ピースな私と嘘つきなヒツジ
平日とはいえ午前中は沢山の患者でごった返している総合病院も、千夏たちが到着するころにはようやく静けさを取り戻していた。
凪はエントランスの車寄せに車を滑り込ませると、『すぐ行くから。』と短く言い残し、千夏を降ろして駐車場へと向かった。

自動ドアが静かに開く。冷たい空気と消毒液の匂いが鼻をかすめる中、千夏は迷うことなく正面の総合案内へと足を速めた。出産のとき、何度もこの病院を訪れた。そのせいか、廊下の曲がり角やエレベーターの位置までも、体が覚えている。

「すみません……『さわやか保育園』から救急車で娘がこちらに運ばれたと聞いたのですが……。」

声が震えた。息を整える余裕もなく、必死で言葉を紡ぐ。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔は、涙をこらえきれない母親のそれだった。

「確認いたしますので、少々お待ちくださいね。」

カウンターの奥にいた女性スタッフが、落ち着いた声でそう告げ、手元の電話機に指を滑らせる。

──千夏の胸の鼓動は、ますます速くなっていった。

「救急外来の処置室にいるようです。救急受付というカウンターがあり、そこにスタッフがいますので、同じように尋ねてみてください。青いラインに沿って進むと、すぐにわかると思います。」

受話器を置いた職員が、簡潔にそう説明した。

「救急受付ですね。ありがとうございます。」

千夏は小さく頭を下げると、足元の床に引かれた青いラインを見つめた。その線は、まるで彼女を導くように病院の奥へと続いている。胸の奥でざわつく不安を押し込めながら、千夏はその青い道をたどった。

一般外来が終わった院内は、ところどころ照明が落とされて薄暗い。壁際に灯る非常口の緑色の明かりが、妙に冷たく、不気味に感じられた。
やがて、救急受付のカウンターにだけ白く光る蛍光灯が見えてきたとき、千夏はようやく息をつくように胸をなでおろした。

「市島澪の母です。『さわやか保育園』からこちらに運ばれたと連絡がありまして……。」

カウンターの奥で書類に目を落としていた男性スタッフに声をかける。
彼は顔を上げ、わずかに眉を寄せてから柔らかく頷いた。

「ああ……はいはい。少々お待ちください。あちらにおかけになってお待ちいただけますか。」

手のひらで背後のソファを示し、男性は立ち上がると
背後の淡い黄色のカーテンをくぐって奥の部屋へと消えた。

ソファに座る気にはなれずそのままカウンター前に立っているが、時間だけが静かに過ぎていく。
澪の容体が分からないまま、千夏の胸には焦りが広がっていった。
どうして誰も何も教えてくれないのだろう。
そんな思いを押し殺して座っていると、先ほどの男性がカーテンをくぐって戻ってきた。
だが、千夏の視線に気づくと、彼は申し訳なさそうに「少々お待ちください」とだけ言い残し、また書類の山へと戻っていった。

やがて──

「市島さん、こちらへどうぞ。」

受付の奥の廊下から、紺色のスクラブを着た若い女性看護師が顔を出した。
スライドドアの先にある壁には『処置室2』と書かれたプレートが光っている。
中に入ると、丸椅子に腰かけていた保育園の先生が慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。

「ママー!」

その声に、千夏の体が反射的に動いた。
ベッドの上には、小さな体をシーツに包んだ澪が、
付き添っていた保育士と声を抑えながら手遊びをしていた。頬はやや赤く、目は少し潤んでいるが、意識ははっきりしているようだ。

「澪ちゃんのお母さん、このたびはご心配をおかけしてすみません。もう少し早く発熱に気づいていれば……。」

保育士は申し訳なさそうに言葉を絞り出した。

「そんな、先生のせいではありません。朝は熱もなく、機嫌もよかったんです。風邪のような様子もなくて……。」

千夏は首を振りながら答えた。
その声の震えに、自分でも気づく。

保育士から保育園での出来事だったため、園で加入している保険の対応や事務手続きはすでに済ませてあるという説明を受ける。

その言葉を聞いて、千夏はようやく肩の力を少し抜いた。そのとき、処置室のドアが音もなく開き、白衣をまとった担当医が姿を見せた。

「お母さんですね。簡単に説明すると大きな問題はありません。お子さんは大丈夫です。」

医師から『大丈夫』と言う言葉を聞いて一気に千夏の体の緊張が解ける。

「今は薬で熱が下がっていますが、今夜また高くなるようであれば、解熱剤を使ってください。
このまま数日続くようでしたら、小児科を受診してくださいね。それから――」

穏やかな声で、医師は淡々と説明を続けていく。
服薬の時間、食事の注意、今後の様子の見方……。
千夏はうなずきながらも、その言葉の一つひとつが遠くに響いていくように感じた。

視線の先では、澪が小さな手を動かし、保育士の指をつかんで笑っている。
その笑顔が見えるたび、胸の奥に溜まっていた緊張がゆっくりとほどけていった。

医師の声はまだ続いていたが、千夏の目には、もう澪の笑顔しか映っていなかった。

医師の説明がひととおり終わると、付き添っていた保育士が立ち上がった。

「園に報告して、そのまま戻りますね。」

丁寧に頭を下げ、足早に処置室を後にする。

その背中を見送りながら、千夏も澪の身の回りを整え、
タオルや水筒を手提げにしまい込むと、そっと娘を抱き上げた。
澪の体温がまだ少し高いのか、頬が火照っている。
小さな腕が千夏の首に回り、ぎゅっと力をこめた。

スライドドアを静かに閉めて顔を前に向けると、
待合のソファの前に立つひとりの男の姿が目に入った。
さっきまで誰も座っていなかったはずの場所。
そこに、凪が立っていた。

駐車場に車を停めたものの、千夏と連絡が取れず、ひとまずこの場所で待っていたのだろう。

「……凪。」

声をかけると、彼は小さく息をのんだ。

「千夏さん、大丈──」

凪の動きが止まる。

彼の視線は、千夏の腕の中の少女へと吸い寄せられていた。

「ママぁ? このおじさん、だれ?」

澪が首をひねり、くりくりとした瞳で凪を見上げながら指をさす。その無邪気な声が、廊下の静けさの中でやけに響いた。

凪の表情が固まったまま、ほんの少しだけ青ざめた。

「千夏さん……どういうこと?」

低く、かすれた声が漏れる。

「千夏さんの娘……俺の子どものころに、そっくりなんだけど……。」

言葉を失ったまま、凪の脳裏にはいくつもの古い写真がよみがえっていた。
実家のアルバムに眠る、四歳の自分。
泥だらけの顔で笑う少年の写真。
その笑みと、目の前の少女の笑みが、まるで重なって見えた。
< 26 / 28 >

この作品をシェア

pagetop