ピースな私と嘘つきなヒツジ
泉の部屋で迎える2度目の朝は頭痛はないが、何度も求められたので喉がカラカラな事には変わり無かった。スズメは鳴いていないがカーテンの隙間から刺す日差しで目が覚めた。1度目の朝と同じようにしっかりと抱きしめられている。

 ――やばい。すっかり寝過ごした。

 ベッド脇のサイドテーブルに置かれたデジタル時計は、すでに七時を回っていた。

 千夏の心臓が一気に跳ね上がる。

(今から家に帰って着替えてたら、確実に遅刻しちゃう……! でも、泊まるつもりなんてなかったから、昨日はラフな格好で来ちゃったし。このままじゃ職場に行けない――。)

 頭の中で計算が弾ける。駅まで全力で走るか。それともアプリでタクシーを呼んだほうが早いか。

 ――考えている暇なんてない。とにかく動かなきゃ。

 千夏が慌ててベッドから抜け出そうとした瞬間、隣にいた泉の腕がぐいっと伸びてきて、彼女の腰を捕らえた。

「……また黙って出ていくんだ。」

 低く落ちた声は、怒りというよりも拗ねた響きを帯びている。
 千夏が振り返ると、泉は片目だけを開けてじっとこちらを見ていた。眠たげなはずの瞳に、かすかな不満がにじんでいる。

「どうせ俺のかとなんか気にせず行くんでしょ。」

 まるで子どもみたいに口を尖らせ、腕の力をさらに強める泉。千夏はため息をつきつつも、心のどこかでその不貞腐れた表情が可愛いと思った。

「そういうわけじゃなくて…。遅刻しそうだから急いで帰って着替えなくちゃ。」

「ウチから会社行った方が近いんじゃない?」

(アレ?彼に職場のこと教えたっけ?)

小さな疑念が胸をかすめたが、今はそんな些末なことを気にしている余裕はなかった。――もしかすると、凪から聞いたのかもしれない。

「そうかもしれないけれど……ラフな服で来ちゃったの。」

床に脱ぎ捨てられた衣服へと視線を落とす。

「あぁ……それなら、いずみの……いや、凪の服があるから使うといい。」

泉は寝ぼけ眼を覚ますように頭を振り、黒縁の眼鏡を掛け直すと、いつもより少し眠たそうな声でそう言った。

「でも、凪ちゃんと私じゃ身長が違うもの。サイズが合わないと思うわ。」

「大丈夫。ちょっと待ってて。」

そう言い残すと泉は寝室を出て別の部屋と消え、やがて数着の服を抱えて戻ってきた。ベッドの上に並べられたそれらは、どれも千夏が袖を通せそうなものばかりだった。

「コレなら仕事に着ていっても大丈夫じゃない?サイズも…大丈夫だろ?」

泉が持ってきた服は凪のものにしては少し小さめのサイズの服だった。千夏はグレーのパンツに白のカットソーと紺色のジャケットを借りることにした。着替えている間にキッチンからコーヒーの良い香りがしてきた。

「千夏さん…、コーヒー淹れたから。」

ダイニングテーブルには不揃いのマグカップが二つ置かれていた。

「ありがとう。」

泉がカップに注いだコーヒーからは、ふわりと甘やかな香りが立ちのぼった。果実を思わせる瑞々しい酸味が、湯気の中にやわらかく混じり合い、千夏の鼻先をくすぐる。ひと口含むと、軽やかな苦味の奥に透明感のある甘さが広がり、喉を抜けたあとも爽やかな余韻が残った。

――まるで朝の空気そのものを飲んでいるみたい。

叔父がカフェを営んでいる凪と兄の泉なのだからコーヒーにこだわりがあるのかしら?と千夏は納得する。豆の選び方ひとつにまで、確かなこだわりが息づいているのだろう。

「こんなに香り高いコーヒーを、朝から味わえるなんて……本当に幸せ。」

「うちに来れば、いつでも煎れてあげるよ。」

泉はやわらかに微笑み、まっすぐに千夏の瞳を見つめた。

「……泉くんて、私のこと好きなの?」

泉と会うのはたった二度目なのに、あまりにも愛しそうに見るものだから千夏は質問してみた。

「…うーん。どうだろうね…。知りたい?」

一瞬困ったような表情をしたけれど、直ぐに柔らかな表情に戻った。

「知りたいっていうか…。好きでもないのにああいう事するの?」

「ああ言うことって何?」

口角をあげ得意の意地悪な顔をする。

「もぉ、分かるでしょ?」

質問した事に対して素直に答えが返ってこず、少し焦ったく思う。

「しないよ。千夏さんは?」

「…なんかその聞き方、泉くんってズルい。」

「そうかな?ちゃんと気持ちを教えてくれない千夏さんの方がズルくない?今は付き合ったりできないけど、俺、千夏さんのこと好きだよ。」

「付き合えないのにあんな事したの?無責任だわ。……やっぱり、体が目的だったのね。」

「体じゃなくて俺の目的は千夏さん全てだよ?酷いな。まるで俺が女遊びをしてるみたいじゃないか。」

「好きだけれど、付き合えない」――その言葉の意味が、千夏にはどうしても理解できなかった。

今、泉が自分を見つめてきた眼差し。深くて、まっすぐで、胸の奥をざわつかせるほど真剣だった。あれを好意と呼ばずして何と呼ぶのだろう。千夏は当然のように期待していた。だからこそ、あっさりと突き放されるような答えに、心の底が少し冷たくなる。

不機嫌になる資格なんて、自分にはない。泉を責められる立場でもない。そんなことはわかっているのに――それでも千夏は、どうしようもなく勝手に傷ついていた。

「酷いのは泉くんよ。遅刻しちゃうからもう行くわっ!!」

まだコーヒーが残ったカップをテーブルにおくと、千夏は勢いよく家を出た。幸いなことに靴は会社でも履いていける黒い靴だったのでそのまま履いて会社に向かった。

(2回も一緒に朝を迎えておいて…。好きだけど付き合えないって…。もぉ、一体なんなのよっ!)
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