ピースな私と嘘つきなヒツジ
店を出た途端、千夏のヒールがせわしなく石畳を打ち、胸の動揺に追い立てられるように足が速まっていく。

(凪ちゃん、メモを渡すだけで何も聞いてこなかった…。どこまで知ってるんだろう?今日、お店に入った瞬間から全て知ってての対応だったとか?泉くんから話を聞いて、凪ちゃんに私の事、軽い女って思われていたら最悪!せっかく仲良くなれたのに!)

デスクに戻りパソコンのキーボードに手を置くも、ポケットに入れたメモを思い出しては頭から離れない。電話をかけたくはない、けれど避けられない。そんな思いに囚われて、午後の時間は空回りばかり。書類は積まれたまま動かず、気づけば一つも片づかぬまま定時を迎えていた。

残業しても集中できないのは目に見えていた。そこで早めに帰宅し、ひとり暮らしの小さなキッチンに立って、気まぐれに少し凝った料理を作ってみる。けれど、立ちのぼる湯気とは裏腹に、気持ちは沈んだまま動かなかった。

(やっぱり電話しなくちゃだめだよね…。)

せっかく少し凝った料理を作ったのに、味わう間もなく食べ終えて、凝ってしまったが為に作りすぎてしまい食べきれなかった料理をタッパーに詰め、食器の片付けも済ませ、お風呂にも入った。やるべきことはすべて終わり、あとは泉に連絡するだけだ。けれども、まだその一歩を踏み出すことをためらっている。

(電話して…何を話せばいいんだろう。
「ごめんなさい、迷惑かけちゃって」――そう切り出すべきなのかな。
でも、そんな言葉で済ませてしまうのも違う気がする。
大人同士なんだから、「一夜の過ちだったってことで、なかったことにしましょう」って割り切るべきなのかもしれない。
…でも、そんな軽い言い方をして、本当にいいのかな。
泉くんはきっとモテる人だし、ああいうことにも慣れているのかもしれない。
だからこそ、余計に私だけがこんなに引きずっているのが、情けなく思えて仕方ない。)

ベッドの上で正座し、スマホに泉の番号を入力したまま固まっていた。通話ボタンに指を伸ばすたびに、心臓が大きく跳ね、ため息だけがこぼれる。頭の中で何度も会話をシミュレーションしても、理想の言葉は一つも見つからない。
「押す」「やめる」を繰り返すうち、汗ばんだ指先がふいに画面をかすめ――通話通話画面に切り替わった。
瞬間、胸の奥で鼓動が爆発するように鳴り響いた

「…もしもし?」

(あっ、かかっちゃった!!)

「あの、凪さんからメモをいただきまして…」

「もしかして、千夏さん?」

(うっ…声が、良すぎる…!)

耳元に届く声の響きに、思わず鳥肌が立つ。
手のひらがじんわりと汗ばんで、スマホを握る指が震えそうだ。

「そ、そうです。こ、こないだはご迷惑をおかけしました…!!」

(お詫びの言葉は伝えた!…これで電話を切ってしまいたい…!)

「…千夏さん、俺、死にそぉ…」

「えっ?どういうこと?」

「腹減った。うちに来て、何か作ってよ。」

「ご飯くらいご自分でなんとか…!お風呂に入ったばかりで、今スッピンだから無理です!」

「今すぐ来てくれないなら、凪にあの夜のこと、バラすよ」

胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
どうやら泉は、凪にはあの夜のことを話していないらしい。少しだけ、心の中で安堵がこぼれるけれど――焦りと緊張で、息はまだ荒いままだった。

「そっ、それって脅迫ですか?」

『違うよ。千夏さんに今すぐ会うための口実。会いたいから来てよ。じゃないと千夏さんにヤリ逃げされたって凪に言うよ。』

「なっ…なんてことを!とりあえず、今から…向います…。」

愛しの凪ちゃんにネガティブな印象を持たれたくない――そんな思いが、千夏をすぐに立ち上がらせた。

『うん、待ってる』

短く言ったそのあと泉はすぐに電話を切った。スマホからはツーツーという通話終了の音だけが残る。
NAGIそっくりな声で「待ってる」と言われた瞬間、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
千夏は通話を終えると、慌てて鏡の前に立ち、メイクを手早くやり直す。
夕飯の残りを保冷バッグに詰め込み、ドアを開けて外に踏み出した瞬間、心臓が小さく高鳴る。

(まったく…声だけは本当に良いんだから!)

足取りは焦り混じりながらも、どこか期待に震えていた。夜の街を抜け、泉の家へ向かう道のりが、これまでになく長く感じられた。
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