大江戸ガーディアンズ

鳶にしても火消しにしても、高所で危うき持ち場であるため、生傷や火傷が絶えない。

そもそもは、手前(てめぇ)がしくじった折にできた傷痕(きずあと)を隠すために墨を入れる者が多い。

多平にせよ久作にせよ、切欠(きっかけ)はそうだ。

傷痕がある、と云うのは即ち「失敗(しく)じった」ことを人前に(さら)しているも同じだ。

「傷」は鳶や火消しにとっては「恥」なのだ。


されど、皮膚の奥深くに墨なんぞ「毒」にもなる代物(しろもの)を入れるゆえ、大抵の者は入れたその日からしばらくの間高い熱が出て、昼夜(うな)されることとなる。

中にはとうとう命を落とす者さえいた。

だが、墨を入れる際の激烈な痛さに耐えて、そののち高熱の果てに無事生き残れば、町家の者たち(世間)からは「あいつにゃ、心意気ってもんがあるってんだ」と誉めそやされた。

「恥」であったはずの傷が隠せるだけでなく「心意気」へとすっかり様変わりするのだ。


与太とて、今は傷痕一つない背中であるがいつまでもそのままではいられぬであろう。

普請場での鳶は、ほんの(わず)かの気の緩みが(あだ)となり、次の刹那(せつな)には足場から真っ逆さまに落っこちてしまう。

火消しとしてもいずれ花形である「(まとい)持ち」となった暁には、火の手が上がる最中(さなか)にいち早く火元の屋根へと駆け上がり、(みずか)らが皆に知らせるための「目印」となって纏を振り続けなければならぬ。


与太の属する「は組」の纏は、縁起物である御所車の車輪を二つ重ねた「源氏車二ツ引流し」だが、祖父・辰吉も父・甚八も若かりし頃手にしたものだ。

当然のことながら、辰吉も甚八も生傷や火傷が絶えなかった。
岡っ引きもやっていた辰吉なぞ、刀傷すらあったほどだ。


にもかかわらず——二人とも、その背中は傷痕を残し「白い」まんまだった。

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