大江戸ガーディアンズ

「……着替えをさせてくれぬか」

主税は(うつろ)な目をして云った。
宿直(とのい)を終えて帰ってきたゆえ、実は眠くて仕方がない。

「も、申し訳ありませぬ」

和佐は弾かれたように立ち上がって、夫の(もと)へ駆け寄った。


主税から渡された(かみしも)を受け取りつつ、和佐は話し始めた。

「わたくしは太郎丸(たろうまる)には武家の子らしゅう、武芸に秀でた者に育ってもらいとう存じまする。
されども……姑上様が……」

和佐がその﨟長(ろうた)けた面立(おもだ)ちを歪ませた。

二人の間に生まれた太郎丸は、いずれ()の本田家の跡を継ぐ身の上だ。

「行く行くは学問所(湯島)を目指すように、と(おお)せになって……」


五代の公方(くぼう)様(徳川綱吉)が儒学者・林羅山に下知(げじ)なされて湯島に(つく)られた私塾が「聖堂」である。

さようにして公方様の「お墨付き」を賜った聖堂には、御公儀(幕府)に仕える旗本・御家人の子弟のうち、特に学問に秀でる者たちがこぞって集まった。

そして先ごろ、八代の公方様(徳川吉宗)の御孫(みま)で老中首座の松平越中守(松平定信)がなされたお改め(寛政の改革)により、聖堂は御公儀の配下となり「昌平黌」と名を改めた。

と同時に、旗本・御家人(直参)の子弟だけでなく、諸国の藩士の子弟にも広く門戸が開かれるようにもなった。


「されど、本田の御家(おいえ)赦帳撰要方(しゃちょうせんようがた)与力の御役目を代々賜っておりまする。
なにも、太郎丸がそないに根を詰めて学問に精進せずとも……」

主税が脱いだ袴、帯や紐、それから行儀小紋に染め抜いた着物と、次々と受け取る和佐の顔がますます歪んでいく。


「……母上は如何(いか)ように仰せか」

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