【コミカライズ原作】大正浪漫 斜陽のくちづけ
「うちの社長は凄くってですねぇ。悪人みたいな面構えなんで誤解されるっつーか、まぁ実際ひどいこともしてきてるんですけど。あっ。これ内緒ですよ」
夫のいない昼下がり。
たまたま用事があって立ち寄った従業員の鈴木をお茶に誘うと、もともとおしゃべり好きなのか、思った以上に盛り上がってしまった。
事件の日も彼が止めなければ、夫は市村を殺してしまったかもしれない。
そう思うと目の前の青年には感謝しかなかった。仕事の面で、支えてくれるのはこの青年なのだろう。
鈴木の話が面白くて、思わず吹き出してしまう。
「褒めているのか、けなしているのかわからないわ」
「いや、褒めるのはここからです。俺、十四の時、社長相手にスリをしたんです。そんで捕まった時は殺されると思って」
「まぁ……大丈夫でしたか」
盗むとか殺されるとか穏やかではない。
「そしたら、お前にスリの仕事教えた奴は誰だって。当時孤児を集めて、盗みをさせる親方がいまして。そこのアジトに社長がついてきたんすよ」
凛子にとっては違う世界の話だった。
「したらなんて言ったと思います? 『こいつのやり方はまるでなっちゃいない。教えるならちゃんと教えないと、袋叩きに合うだけだ。やるなら責任もってちゃんと教えろ』って親方に説教したんですよ。俺、もう驚いちゃって、帰る社長追っかけて弟子にしてくださいって」
相楽も生きるために盗みをしたことがあると話していた。そういう境遇でないと出てこない言葉だろう。
「そのあとも『男ならこんなはした金で使われて満足するなって怒られて。学も家柄もなくたって、どうにかなる』と言われました。そんなこと言ってくれる大人、俺の周りにはいなかったんスよ。感動しちゃって」
「それが出会いだったのね」
「出会いといえば、ここだけの話なんですがねぇ。ずいぶん前から、凛子さんが載ってた婦人雑誌は全部社長買い占めてるんですよ。どうやらお屋敷で見かけた時に一目惚れしたみたいで。舞踏会の夜は俺もどきどきしました。うまくいかなかったらどうしようって」
「えっ?」
華族女学校に入ってから、婦人雑誌には繰り返し凛子の写真が載った。
読むのは、華族に憧れる娘か、息子の見合い相手を探す母親が多いと聞いている。
実際それを見て見合いを申し込まれることも当時は多々あった。でももう過去のことだからすっかり忘れていた。
「もう買えない分なんかは、神保町の古本屋を巡ったりなんかして。かなりのご執心ぶりだったんですけど、あの強面で意外と純情なんです。かわいいでしょう?」
「そんな……」
なんだか凛子の知る夫とは別人のようで、信じられない。
「とにかくですね、凛子さんが来てから、大分人間らしいところができたというか、多少人の心を慮るようになったというか……」
「そうかしら。前のことなんて知らないから。でも私も最初は怖かったの」
恥ずかしいけれど、本当なら嬉しい。
「ピアノだって特注なんですよ、ほらイニシャルのRが彫ってあるでしょう。出張に行けばオルゴールのある店を探し回って──凛子さんの機嫌を取りたくて必死なんですよ。もうね。あの手この手」
「なんの話だ?」
後ろから低い声がして振り返ると、相楽が扉を開けたところだった。
「ひえっ」
朝からどこかへ出かけていた夫が帰ってきた。不在をいいことに噂話に花を咲かせていたのでちょっと慌てる。
「す、鈴木さん。ちょっとお茶請けを買ってきて頂けるかしら」
慌てて用事を頼むと、
「畏まりました!」
と言って鈴木は逃げるように、その場をあとにした。
「なにかおかしな話をしてなかったか」
憮然とした表情で尋ねられ、
「なんだったかしら」
とぼけてみせる。もう少し詳しく聞きたかったので残念だ。鈴木にはあとでこっそり詳しい話を聞いてみよう。
「ピアノがどうとか」
「あなたが私をどれだけ好きかという話ですか?」
あまり外での夫の姿を知らない分、よく知っている鈴木に聞いてみたかったのだ。今日はいい機会だった。
「はぁ……これだから口の軽い男は」
「鈴木さんを叱らないでくださいね。私が聞いたんです」
二人きりになった応接間で、ふいに抱きしめられた。
「どうなさったの」
「もう少しだけ」
なにかあったのだろうか。
引き寄せられた拍子に、横にある棚に腰が当たると、飾り棚に置いたままオルゴールが突然動き出した。かつて凛子がピアノで弾いたトロイメライだった。
実家に置いたままの物もあるが、これは相楽が気に入っていたので、嫁入りの時持ってきたのだった。
どうしてあんなに、あの曲を気に入ったのだろう。
「もしも子供ができたら……」
「楽しいだろうな。見たかった景色が見えるかもしれない」
「私、あなたとこれからもっときれいなものを一緒に見たいんです。あなたが得られなかったものがあるなら、私と一緒に探してください」
夫は遠い目をして、淡い笑みを浮かべた。
「少し落ちついたら、どこか遠くへ行かないか。気分転換に」
「どこへでもついていきます」
その目には涙など浮かんではいないが、なぜだか彼が泣いているような気がして、いつもより寂しげな背に手を回す。
互いの空白を埋め合うように、固く抱きしめ合った。
もう悪いことは全部終わったのだ。そう信じたい。
どんなことがあっても二人なら歩いていける。
柔らかく優しい未来を。
そう、二人ならきっと。
夫のいない昼下がり。
たまたま用事があって立ち寄った従業員の鈴木をお茶に誘うと、もともとおしゃべり好きなのか、思った以上に盛り上がってしまった。
事件の日も彼が止めなければ、夫は市村を殺してしまったかもしれない。
そう思うと目の前の青年には感謝しかなかった。仕事の面で、支えてくれるのはこの青年なのだろう。
鈴木の話が面白くて、思わず吹き出してしまう。
「褒めているのか、けなしているのかわからないわ」
「いや、褒めるのはここからです。俺、十四の時、社長相手にスリをしたんです。そんで捕まった時は殺されると思って」
「まぁ……大丈夫でしたか」
盗むとか殺されるとか穏やかではない。
「そしたら、お前にスリの仕事教えた奴は誰だって。当時孤児を集めて、盗みをさせる親方がいまして。そこのアジトに社長がついてきたんすよ」
凛子にとっては違う世界の話だった。
「したらなんて言ったと思います? 『こいつのやり方はまるでなっちゃいない。教えるならちゃんと教えないと、袋叩きに合うだけだ。やるなら責任もってちゃんと教えろ』って親方に説教したんですよ。俺、もう驚いちゃって、帰る社長追っかけて弟子にしてくださいって」
相楽も生きるために盗みをしたことがあると話していた。そういう境遇でないと出てこない言葉だろう。
「そのあとも『男ならこんなはした金で使われて満足するなって怒られて。学も家柄もなくたって、どうにかなる』と言われました。そんなこと言ってくれる大人、俺の周りにはいなかったんスよ。感動しちゃって」
「それが出会いだったのね」
「出会いといえば、ここだけの話なんですがねぇ。ずいぶん前から、凛子さんが載ってた婦人雑誌は全部社長買い占めてるんですよ。どうやらお屋敷で見かけた時に一目惚れしたみたいで。舞踏会の夜は俺もどきどきしました。うまくいかなかったらどうしようって」
「えっ?」
華族女学校に入ってから、婦人雑誌には繰り返し凛子の写真が載った。
読むのは、華族に憧れる娘か、息子の見合い相手を探す母親が多いと聞いている。
実際それを見て見合いを申し込まれることも当時は多々あった。でももう過去のことだからすっかり忘れていた。
「もう買えない分なんかは、神保町の古本屋を巡ったりなんかして。かなりのご執心ぶりだったんですけど、あの強面で意外と純情なんです。かわいいでしょう?」
「そんな……」
なんだか凛子の知る夫とは別人のようで、信じられない。
「とにかくですね、凛子さんが来てから、大分人間らしいところができたというか、多少人の心を慮るようになったというか……」
「そうかしら。前のことなんて知らないから。でも私も最初は怖かったの」
恥ずかしいけれど、本当なら嬉しい。
「ピアノだって特注なんですよ、ほらイニシャルのRが彫ってあるでしょう。出張に行けばオルゴールのある店を探し回って──凛子さんの機嫌を取りたくて必死なんですよ。もうね。あの手この手」
「なんの話だ?」
後ろから低い声がして振り返ると、相楽が扉を開けたところだった。
「ひえっ」
朝からどこかへ出かけていた夫が帰ってきた。不在をいいことに噂話に花を咲かせていたのでちょっと慌てる。
「す、鈴木さん。ちょっとお茶請けを買ってきて頂けるかしら」
慌てて用事を頼むと、
「畏まりました!」
と言って鈴木は逃げるように、その場をあとにした。
「なにかおかしな話をしてなかったか」
憮然とした表情で尋ねられ、
「なんだったかしら」
とぼけてみせる。もう少し詳しく聞きたかったので残念だ。鈴木にはあとでこっそり詳しい話を聞いてみよう。
「ピアノがどうとか」
「あなたが私をどれだけ好きかという話ですか?」
あまり外での夫の姿を知らない分、よく知っている鈴木に聞いてみたかったのだ。今日はいい機会だった。
「はぁ……これだから口の軽い男は」
「鈴木さんを叱らないでくださいね。私が聞いたんです」
二人きりになった応接間で、ふいに抱きしめられた。
「どうなさったの」
「もう少しだけ」
なにかあったのだろうか。
引き寄せられた拍子に、横にある棚に腰が当たると、飾り棚に置いたままオルゴールが突然動き出した。かつて凛子がピアノで弾いたトロイメライだった。
実家に置いたままの物もあるが、これは相楽が気に入っていたので、嫁入りの時持ってきたのだった。
どうしてあんなに、あの曲を気に入ったのだろう。
「もしも子供ができたら……」
「楽しいだろうな。見たかった景色が見えるかもしれない」
「私、あなたとこれからもっときれいなものを一緒に見たいんです。あなたが得られなかったものがあるなら、私と一緒に探してください」
夫は遠い目をして、淡い笑みを浮かべた。
「少し落ちついたら、どこか遠くへ行かないか。気分転換に」
「どこへでもついていきます」
その目には涙など浮かんではいないが、なぜだか彼が泣いているような気がして、いつもより寂しげな背に手を回す。
互いの空白を埋め合うように、固く抱きしめ合った。
もう悪いことは全部終わったのだ。そう信じたい。
どんなことがあっても二人なら歩いていける。
柔らかく優しい未来を。
そう、二人ならきっと。