※エリート上司が溺愛する〈架空の〉妻は私です。

(いつも通り……出来たよね?)

 昨夜のことは、きっと静流は覚えていない。ひとつ屋根の下で暮らしていれば、ああいう事故は起きるもの。紗良だってイイ男の顔を間近で観察できてラッキーぐらいに思っておけばいい。……はずなのに、なぜか釈然としない。
 胸にモヤモヤしたものを抱えながら、紗良は改札を抜け電車に乗り込んだ。会社とは反対方向の電車に乗り、二つ目の駅で降りる。目的地は駅から更に歩いて十分ほどの距離にある”スピカ”という喫茶店だ。
 
(さ、切り替えよう……!!)

 気合を入れ直すために両頬をパチンと叩き、気持ちを切り替え入口の扉を開けていく。

「おはようございまーす」
「おはよう、紗良ちゃん」

 スピカに入るなり、店主である風間弥生(かざまやよい)が声を掛けてくれる。栗色の柔らかそうな髪を緩い三つ編みに束ねた色白の美人の弥生は紗良にとっては姉のような存在だ。
 百合のような清廉な笑みを浮かべた弥生を見ていると心が次第に穏やかになっていく。

「直ぐに着替えてきますね」

 紗良はカウンターの中に入るとバックヤードに回り、エプロンをつけてまたカウンターに戻ってきた。

「紗良ちゃん、来て早々悪いんだけど棚の上のアッサムの缶を取ってくれる?」
「はい」

 客からの注文を受け、カップをセットする弥生の手つきは惚れ惚れするほど鮮やかだった。
 スピカは紅茶専門の喫茶店だ。
 主人の弥生が厳選した茶葉を使い、熟練の技で淹れられた紅茶を提供する唯一無二の喫茶店。
 紗良はそんなスピカで二週間に一度程度、接客の手伝いをしている。
 ここのところ静流の引っ越しの手伝いや私用で行けない日が続いており、この日はひと月ぶりの出勤となった。
< 35 / 210 >

この作品をシェア

pagetop