さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
「ほら、金沢の父の実家に戻って、私も今そこで働いているの。今日は父の代わりにここへ」
 久しぶりに会えて感動の方が先立ち、久しぶりとか嬉しいとか短い言葉がこぼれるだけで、それから何を話したらいいかわからなくなる。舞い上がっている光莉を尻目に、彼は仏頂面を浮かべ、ふいっと視線を逸らした。
「――知らないな。人違いしているんじゃないか」
「え?」
「急いでいるので、これで失礼するよ」
「あっ」
 名刺が手から離れ、慌てて掴もうとするものの、彼の足に滑り込み、踏まれてしまう。
 彼は一瞬立ち止まった……かのように見えたが、しかし冷たい一瞥のあと背を向け、さっさと行ってしまった。
 残されたのは、足跡のついた無残な四角の紙だけ――。
 茫然として立ちすくんでいた光莉は人の視線を感じてハッとすると慌てて名刺を拾い上げた。
 人違い? じゃあどうして驚いた顔をしたのだろう。ただ急に声をかけられたからだろうか。あれは、他人の空似だったのだろうか。
 光莉は首を捻った。
 少し遅れて、腹が立ってきた。
 たとえ人違いだったとしても、あの態度はないのではないだろうか。こちらも急に声をかけて申し訳なかったけれど、せめて名刺だけでも交換するとか、少し話を聞いてくれてもよかったのに。
 悶々としている間に、会場にアナウンスの音声が響き渡った。
「えー会場にお集まりの皆様、本日はお忙しい中こうして会場まで足を運んでいただき、誠にありがとうございます。このたび、司会を務めますのは――」
 司会が紹介をはじめるさなか、光莉は先ほどの動揺をなんとか抑えようと、隅の方へ移動した。さっきの彼の態度に傷つき、悶々とした気持ちがどうしても晴れない。
 女性ふたりがひそひそと会話をしているのが聞こえてきた。
「りつきさん、素敵よね」
 りつき、という名前に光莉は耳をそばだてた。
「ほら、あそこ」とひとりの女性が壇上の下手に控えている男性の方へと羨望の眼差しを注ぐ。
 もうひとりの女性も同調し、深く頷いた。
「ええ、本当に」
(りつき……って、ほら、やっぱり夢なんかじゃない)
 急いでいたのは本当だったのだろう。それにしても彼の態度が解せなくて、光莉はもやもやしてしまう。引き続き、彼を目で追っていると、女性たちの噂話が続いて聞こえてきた。
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