ピースな私と嘘つきなヒツジ
会社に着いても千夏の苛立ちは収まらなかった。
泉と出会ってからというもの、心は休まる暇がない。

(全部、あのイケボのせいだ――!)

もちろん、流される自分に非があるのは分かっている。けれど、誰かを悪者に仕立て上げ、責め立ててでもいないと、胸の奥に溜まったもやもやが晴れなかった。

借りた凪の服の姿のまま、いつものカフェに足を運ぶ勇気はなかった。そこで千夏は、昼休みに品川と連れ立って近くのコンビニへ向かった。

「先輩とコンビニなんて久しぶりっすね。こないだのオムライスといい、最近縁がありますね」

どこか浮き立った声音で言う品川の横顔は、いつもより少しだけ明るく見えた。

「お互いの出張のタイミングでは、会わない時はひと月くらい顔を合わせないのにねー。」

コンビニの自動ドアを抜けた瞬間、千夏の視界に見慣れた姿が飛び込んできた。

そこに立っていたのは――凪だった。

「……なんだよ、またこの男と一緒なのかよ……」

吐き出された言葉は、あまりに小さく、すぐそばの車のエンジン音や人々の話し声に紛れて消えていった。千夏の耳には届かない。もし聞こえていたなら、きっと「言葉遣い」として指摘していただろう。

(ど、どうしよう……! 勝手に凪ちゃんの服を借りちゃってるのに! 今日だけは顔を合わせたくなくてコンビニに来たのに……なんで、こんな時に限って鉢合わせするの!?)

胸の奥で悲鳴を上げながらも、千夏はどう声をかければいいのか分からず、ただ小さく手を振るだけにとどまった。けれど声は喉の奥に詰まり、結局ひと言も出てこず必死に笑顔を作った。

「その服、似合ってますね」

最初に口を開いたのは、凪だった。

「凪さんも思います? 今日の先輩、いつもと違ってかっこいい感じで素敵っすよね」

カフェで千夏が「凪ちゃん」と呼んでいたのを覚えていたのか、品川はいつもの馴れ馴れしさを封印し丁寧に「凪さん」と名前を呼ぶ。

「普段はスカートが多いから……かな?」

千夏は軽く誤魔化すように言葉を添えた。だが千夏には分かっていた――凪が気づいていることを。自分が今着ているのが、彼女から借りている服であることを。

(ちょっと取り繕ったけど……やっぱりバレてるよね。絶対気づいてるよ、凪ちゃん……)

「たまには気分を変えたい時ってありますよね。……まぁ、予定外に男の家に泊まって、女兄弟の服を借りちゃって雰囲気が変わることもあるけど…。」

涼しい顔でそう告げる凪の言葉に、千夏の背筋が強張った。

(やっぱり! 絶対勘づいてる……。お願い、凪ちゃん、これ以上突っ込まないで!触れないでぇー!)

「あはは、先輩に限って後者はないですよ。男っ気ないって社内で有名なんで!」

品川は冗談めかして笑ったが、その言葉に千夏の胸はちくりと痛む。彼の無邪気さがかえって癇に障り、思わず顔が少し曇った。

「千夏さんは十分可愛いですよ。もし私が男だったら、絶対に口説いてますけどね」

軽やかに笑いながら凪はそうフォローをし、すぐに表情を切り替えた。

「――あ、これからバイトなので、ここで失礼します。またお店に来てくださいね」

最後にひとこと添えると、くるりと踵を返し、カフェのある方角へと歩き出した。

その後ろ姿が人混みに紛れていくまでの数秒が、千夏にはやけに長く感じられた。胸の奥には安堵とも不安ともつかないざわめきが渦を巻き、言葉にならずに喉で燻っていた。
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