さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
「え、あ、あのっ」
 固まっていると、かちりと音がして、律樹は離れていった。どうやらわざわざシートベルトを締めてくれたらしい。
 たしかに意識からは逸れていたけど、言ってくれたら自分でできるのに。
(キス、されるのかと思った。そんなわけないのに)
 頬が熱くて、心臓が騒がしい。さっきの一件でなんだか距離感がバグっている気がする。エンジン音で今すぐこの激しい鼓動をかき消して、急激に上がった体温と心拍数が早く落ち着くようにと祈っていた。
 車は高速道路に入り、東京から山梨方面へ――。
 海沿いの道路を混雑もなくすいすいと行く。やがて緩やかなカーブを辿って山道へと進み、海と山とそして空が限りなく近くに感じられるようになっていく。
 しばらくすると、紅葉している山々が視界一面に飛び込んできて、光莉は思わず窓に手をついて外を見た。
「到着したら、ロープウェイで上を目指してみないか? 美味しい甘味処もあるらしいんだ」
「いいね。楽しそう!」
 光莉は即座に頷いた。
 大邸宅でありながら閉塞的な空間である常盤家に入ってから、こんなふうに自然を感じたことはなかった。
 ロープウェイで変わりゆく景色を眺めて感動したあと、山の神社や散歩道をのんびり歩きその帰りに約束どおりに甘味処に入り、白玉とクリームがたっぷり乗ったあんみつと、みたらし団子を頼んでふたりでベンチに並んで食べた。何だか学生時代に戻った気分だった。光莉が頬を綻ばせて美味しいと声を出すと、律樹も楽しそうに笑ってくれた。
 開放的な気分を味わったあと、光莉は陽が傾いていくのを眺めながら名残惜しい気持ちになっていくことに気付く。常盤家に戻るのが辛いというのではなく、律樹と過ごす時間がそれほど楽しかったからだった。
「お礼を言わなくちゃいけないのは、私の方だったよね。きっと律樹さんだって色々忙しいのに……ありがとう」
「光莉」
「うん?」
「いや、なんでもない」
 律樹はときどき 何かを言いかけては途中でやめてしまうことがある。彼の立場上、線引きをしなくてはならない部分なのかもしれない。そんなふうに推しはかることしか光莉にはできない。今の律樹のすべてを光莉が理解することはできないのだ。
 けれどせめて、一部だけでも繋がっていたい。たとえそれが紙切れ一枚で繋がっている細くて脆い絆だとしても――。
 
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