大江戸ガーディアンズ

地元の天王祭(天王さん)でも神田明神のお祭りでも日吉山王権現のお祭りでも、天下の往来で万人に向けて、傷痕が残りながらも「白い」背中を見せていたのは辰吉と甚八くらいであった。


辰吉は生前、季節の変わり目などにすぐに熱を出しては二、三日寝込んでしまう、たった一人の孫息子に、

『いいか、与太。
人一倍(しといちべぇ)身体(からだ)(よえ)ぇおめぇはよ、絶対(ぜってぇ)に墨なんぞ入れんじゃねえぞ』

と幾度となく云い聞かせた。

そして、は組の若衆が墨を入れた聞くと「見舞い」と称してまだ幼かった与太を連れて行き、なかなか血が止まらずしかも赤黒く腫れ上がった無惨な背中を(じか)に見せた。

その者は痛さと共に高熱にも苦しみ、うつ伏せからずっと身体の向きを変えることもできぬまま、ひたすら断末魔のごとき唸り声をあげていた。

また、湯屋(ゆうや)に行ったときにもいろいろと「講釈」した。

『ほれ、あの爺さんを見てみな。
()けぇときに入れたもんだからよ、観音さんも一緒んなって歳取っちまって、可哀想によ、せっかくの別嬪さんがしわしわになっちまってらぁ』

肌に張りのある若い頃ならいざ知らず、歳を取るにつれ皮膚がどんどん(たる)んでいくゆえ、御隠居の背中に彫られた観音様は今や「蛇腹」の中に鎮座なすっていた。

『けっ、墨を入れたばっかの()けぇ奴が湯船に(へぇ)りやがったな』

辰吉が舌打ちをして見た先には、大きく剥がれた薄皮がいくつも浮いていた。

墨を入れたしばらくは皮膚が(もろ)くなっていて剥がれやすいゆえ、湯船に入るのは控えなければならない。

町家の皆が入る湯屋では、常識知らずの迷惑千万なことであった。


長じた今ではすっかり丈夫になり、与太はもうちょっとやそっとでは熱など出さぬようになった。

さすれども、我が身にこの先どれほど傷痕ができようが、背中に墨を入れる気なぞ毛頭ない。

そもそも、与太にとって「傷」が「恥」だと思うたことすら、ただの一度もなかった。

祭りの日に、余所(よそ)の組の鳶たちが祖父と父の背中を見て「頭取(かしら)のくせに、みっともねぇ」と陰口を叩いていたことは知っている。


それでも——

辰吉や甚八の身体じゅうに残った、数多(あまた)もの傷痕は……

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