ピースな私と嘘つきなヒツジ
PCの電源を落とすことも忘れ、千夏は貴重品だけをつかむと、凪が待つエレベーターホールへ小走りで向かった。
頭の中では、先ほど保育士から電話で聞いた言葉が何度も繰り返される。

――外遊びの途中で突然倒れて、痙攣を起こした。
――体温は四十度を超えていた。
――おそらく熱性痙攣だろう、と。

『熱性痙攣』と言われても、どこか遠い世界の話のようで、実感が湧かなかった。
幼い子どもによくあると聞いたことはある。けれど、澪が――自分の娘が――そんな状態になったのは初めてだった。
心のどこかで、「大丈夫だ」と自分に言い聞かせながらも、手のひらの汗が止まらない。

「お待たせ。」

息を整えながら駆け寄ると、凪はすでにエレベーターのボタンを押して待っていた。
到着の電子音が響く。
開いた扉の向こうへ、2人は言葉もなく乗り込み、静かに地下の駐車場へと降りていった。

偶然にもノンストップで下降する金属の箱の中、わずかに反響する機械音だけが、やけに大きく聞こえた。

地下駐車場の照明が無機質に照り返す中、シルバーのボディが静かに光を返していた。
コンクリートの冷たい空気の中で、ロック解除のランプがひとつ、淡く点滅する。
その光に照らされた車は、まるで現実から切り離された別世界の存在のように佇んでいた。

凪は無言のまま助手席のドアを開け、千夏を促す。
彼女が乗り込むと、軽くドアが閉まる音が響き、外のざらついた世界が遮断された。
凪は運転席に回り、腰を下ろしてブレーキを踏む。

途端に、モニターが柔らかく光を帯び、
室内はほのかな青い光に包まれた。
無機質なはずのその光は、どこか温かく、
静かに呼吸をする生き物のように感じられる。

「シートベルトした?」
「えっ? あ、ううん、今つける。」

千夏が慌ててベルトを引くと、凪は目線を前に向けたまま、落ち着いた声で尋ねた。

「病院はどこに向かえばいいの?」

「えっと……南山総合病院。」

凪は短くうなずき、手際よくナビを操作する。
タッチパネルに青白いラインが浮かび、その先に導かれるように、車は静かに滑り出した。

エンジン音はしない。
ただ、タイヤがコンクリートの床を撫でるかすかな音だけが、密閉された空間の中に広がっていく。

「これ……電気自動車?」

「……そうだけど。」

短いやり取りのあと、再び沈黙が落ちる。

「ここからだと、到着予定時刻は二十分後。渋滞もないみたいだから、このまま行けば予定通り着くよ。」

凪の落ち着いた声が、静かな車内に響いた。
千夏は思わず顔を上げる。

「そんなに早く……ありがとう。」

職場から公共交通機関を使えば、南山総合病院までおよそ一時間。
それが、凪が車で来てくれていたおかげで、
思っていたよりずっと早く澪のもとへ行ける――そのことが、胸の奥で少しだけ緊張をほどいた。

窓の外では、昼下がりの陽射しが街を照らし、信号待ちの車の屋根に銀色の光が跳ねている。
一方で、千夏の胸の中では、時間だけが早送りのように急かしていた。
それでも、凪の穏やかな声と一定の速度で進む車の感覚が、かろうじて現実をつなぎとめていた。

「名字、変わってないから、独身なんだと思ったよ」

「……えっ?」

 千夏の頭の中は、まだ澪のことでいっぱいだった。凪の言葉がうまく飲み込めず、思わず前方を見つめる凪を見た。運転席の凪は不機嫌に眉を寄せ、まっすぐ前を見つめたまま続けた。

「子どもがいるってことは、結婚してたんだね。だから……俺とは結婚できない、だろ?」

「……結婚はしてない。」

「はっ?」

 信じられないというように、凪が目を大きく見開く。沈黙が一瞬、車内の空気を凍らせた。
 そのとき、後ろの車が短くクラクションを鳴らす。青信号に気づいた凪は、慌ててアクセルを踏んだ。

 電気自動車は静かに滑り出す。モーターのわずかな唸りとタイヤが路面をなぞる音だけが、二人の間に流れた。
 千夏は俯いたまま、言葉を探すように唇を結ぶ。
 沈黙の中、車内の静けさが、かえって胸の奥を締めつけていった。
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