※エリート上司が溺愛する〈架空の〉妻は私です。

 周平は産業医と二課の課員を数人を呼んで戻ってきた。

「念の為救急車を呼びましょうか」

 静流の全身状態をくまなく観察した産業医は病院への搬送が必要だと判断した。
 静流は医務室から持ってきた担架に乗せられた。

「皆さんは仕事を続けてください」
「奥様にご連絡しておきましょうか?」

 月城が提案すると、静流は動かせない頭の代わりに左手を上げた。

「……いいえ、結構です。私は独身です。妻はいません」

 その場にいた二課の課員、騒ぎを聞きつけた野次馬の誰もがどよめいた。営業二課の高遠課長といえば、愛妻家の代名詞のようなものだったからだ。

「いいんですか?」

 真実を知る紗良だけがひとり冷静だった。

「もうたくさんです。妻帯者の芝居はやめます。私のせいで貴女に大怪我をさせてしまう所だった……」
「もしかして周平との会話を聞いていたんですか?」
「でなければこんなにタイミングよく助けに入って来られないでしょう?」

 救急車で搬送される前に、静流は遠巻きにこちらを見ている周平を近くに呼び寄せた。

「秋野くん、私が独身だということは専務が保証してくださいます。金輪際、彼女とヨリを戻そうなどと考えないでください。不愉快です」

 静流は周平に紗良には手を出すなと正面から喧嘩を売った。この喧嘩を買うほど、周平は愚かではない。
 落ちていく紗良の前に躊躇いもなく身を差し出した静流と、踊り場で立ち尽くしていた周平とでは勝敗は既に決していた。

「それでは皆さん、お騒がせしてすみませんでした」

 静流は二重の意味で謝罪すると、やってきた救急隊員の手によって病院へと運ばれていった。

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