランボなんでしょ」

 案の定、受け取った中身はあしゅまろのサクランボだった。

 「嫌なら茜なり藤沢なりにあげるんだな」

 「嫌なんて言ってないでしょ。ありがとう。永瀬さんにお礼を言わないと」

 「洸太にもな」

 「そうだね」

 夏音はハンカチと手紙が入ってる袋を大事そうに抱き抱えた。

 「涼は何を貰ったの?」

 「俺?うーん、言いづらいなぁ。永瀬もかなり思い切ったものくれたから」

 「何?凄い気になるじゃない」

 「俺は永瀬のファーストキス貰ったよ」

 「は?」

 夏音の目が点になった。

 「だから、永瀬が初めてのキスをくれたんだよ」

 「え、いや、ちょっと本気で言ってるの?」

 あまりの回答に夏音は狼狽した。

 「冗談であってほしいか?」

 「べ、別に。そんなの私に関係ないことだし」

 夏音は手紙だけ取り出して、紙袋を投げつけたい衝動に駆られた。

 「冗談冗談。そんな大事なものくれるわけないだろ。なつと同じハンカチだよ」

 涼一はケラケラ笑った。

 「冗談でもそんなこと言わないでよ。えりかにも失礼だよ」

 夏音は少し怒った口調で言った。

 「冗談でなきゃこんなこと言えないだろ。もし本当だったら、誰にも言わずに黙ってるさ」

 「あまりにもあっさりと言うから、一瞬信じそうになったじゃない」

 「悪い悪い。まぁ俺はファーストキスの相手は決めてるから。そいつとじゃなきゃキスはしないよ」

 「またおかしなこと言って」

 「いや、これは冗談じゃなくて本気だ」

 夏音は涼一の方に顔を向けた。涼一は夏音のことをジッと見つめた。二人は数秒間見つめ合った。次第にその空気に耐えられなくなった夏音は慌てて話題を出した。

 「涼は、花火大会はどうするの?えりかとでも見るの?」

 夏音は涼一からの視線を逸らすために前を向いた。

 涼一は軽い溜め息をついた。

 「いや、一人で見るよ」

 「そっか。最近はあしゅまろで働いてないの?」

 「そこそこは働いてるよ。ただ、少し忙しいから以前ほどじゃないけどな。なつこそ誰と行くんだって聞くまでもないか。藤沢には誘われたか?」

 「あ、うん」

 夏音の声のトーンが低くなった。

 「行くって返事したんだな?」

 「うん」

 「そうか。それは楽しみだな」

 「・・・・・・藤沢君に花火大会の日に大事な話しがあるって言われたよ」

 「大事な話し?」

 「なんだろうなって考えてるけど、涼は何の話しをされると思う?」

 涼一から返事が無かった。夏音が涼一の方を見ると、険しい表情をして何か考え込んでるようだった。

 「涼?」

 「あ、ああ。ごめん。そりゃ告白に決まってるだろ。それ以外に何があるんだよ」

 「やっぱり涼もそう思うよね」

 夏音は指をモジモジさせた。

 「誰が聞いたってそう思うさ」

 「もし、告白だったら、OKするべきかな?」

 「そんなことを聞くってことはもうなつの中では答えが決まってるんだろう?」

 「・・・・・・うん」

 「なら、俺が何か言うことはない」

 「そっか」

 夏音は涼一に背中を押してほしかった。だが、そんなことは間違っても言えなかった。

 「さて、そろそろ帰るか。親も心配するだろう」

 「涼と一緒だから、あんまり心配してないと思うけど」

 「自分の娘が年頃の男の子と夜の公園で二人きりなのに、心配しないはずがないだろ」

 「まぁ、涼以外なら心配もしてるだろうけど、涼に会うって言ったら簡単にOKしてくれたから、本当に気にしてないと思う」

 「なつの両親にとって、俺の立ち位置はどうなってるんだ?」

 「保護者的な?」

 「それじゃ保護者として、責任を持って家まで送り届けますよ」

 涼一はブランコから立ち上がった。

 見送ると言っても、数分なのですぐに家の前に着いた。

 「今日はありがとうな」

 「こっちこそ。サクランボは家族で美味しく頂くね」

 「どうせ、半分以上は自分で食べるんだろ?」

 「もちろん」

 夏音は笑った。

 「明日、永瀬に会ったらちゃんとお礼言えよ」

 「分かってるって」

 「じゃあ、俺も帰るから早く家に入れよ」

 「涼が見えなくなるまで見送りたいの」

 「なつ・・・・・・」

 「ん?何?」

涼一は夏音を引き寄せ、そのままつ抱き締めた。夏音は驚きのあまり手に持っていた袋を落としてしまった。

 「りょ、涼?」

 夏音は涼一から離れようとしたが、涼一が力を込めたので逃げられなかった。

 「ごめん。でも、少しだけこのままでいさせてくれ」

 今までに聞いたことのないような切実な声だった。夏音はその声を聞いた途端に体から力が抜けていくの感じた。そして、夏音はそっと目を閉じた。

言葉通り涼一はすぐに体を離した。夏音は今にも膝から崩れそうなくらいに動揺していた。気まずさのあまり何も言葉が出てこなかった。

「なつ。幸せになれよ」

涼一は静かに言った。

夏音は顔を上げて涼一の顔を見た。涼一の眼がこれまでにないほど潤んでいて、優しく強い光を帯びていた。夏音はその瞳に見つめられると、何故か涙を零してしまいそうになった。微かなサイレンの音が聞こえた。その音が聞こえなくなるまで二人は見つめ合ったまま動かなかった。サイレンの音が聞こえなくなると、涼一は何も言うことなく、夏音に背を向けて歩き出した。そして、一度も振り返ることもなく暗闇の中へ消えていった。

 涼一の姿が見えなくなっても、夏音は暫くその場に佇んでいた。

 そして間もなく、かくも切なくて恋しい青春によって彩られる運命の花火大会が幕を開ける。



 夏音達の住む浪花では毎年夏に行われる花火大会を観覧するために全国各地から人が訪れる。約8000発もの花火が夜空を彩り、見る者に大きな感動を与える。この日ばかりは、ただの小都市である浪花市も都心部並の混雑さと賑わいを見せる。

 そもそも、浪花と言う地名は、かつてこの地一体に色とりどりの花が美しく咲き誇る花畑があり、その花々が風に揺らめく様子が花の波のように見えたことに由来していた。地元民はその花を大切にして育てた。そして、毎年咲き誇る美しい花々は街に元気と癒しを与えてきた。

 しかある時、悲劇が襲った。煙草の不始末により、花が全焼してしまったのだった。長年地元の人に親しまれてきただけに地元民は大いに嘆き悲しんだ。

 当然、再生を試みたが、その花畑を所有していた不動産会社が倒産してしまい、別の不動産会社に売り飛ばされてしまっていた。土地を買った不動産会社は浪花の都市化計画を狙い、花畑を復活させることは無かった。地元住民は大反対したが、財政の悪化と県からの抑制により市民の声は封殺された。こうして、あの美しい花畑が復活する道は閉ざされてしまった。

 幸いにも開発は見事に成功し、いつしか浪花市は人口も増えて大きな活気に包まれていった。長年街の人々の支えとして愛されてきた花々をただ失ったままにするのは寂しすぎるとして、火事で失った花々に祈りを捧げる意味を込めて花火を打ち上げる慣習を作った。市民は鎮魂歌ならぬ鎮魂花として小規模な花火大会を花が燃えてしまった日に開催した。それが浪花花火大会の始まりだった。

 小規模だった花火大会はバブルを機に一気に豪華さを増した。その豪華さと花に祈りを込めていると言う珍しい理由からマスコミからの注目も集め、夜空に咲き誇る浪花の魂というキャッチコピーを作り市はおろか県も助成して盛り上げるほどの花火大会となった。かつて、この街の誇りでもあった花々を今度は夜空に咲かせる事が出来るとなった市民の気合の入れ方は尋常では無かった。こうして浪花花火大会の豪華さは増していき、今や全国でも指折りの花火大会としてその名を全国に轟かせた。



午後3時ともなると、電車は人で溢れかえっていた。浪花駅で降りた茜は揉みくちゃにされながら、改札の外へ出た。電車の中で、せっかく着た浴衣もセットした髪をくしゃくしゃにされたので、茜は少し不機嫌だった。毎年の混雑振りは身をもって知っているとは言え、こんな早くからここまで混むのは予想外だった。今年は花火大会50周年記念と言うこともあり、花火の前に行われるイベントに有名アーティストを呼んでいたから、その影響だろうと思った。花火まで後四時間以上もあるのに、今からこの大混雑では花火の場所取りの確保に苦労するのは目に見えていた。見渡す限り人しか居なかったが、祐介は割と簡単に見つかった。こうゆう時、背が高い人間と付き合ってると日本では見つけやすくて助かると思った。茜は急いで乱れた髪を整え浴衣のシワを伸ばした。

 「祐介」

 茜が声をかけると祐介はゆっくりとスマホから顔を上げた。

 「ごめん、待った?」

 「いーや。全然」

 祐介は気の抜けた声で答えた。そして、茜をジッと見つめた。

 「な、何よ?」

 「可愛いじゃん」

 「えっ?」

 「その浴衣。可愛いし、すげぇ似合ってる」

 「あ、ありがとう」

 茜はド直球の言葉に思わず照れた。数多のトラブルを発生させてきた祐介の思ったことを素直に口に出してしまう性格はこうゆう状況にとっては絶大な効果を発揮した。浴衣のことで褒められても気にしないと思っていた茜だったが、やはりこうして、素直に言われると嬉しかった。祐介のこの一言により茜の不機嫌さは綺麗サッパリ消えていた。

 「喉乾いたし、早く行こうぜ」

 「うん」

 二人はあしゅまろに向かうべく、手を繋いで大いに賑わってる商店街の方とは真逆に歩き出した。

 「ああ。茜ちゃん。祐介君。いらっしゃい」

 陽二がいつものようににこやかに出迎えた。祭りに合わせたのか、いつものエプロン姿ではなく、甚平を着ていた。これがまた似合っていた。

 「あー茜ちゃんじゃない」

 茜に気付いたかなえが嬉しそうにやって来て茜を抱き締めた。

 「茜ちゃん。いつもに増して可愛いわ。浴衣も凄い似合ってるし、やっぱり私なんかとは大違いね」

 そう言うかなえの着物姿はさながら高級旅館の女将のような上品な佇まいを醸し出していた。

 「そんな。かなえさんこそ素敵過ぎて感動します」

 茜はお世辞ではなく本気で言った。

 「相変わらず人を持ち上げるのが上手なんだから。さ、こっちに座って」

 かなえは嬉しそうに二人を席に案内した。

 店内はほぼ満員で従業員は忙しなく働いていた。従業員の中に沙織の姿を見つけた。沙織もまた店から貸し出された浴衣を着ていたが、もはや似合うという次元を越えていて、どこかの雑誌モデルかと思っても不思議ではないくらいのクオリティだった。店にいる男性客のほとんどが沙織目当てなのは間違いないと思った。もっとも、どの男も大したこともなくナンパが成功するとは到底思えなかった。案の定、早速沙織に声をかけた男がいたが、全く相手にされなかった。

 「沙織さん。今日も綺麗だな」

 祐介がそう言った途端に茜はキッと睨んだ。

 「健吾君と夏音さんは今頃どうしてるかな」

 祐介が取り繕うように言った。

 「二人とも祭りどころじゃなさそうね」

 「あの二人が付き合ったら落ち込む女子と男子が凄そうだな」

 「それにしても涼一が居ないわね。てっきり、働いてると思ったんだけど」

 店内を見渡す限り涼一の姿は見当たらなかった。お店がひと段落した時を見計らって茜は手を挙げて沙織を呼んだ。注文と同時に涼一のことを聞いてみようと思った。

 「茜ちゃん。いらっしゃい」

 沙織は微笑んだ。

 「沙織さん、大変ですね。さっきからナンパされまくってるじゃないですか」

 「ほんと困ったものだわ。私なんか誘ってもつまらないだけなのに」

 沙織は少し困った顔をした。その表情は女の茜でも惚れてしまいそうなくらい可愛いかった。案の定、祐介はだらしなく沙織を見つめていた。茜はそんな祐介に殺気を込めた睨みを利かせた。祐介は慌てて顔を下に向けた。

 「涼一は居ないんですか?居れば、番犬みたいに役立つと思うんですけど」

茜の物言いに沙織は手に持っていたお盆で口元を隠して笑った。沙織が自分の言ったことで笑ってくれたことに茜はなんだが嬉しくなった。

 「可笑しかった。茜ちゃんは涼一君から聞いてないの?」

 「何をですか?」

 「そう。誰にも言ってないのね」

 沙織は悲しげな表情を見せた。

 「もしかして、辞めたんですか?」

 茜がそう言うと、沙織はゆっくりと頷いた。茜と祐介は驚いて顔を見合わせた。

 「そんな・・・・・・」

 「理由は茜ちゃんも分かるでしょ?」

 茜は沙織が涼一のアメリカ行きを指すものだと分かった。祐介は一人話しが見えずポカンとしていた。

 「どこにいるか知ってますか?」

 「ううん。でも、花火を見るとは言ってたわ」

 「そうですか」

 「夏音ちゃんは知ってるのかしら?」

 「いいえ。何も知らないんです」

 今度は沙織が驚いた顔をした。

 「おい、ちょっとさっきから何の話しをしてるんだよ?」

 さすがの祐介も口を挟まずにはいられなかった。

 「後で話すからちょっと黙ってて。沙織さん。もし涼一がここに来たら、どこに行くか聞いておいてもらえますか?そして、私にも教えてください」

 「ええ良いわよ。じゃぁ、茜ちゃんの連絡先を教えてくれる?」

 沙織はボールペンを茜に渡した。茜はナプキンに自分の連絡先を書いて沙織に渡した。

 「ありがとう。夏音ちゃんには内緒にしておいた方がいい?」

 「はい。夏音は夏音で今日はとても大事な日になるので、今日は知らない方が良いと思います」

 「分かったわ。でも、本当にこのままでいいのかしらね」

 沙織は一人呟やき、茜達の席から離れた。

 茜も沙織と同じことを思っていた。夏音が健吾と付き合ったとしても、涼一のアメリカ行きを聞いた時の反応は親友の茜にも読めなかった。

 その後、祐介に事の顛末を全て話した。祐介はしきりに驚いて目をしばたかせていた。

 「そうか。だから、涼一さん旅行ケースの店にいたのか」

 「どうゆうこと?」

 「この前、合宿用に旅行ケースを買いに行った時に、涼一さんも偶然居たんだよ。挨拶したら、やたら動揺してたから、変だと思ってたんだよな」

 「アメリカ行き用のカバンを探してた所を祐介に見つかったから、動揺したってわけね」

 「多分そうだと思う。俺の口から茜に伝わってそれが夏音さんに伝わったらめんどくさいと思ったんだろうな。まぁ俺はすっかり忘れてたけど」

 「さすがに、そんな話しを聞いたら、鈍感な夏音でも疑うでしょうね」

 「でも、夏音さんにだけ黙ってるって可哀想じゃないか?」

 「可哀想だけど、私達の口からは言えないでしょ。夏音だって涼一本人の口から聞かない限り信じたりしないわ」

 「はあーあ。涼一さんいなくなっちゃうのか。寂しくなるな」

 「そうね。やっぱりあの男が居ないって思うとつまんない」

 「大学卒業してからでも遅くはないと思うんだけどな」

 「私もそう涼一に言ったわ。そしたら、藤沢と夏音が付き合うの上で、一番の邪魔は俺だから、ささっと消えるのが二人の為だからだって」

 「ほんと、涼一さんは夏音さんのことが好きなんだな。マジで尊敬するわ」

 「後、アメリカの暮らしにいち早く慣れたいから、早目に行くそうよ」

 「涼一さんなら、どの国に行っても問題ないでしょ。アメリカの女も寄ってたかるだろうな」

祐介がケラケラ笑いながら言った。

 「そうね。まぁ、一ミリも興味を示さないでしょうけど」

 「涼一さんが土壇場で意見を覆すとかないかな?」

 「一つだけあるわ」

 「マジ?」

 「うん。でも、だからと言って私達がどうすることもできないけど」

 「なんだよ」

 「夏音が引き留めることよ」

 「でも、夏音さんは何も知らないんだろ?」

 「そうよ。だから、藤沢次第になるわ」

 「健吾君も知ってるのか?」

 「えりかが話したそうよ」

 「でも、健吾君は夏音さんのこと好きだろ?話したら、せっかくここまできたのに水の泡になるだけじゃ」

 「だから、どうすることもできないって言ってるでしょ。仮に藤沢が話さずに夏音に告白して上手くいっても誰も責めることはできないわ」

 「全ては健吾君の判断に任されたってわけか」

 祐介は背もたれに体重を預けた。

 

 花火大会の時間も近付いてきたので、茜と祐介は席を確保するためにあしゅまろを出ようと会計を済ませた。あしゅまろもすっかり空席が目立っていた。

 「マスター達も花火大会観に行くんですとね?」

 「うん。せっかくの優先席券もあるからね。そうだ、涼ちゃんから茜ちゃん達にって渡すものがあったんだ。はいこれ」

 「これ観覧優先席券じゃないですか」

 「なにそれ?」

 祐介が質問したので、陽二が答えた。

 「この花火大会が盛況になってきてから、一部の地元住民からは人が多すぎて花火が落ち着いて見られないと言う苦情も増えてきたんだ。そこで市は範囲を決めて地元住民用の観覧席を設けたんだよ。涼ちゃんやなっちゃんはその範囲内で暮らしてるから、その優先券を貰ったんだけそ、昨日、突然店に来て茜ちゃん達に渡してくれって託されたんだ」

 「涼一は花火も見ないつもりですか?」

 「いや、花火は観るって言ってたよ」

 「どこで観るんですか?」

 「僕も知らないんだ」

 「そうですか・・・・・・」

 「これは涼ちゃんから茜ちゃん達へのささやかなプレゼントだから、受け取ってあげて」

 茜は差し出された紙を受け取った。

 「茜。ここまで来たら、涼一さんの代わりに目一杯花火を楽しもうぜ。正直、俺達がこれ以上悩んでもどうしようもないしさ」

 「僕も祐介君の言う通りだと思う。あとはなるようになるさ」

 茜は顔を上げて二人に強く頷いた。

 「そうだね。ありがとう祐介」

 「さ、二人とも楽しんでらっしゃい」

 陽二は茜達と一緒に外に出て、その姿が見えなくなるまで見送った。



  17時に集合した夏音と健吾は露店などを一通り見て回った後は休憩スペースで座っていた。あしゅまろにいくという案も出たのだが、茜達と出くわすのが気まずくて、その案は却下された。

 夏音は最初に会った時から、健吾の様子が変だと気付いた。会話をしていてもどこか心ここにあらずと言った状態でいつもの快活さがどこかにいってしまっていた。今も露店で買ったラムネをほとんど口につけないままばんやりと人の流れを眺めていた。ただ、そのことを気遣う余裕は夏音には無かった。夏音自身も似たような精神状態であり、健吾からの大事な話しの事で頭が一杯だった。お互い無口な時間が続いたが、特に居心地の悪さを感じたりはしなかった。

 「ん?あれ?」

 健吾が何かを見つけたようだった。

 「どうしたの?」

 「あそこにいるのは永瀬じゃないか?」

 健吾が指を指した。

 夏音が指された方に目をやると、洸太と手を繋いでこちらに歩いて向かってくるえりかが見えた。

 「おーい」

 健吾が大きく手を振った。それに気付いたえりかが笑顔で振り返した。えりかは隣にいた男の人に声を掛けると洸太を置いて二人の元にやってきた。夏音は少し気恥ずかしかった。

 「まさかこんな所で二人に会うなんてね」

 「俺らもびっくりしたよ」

 「せっかくのお祭りなのに、こんな所で何してるの?」

 「少し歩き疲れたから休憩だよ」

 「そう」

 「それより、今日はあしゅまろに行った?」

 「いいえ。何で?」

 「いや、何でもない」

 「変なの。河口さんは行ったんじゃないの?」

 「いや、私も今日は行ってないよ」

 本当は行こうと思っっていたのだが、あの日以来涼一と顔を合わせるのが気まずくてあしゅまろには足を運んでいなかった。今日も働いているはずだと思い、行くのを躊躇っていた。

 「あら、そうなの。じゃぁ、立花君があしゅまろを辞めたことは知ってるのね」

 「え?」

 「嘘。知らなかったの?」

 えりかはまずいと言った顔をした。

 「どうゆうこと?涼があしゅまろを辞めたの?どうして?」

 夏音は頭が混乱し始めた。

 「えっと、その・・・・・・」

 えりかはチラッと健吾を見た。

 健吾は意を決した表情で夏音に話しかけた。

 「河口」

 夏音は健吾を見た。その顔は夏音が今までに見たことないくらいの真剣な表情をしていた。

 「藤沢君・・・・・・」

 「俺が河口に話そうと思っていた、大事な話しとは立花のことなんだ」

 「涼の・・・・・・」

 夏音はますます混乱した。

 「藤沢君。あなたまさか・・・・・・」

 えりかが驚きに満ちた顔をした。健吾はえりかを見て力強く頷いた。

 「でも・・・・・・藤沢君。それで良いの?」

 「何も言うな永瀬。俺が決めたことだ」

 「二人とも何の話しをしてるの?藤沢君。涼のことって何?」

 「ここでは話せない。場所を変えるからついてきて」

 「わ、分かった」

 二人はえりかを残して場所を移動した。えりかそんな二人に背中を心配そうに見つめていた。

 

 健吾が連れてきたのは、小さな神社だった。先ほどまでとはうって変わって人の気配が無かった。

 「藤沢君。さっきに話しは・・・・・・」

 夏音はすぐに促した。

 「その前に伝えておきたいことがある」

 「何?」

 「俺は河口のことが好きだ」

 思いもよらない告白に夏音は戸惑った。

 「俺は河口と付き合いたい。でも、これから話すことを聞いた上で返事がほしい」

 夏音は唾を飲み込んだ。健吾はこれまでの経緯を全て話した。

 「どうして。どうして涼一はそんなことをしたの?」

 話しを聞き終えた夏音はひたすら混乱するばかりだった。

 「立花は・・・・・・アメリカに旅立つんだ」

 夏音の顔から表情が消えた。衝撃のあまり一瞬頭が真っ白になった。

 「い、今なんて?」

かろうじて出た言葉だった。

 「立花はこの夏休みが終わる前にアメリカに行くんだ。だから、あしゅまろを辞めたのもそのためだ。アメリカに旅立つから立花は俺に協力をしてくれていた。でも、それは俺のためにじゃない。全て河口のために」

 「う、嘘よ。そんなの・・・・・・だって、私・・・・・・何も聞いてないよ」

 「嘘じゃない」

 健吾は沈んだ声で言った。

 「どうして?今まで私に黙ってたの?」

 「本当は皆言いたかった。でも、立花に口止めされてたから、言えなかったんだ」

 「皆ってことは茜も知ってるの?」

 「知ってる」

 夏音は茜の最近の妙な態度が何なのか分かった。

 涼一が夏休みで自分の前からいなくなる。その事を考えたら恐ろしくなった。何よりそんなのは絶対に嫌だった。その瞬間、涼一がいかに自分にとって大切な存在だったのか思い知らされた。もはやここにいることは出来なかった。夏音は涼一を探しに行きたかった。でも、健吾をこのまま放置することが出来なかった。

 「立花の所へ行きたいんだろ?」

 夏音は目を伏せた。

 「行って」

 夏音が目線を上げると、健吾が夏音をジッと見つめていた。その目は優しい光を帯びていた。同じ目をつい最近どこかで見たことがあると思った。

 「河口。幸せになれよ」

 夏音は震える唇をギュッと噛んだ。そして、言葉なく背を向けた。一度も振り返ることなく健吾の前から消え去った。



 涼一を探し始めた夏音はあしゅまろに向かった。あしゅまろはクローズの看板をかけていたが構わず入った。店内の掃除をしていた陽二は夏音を見て驚いた。

 「なっちゃん」

 「涼は・・・・・・涼はどこにいるんですか?」

 「涼ちゃん?涼ちゃんを探してるのかい?」

 「お願いです。早く教えて下さい」

 夏音は陽二に詰め寄った。

 夏音の取り乱した姿を見た陽二は瞬時に何があったのかを察した。

 「そうか・・・・・・知ったんだね」

 「はい。それで涼はどこに?」

 「残念だけど。僕も分からないんだ」

 「そう・・・・・・ですか」

夏音は落胆した。

 「花火を観るとは言ってたから、会場にいるかもしれないよ」

 夏音はすぐに駆けだそうとした。

 「なっちゃん」

 陽二が呼び止めた。

 「はい?」

 「後悔はしてないんだね?」

 夏音は陽二のことを見つめた後、力強く頷いた。

 「そうか。必ず涼ちゃんを見つけるんだよ」

 夏音はまたも頷いてあしゅまろを後にした。

 夏音が店をすぐに出た後すぐに二階から服を着替えたかなえが降りてきた。

 「話し声が聞こえたけど、誰か来たの?」

 「なっちゃんがね」

 「嘘。何で?」

 「涼ちゃんを探しに来たんだよ」

 陽二がそう言うと、かなえは寂しそうな顔をした。

 「そっか。涼ちゃんがアメリカに行くことを知ったのね」

 「あんなに取り乱したなっちゃんは初めてみたよ」

 「でも、涼ちゃんのこと見つけられるかしら。誰もどこにいるのか知らないんでしょ」

 「大丈夫。必ず見つけられるさ」

 陽二は確信に満ちた表情で言い切った。



 会場を探しても涼一の姿は見つからなかった。最初の花火が打ち上がるまで後10分を切っていた。途中ですれ違った高校の同級生に聞いてみたりもしたが、誰一人見かけた者はおらず、夏音は絶望的な気分になってきた。もしかしたら、この会場にいないのではと疑い始めていた。だからと言って、どこにいるのか見当もつかなかった。誰もが楽しそうに歩いている中で夏音一人だけ世界から取り残されたような気持に陥っていた。

 「夏音!」

 夏音が顔を上げると茜が人混みを掻き分けて駆け寄ってきた。

 「茜・・・・・・」

 「一人で何してるの?藤沢は?」

 夏音は下を向いた。

 茜もすぐに事情を察した。まさか健吾が全てを話すとは思っても無かった。

 「もしかして、涼一のこと探してたの?」

 夏音は頷いた。

 「でも、どこにもいないの」

夏音は悲壮な声で言った。

 「隅々まで探したの?」

 「ううん。でも、ここじゃない事に気付いたの。よく考えたら涼はこんな人混みで観たりしないもん」

 「もう一回探せばいるかもしれないじゃない。私も探すの手伝うから・・・・・・」

 「止めて!」

 「夏音」

 「もういいの。もう疲れたよ。藤沢君も振って来たのにバカみたい。涼なんて忘れてしまえば良かった」

 夏音は嗚咽を漏らした。

 「ほんとバカよ・・・・・・こんな所で泣いてるだけなんて」

 「茜に私の気持ちなんて解らないでしょ」

 「そうよ。解らないわよ。解りたくもないわよ。何が忘れれば良かったよ。忘れられないからここにいるんでしょ!」

 茜の言葉が胸に突き刺さった。

 「だから、諦めちゃだめよ。涼一のことが好きなんでしょ」

 茜は夏音の肩を強く掴んで、その目を覗き込んだ。

 「茜」

 夏音は涙を拭った。

 「本当に心当たりないの?涼一のことを一番分かるのは他ならぬ夏音なんだよ。もし、夏音が涼一の立場ならどこで観る?」

 「私だったら・・・・・・」

 夏音はある場所を思い浮かべた。そして、小さい頃の記憶が鮮やかに甦った。小さい頃、涼一と一緒に毎年観てた場所。誰にも邪魔されない二人だけの場所。

 「夏音?」

 「分かったよ」

「涼一がどこにいるか?」

 「うん。あそこで間違いないと思う」

 夏音は確信していた。

 「ありがとう茜。私行くね」

 茜が何か言う前に夏音は駆けだした。茜はその背中を涙ぐみながら見つめた。

 夏音はひたすら走った。振り乱れる髪も滴り落ちる汗も拭うこともせずに今は気にならなかった。それでも涼一の元へと一目散に走った。息が苦しくなって膝をついて下を向いていたら花火の音が夏音の体を揺らした。夏音は顔を上げて空を見上げた。美しい花火が夜空に輝いた。夏音は思わず見とれてしまった。すぐに目的を思い出して、再び走り出した。そして、目的の場所に着いた。夏音は最後の難関である石段を勢いよく登った。



 黄金の花が浪花の空に咲いた。その美しい光景を涼一は独り占めしていた。周りには誰もいない。涼一だけの特等席。そしてそこは夏音にとっても特別な場所。花織神社の小屋は地形的にベストスポットだった。地元住民でもそのことを知っている者はあまりいない。いたとしても優先券が支給されてるので好き好んで来る者は皆無だった。だからこそ、最後になるであろう浪花の花火を一人で静かに鑑賞できるのは涼一にとっては好都合であり、誰にも邪魔をされることなく感傷に浸っていた。

 花火が打ち上がると共に様々な思い出が駆け巡った。そして、どの思い出にも夏音がいた。楽しそうに笑ってる夏音。不機嫌そうに横を向く夏音。どれもありふれた思い出で特別なことなど何もない。しかし、涼一にとってはどれもが恋しくて愛しい思い出だった。夏音に黙ったままアメリカに行くのは何よりも心苦しかった。だけど、離れ離れになる以上お互いがお互いを必要としていてはただ辛いだけだった。

 涼一は着ていたシャツに胸ポケットからしわくちゃの写真を取り出した。そこには涼一と夏音が制服姿で並んで写っていた。中学校の入学式を終えた後に両家族であしゅまろに行ってそこで撮ったものだった。照れ隠しでわざと不貞腐れた表情をする涼一と顔を涼一の方に寄せて目一杯の笑顔を見せる夏音。後にも先にも2ショットを撮ったのはこの一枚だけだった。修学旅行も文化祭も一緒に写っている写真はあるものの全てが他の誰かと一緒だった。この写真は涼一の宝物だった。眩しい笑顔を向けている夏音の顔を指でなぞった。

 「さようなら。なつ」

 涼一が呟いたと同時に花火が打ち上がった。花火の音で気付きにくかったが、微かに砂利を踏む音が聞こえた。涼一は振り返った。人影がこちらにゆっくりと近づいてくる。花火の光で人影が照らされた瞬間涼一の体は硬直した。そこにはここには来るはずがない夏音が立っていた。乱れた髪を直す素振りを見せることもなく、唇を噛み締め今にも泣きだしそうな顔で涼一を見つめていた。涼一はこれまでにないくらい動揺した。

 「なつ・・・・・・どうして・・・・・・」

 夏音は何も答えず、涼一に一歩ずつ近づいた。お互いの顔がハッキリと見えるほどの距離になった。夏音の目には怒り、悲しみ、切なさと言った感情が入り乱れていた。

 「どうして?それは私のセリフだよ」

 夏音の声は震えていた。

 「藤沢は?」

 思わず聞いてしまった。

 「私がここに来た時点で分かるでしょ?」

 涼一は息を詰まらせた。迂闊な質問だったと自分を殴りたくなった。

 「誰かから聞いたのか?」

 「聞いたよ。藤沢君から全てを」

 「なっ・・・・・・」

 涼一は驚愕した。一番予想していなかった人物だった。

 「涼がアメリカに行くって聞かされた時、黙ってた怒りやいなくなる寂しさよりも、涼のいない世界が怖くなった。涼がいつも助けてくれたから今の私はあるんだって気付いたの。そして、やっと自分の本当の気持ちに気付いたよ・・・・・・」

 そこで言葉が途切れてしまった。ついに耐え切れまいと大粒の涙を流しながら、涼一の胸に飛び込んだ。みるみる涼一の胸の辺りを濡らしていった。涼一は夏音を抱き締めた。涼一の目にもまた涙が光っていた。

 「私が本当に好きなのは涼だよ。だから、お願い。まだアメリカに行かないで。お願いだから、もう少しだけ私の側にいて」

 悲痛にも似た叫びだった。

 涼一は答える代わりに夏音を強く抱き締めた。夏音もそれに応じるように涼一の背中に回していた手に力を込めた。

 幾度かの花火が夜空に放たれた。ようやく二人は体を離した。

 「本当に良いのか?黙って消えようとした卑怯な男でも?」

 「うん」

 夏音は涙を拭いながら何度も頷いた。

 「私のことを思って黙ってたんでしょ。卑怯なんかじゃないよ」

 「藤沢には悪いことをしてしまったな」

 「私がいけないの・・・・・・なにもかも中途半端にしたまま放置してたから。結局、藤沢君を傷つける羽目になって、私は最低な女だよ」

 健吾のことを思うと胸が痛んだ。健吾もまた最後の最後まで夏音のことを思って話してくれた。

 「藤沢君はただの一言も恨み言を言わずに送り出してくれたの。むしろ、幸せになれって・・・・・・」

 夏音はまた少し泣いた。

 涼一にはその時の健吾の気持ちが察するには余りあった。そして、健吾の心の強さと清らかさに脱帽した。健吾の気持ちに応える為にも夏音を必ず幸せにしなければと強く誓った。涼一は夏音の頭をグッと胸元に引き寄せた。

 「なつ。俺が幸せになれよって言ったのを覚えてるか?」

 「・・・・・・うん」

 「あれは撤回する」

 「・・・・・・」

 涼一は優しく夏音の体を押し戻し、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

 「俺はお前を幸せにする。生涯を懸けて」

 夏音は一拍置いてから答えた。

 「その言葉信じるよ。生涯を懸けて」

 見つめ合う二人。ふいに花火の光で照らされた影が背伸びをした。二つの顔の影が一つに重なり合った。



 高校を卒業した夏音達は思い思いの春休みを過ごしていた。そして今日、涼一のアメリカへ旅立つ日を迎えた。旅立つ涼一を見送るために夏音は一人成田空港に来ていた。一人で来たのは、涼一が見送りを断ったためだった。しかし、茜とえりかに絶対に行かなければダメと強く背中を押されて涼一には内緒で来ていた。見送る時間までまだ少し時間があったのでカフェで時間を潰すことにした。 

 花火大会の後、決まっていた推薦を破談にした涼一に対して学校側は大激怒した。推薦をくれた大学からも二度と推薦枠は作らないと言う余波も加わり、涼一は二週間の停学処分を受けた。それだけではなく、停学から復帰した後は今までのような自由奔放な態度は一切許されず、もし一度でも重大と認められる校則違反が発覚すれば即座に退学と言う厳しい条件も付けられた。涼一は学校側の対応に反論することなく甘んじて受け入れた。それからと言うものの、涼一はあしゅまろのバイトに復帰することも授業をサボることなく真面目に学校に通った。周囲の反応は言わずもがなで、停学を受けた涼一に白い目を向ける者もいたが、大半は涼一が真面目に授業を受けていることに戸惑っていた。しかし、こうした周囲の反応も二か月も過ぎれば変わっていき、涼一がいることに違和感を抱く者はいなくなった。

 むしろ、大変だったのは茜だった。特に健吾への罪悪感が強く健吾に殴られても仕方ないと酷く落ち込んでしまった。落ち込みようは凄まじくついには学校を辞めるとまで言い出した。夏音と涼一は必死で茜を庇い、その時ばかりはえりかも一緒になって慰めるほどだった。励ましの甲斐があってか次第に茜は元気を取り戻した。それからは四人で最後の高校生活を出来る限り楽しんだ。

 涼一は推薦でのアメリカ行きを諦めたが、アメリカに行くこと自体を諦めたつもりはなかった。涼一としては夏音と同じ大学に行き大学を卒業したら、アメリカに留学するつもりだった。しかし、高校を卒業と同時にアメリカに行くことを押したのは意外にも夏音だった。

 茜はせっかく付き合ったのだから、大学を卒業するまで一緒にいれば良いと言ってくれたのだが、えりかが大反対した。今やすっかり三人の中でも姉御的存在となったえりかは離れるのを先延ばしにすればするほど、後になって離れるのが辛くなる。ここはグッと堪えてアメリカ行きを応援してあげるべきの言葉に夏音は追従した。本音を言えば茜と同じ気持ちだったが、今回はえりかの言う通りだと思った。これ以上自分のワガママで涼一の夢を叶える邪魔をしたくはなかった。

 一方の夏音は涼一の教えのかいもあって有名私立大学に進学することが決まった。最低四年間は涼一と離れ離れになると思うと、寂しいことこの上無かった。涼一だけではない。茜もえりかも別々になる。茜は保育士の専門学校に進み、えりかは国立大学への進学を決めた。夏音にとって茜とえりかはもはや必要不可欠の存在だった。

 そして、もう一人。感謝しなければならない人物がいた。それはもちろん健吾だった。こうして涼一と一緒にいられるのも全ては健吾のお陰であることは間違いなかった。あの日以来、健吾とは疎遠になってしまった。健吾も決して夏音と涼一に絡んでくることはなかった。ただしそれは、二人の仲に嫉妬しているからではなく、あくまでも夏音の事を考えてだと言うことは夏音も涼一も知らない。そして、健吾は最後の最後まで夏音への気持ちを抱えたまま高校生活を終えた。

 この恋で夏音は誓った。これからは自分の気持ちを偽って生きたりはしないと。勿論、綺麗事だけで生きていくのは難しいことは分かってる。せめて、自分の大切にしている人達だけには嘘を吐かずに正直でありたいと思った。誰にも言えないことがあったとしても、涼一になら全てを言える。涼一ならどんなことでも受け入れてくれると信じていた。

 腕時計を見ると、もうじき涼一が空港に到着する時間だった。夏音は店を出て国際線のチェックインカウンターに向かった。辺りを見渡したが、涼一はまだ来ていないようだった。夏音は仕方なく近くのベンチに座って涼一が現れるのを待った。五分も経たない内に涼一が姿を現した。夏音は涼一に近づいて声をかけた。

 「涼」

 涼一は夏音の姿を見ると、優しく微笑んだ。

 「やっぱり来たか」

 「分かってたのね」

 夏音はつまらないと言った表情を見せた。

 「どうせ茜とえりかに言われて来たんだろ」

 「ピンポーン」

 涼一は呆れた顔を見せた。

 「とりあえず、チェックインしてくるから、少し待ってろ」

 涼一はチェックインカウンターに向かい、10分ほどで夏音の所に戻ってきた。

 「見送りはなつだけか」

 「茜とえりかも誘ったんだけど、二人とも同じように呆れた顔して断ってきたよ」

 「まぁ、そりゃ断わるよな」

 涼一は苦笑いを浮かべた。

 「何で見送りを断ったの?」

 「もっと寂しくなるからに決まってるだろ」

 涼一の言葉に夏音はきゅんときた。普段かこういった弱さを見せない涼一だからこそ余計に胸が締め付けられた。

 それから二人はとりとめのない会話を楽しんだ。時間はあっという間に過ぎ去り、別れの時がやってきた。

 夏音はギリギリまで涼一と一緒にいたかったので、保安検査場の手前までついていった。ここを抜けてしまえば涼一と会うことは出来なくなる。夏音は胸に襲い掛かってくる不安や寂しさと必死で格闘していた。

 「涼。浮気しないでね」

 涼一の上着を摘まみながら言った。やはり、遠距離恋愛で一番不安になることは女性関係だった。いくら涼一のことを信頼しているとは言え、不安に思うなと言われる方が無理だった。

 「10年以上もなつに惚れてるんだ。今更、他の女になんて目なんて向くかよ。だから、安心しろ」

 「涼・・・・・・」

 「なつの方こそ押しに弱いんだから気を付けろよ。断れずにろくでもないサークルなんかに入ったら、承知しないからな。何なら、サークル見学の時はえりかも連れていけばいい」

 「本気でそうするかも」

 「もし、何かあったらすぐに連絡しろ。すぐに駆けつけるから」

 「涼の方こそホームシックになったら、いつでも戻ってきていいんだからね」

 涼一は笑った。

 「アメリカには来てくれないのか?」

 「行かない。日本に帰れなくなるから」

 涼一は堪らず夏音を抱き締めた。

 「ごめん。夏音」

 「謝らないで。涼一の夢を叶えるためだもん。寂しいけど、いくらでも我慢できるよ」

 夏音の声は涙声だった。

 「ありがとう」

 「体には気を付けてね」

 「なつ。大好きだよ」

 「私も大好きだよ」

 二人はゆっくりと体を離した。

 「じゃぁ、いってくるよ」

 「いってらっしゃい。着いたら連絡してね」

 「ああ」

 涼一は頷き、名残惜しそうに繋いでた手を離した。

 「待って。涼」

 夏音は涼一を呼び止めた。そして、涼一の頬に手を当てて優しく引き寄せると同時に背伸びをした。二人の唇が優しく触れ合った。涼一は一瞬目を見開いたものの、すぐに目を閉じて夏音のキスを受け入れた。

 涼一と別れた夏音は展望台に来ていた。間もなく、涼一を乗せた飛行機がアメリカに向けて出発しようとしていた。生憎なことに空は分厚い灰色の雲に覆われていた。まるで、飛行機の行く手を阻んでいるようだった。涼一の乗っている飛行機が滑走路を走り大空に向けてその機体を浮かせた。雲へと一直線へと向かう飛行機。その姿は自分の夢を真っ直ぐに追いかける涼一の姿と重なって見えた。

 涼一のように自分も一生を懸けられる夢を見つけなくてはと思った。その為には何事もチャレンジしてみることだと思った。チャレンジすることへの不安があっても、自分には涼一という誰よりも強い味方がいると思うと強くなれた。

 「頑張れ涼一。頑張れ私」

 夏音は小さな声で涼一と自分にエールを送った。

 夢と希望を乗せた白い機体は空高く舞い上がり、その姿を雲の中へと溶け込ませた。その先に待っている眩いばかりの光を求めて。
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