いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~

2




巨大な白いオオカミ姿のふわふわ雪を従えて回廊を通り王太子の居住宮に入ると、廊下の向こうからイギーが速足でやってきた。

彼の様子がどこか不安げな様子なので、ヴァラはイギーの両腕に手を置いて首を傾げた。

「どうしたの? 様子が変よ、イギー」

「ああ、ヴァラ、今迎えに行こうと思っていたんだ」

イギーはヴァラの手首をつかんで引っ張った。

「早く来て。ヒューがおかしいんだ」

「えっ?」



イギーはもと来た廊下をヴァラを引っ張ったまま再び速足で引き返す。ヴァラはコタルディの裾が絡みつくのを必死でたくし上げながら異母兄に引っ張られてゆく。

「イギー? なに? ヒューがおかしいて、どういうこと?」

「見たらわかるから、早く!」

つないだ手からイギーの焦りと不安が伝わってくる。嫌な予感にヴァラの心臓がきゅっと締め付けられる。

連れてこられたのは執務室ではなくバルの居室の居間だった。

イギーの肩越しに中を覗き込むと、奥の窓辺のソファの前でバルは腕を組んで佇んでいた。

彼は青ざめた顔を入り口の二人に向けた。


「ヴァラ……」

ヴァラはイギーの腕の下を潜り抜けてバルのそばまで歩み寄った。

「ヒューに何があったの?」

困り顔のバルが目の前の四人掛けのソファに視線を落とした。ヴァラは回り込みバルの隣で同じようにソファに視線を落とし、眉を(ひそ)めた。

「なに……?」

ヴァラはそっとソファの前に身を屈め、膝立ちになる。ひじ掛けに頭を預けたヒューが、あおむけに横たわっている。

眠っているのだろうか? 

ごく浅い呼吸。胸はあまり上下していないので本当にちゃんと呼吸しているのかどうかもよくわからないが、顔色は悪くはないので生きていることは見て取れる。

「湯あみさせ着替えさせて、ここで休ませていたんだ。私が仕事を片付けて戻ってみるとこの状態で……疲れているのかと思ってそのままにしておいたが、そろそろ起こそうと思って声をかけてもまったく目を覚まさないんだ。揺すっても叩いても起きない」

「……」

そっと彼の額に触れる。こめかみの髪の生え際を撫でる。耳元に唇を近づけて名前を呼んでみる。肩を揺すってみても、何の反応も示さない。

ヴァラは小さく呪文を唱える。そして再び彼の額に触れてみる。

目を閉じる。闇。彼の意識は全く感じ取れない。

「なにかに囚われているみたい……」

「えっ?」

「魔術で……体はここにあるけれど、意識が(さら)われてしまったみたい」


バルとイギーがヴァラの背後からヒューを覗き込む。

「どういうこと?」

バルも眉を顰める。

「カジミアの仕業ね。彼の(スペル)を感じる」

「どうしたらいいんだい? こういうことは、私たちにはまったくお手上げだ」

ヴァラは細い指先でヒューの頬を撫でてから立ち上がって二人の兄たちを振り返った。

「バル、いまから本館の屋上で解呪を始めるわ。カジミアはきっとのぞきに来る。イギー、宝物庫から三つともレガリアを持ってきて」

わかった、といってイギーは部屋を出ていく。バルは困惑気味に妹を見つめる。

「ヴァラ、あの男は危険ではないの?」

「わからないけれど……今は負ける気はしないわ。私のことを相当舐めているみたい。ヒューの意識を攫って動揺させるつもりよ。何もできないと思って、からかっているのね。彼には王家の呪いは解けないって、教えてあげればよかったかしら? 魔術師としての虚栄を満たして大金を手に入れたいのね。放っておこうと思ったのに……向こうがその気なら、相手になってあげるわ」

「でも、大丈夫? エドセリクもいないし……そうだ、キミの乳母。森の魔女を呼んできて、手伝ってもらおうか?」

普段では考えられないほどうろたえて不安げなバルは少し口数が多くなっている。

落ち着きなくうろうろとソファの周りを歩き回る兄の腕をそっととらえ、ヴァラは冷静な表情で言う。

「バル、大丈夫だから落ち着いて。ばばを呼んできても自分で何とかしろと言われるだけよ。祖父を呼んでも同じ。だって、王家の呪いは私にしか解けないのだから。カジミアには解けないわ。かならず、やり遂げるから、ここでヒューと一緒に待っていて」

バルははっと目を見開いて首を横に振る。


「あっ、ダメだよヴァラ! キミを一人では行かせない。私も行くに決まっているよ」

妹の両肘をつかみ迷いなく言うバルに、ヴァラは優しい笑みを向ける。

「だめよ、バル。王太子に何かあってはいけないわ。私が何のために呪いを解こうとしていると思っているの? 万が一にでも、あなたを危険な目には遭わせられないわ。ね、ここで待っていて。本当に大丈夫だから」

「いや、一緒に行かせて。妹ひとりを守れなくて、将来王として国民を守れるわけがないよ。今までの話を合わせるとクラム侯の思惑通りではなく、その魔術師は自分が呪いを解けるという自惚(うぬぼ)れと、その対価として一国から莫大な金銭を得たいということだけで動いているみたいだ。彼の関心は王位とか権力には無くて、呪いを解く血筋のキミにだけあるんだ。つまり、王太子である私には直接の危険はないはずだね。私には父上から任された責務として、呪いが解けることを見とどける義務がある。一方で、妹ひとりを危険な目に遭わせてのうのうと部屋で待っていられる薄情な兄ではいたくないんだ。これでも、多少は自分の身は自分で守れるんだよ」

そう言ってバルはヴァラの鼻をつまんでふふと笑った。

ヴァラは苦笑を返す。

こうなると、この兄は決して言うことを聞いてくれないのは長年の付き合いからよくわかる。

「わかったわ。では、結界を張るから、なかから出ないようにしてね。それなら、譲歩するわ」

バルは一瞬迷うそぶりを見せたが、魅力的なグリーンの色味が強いヘイゼルの瞳をくるりと回してうん、と頷いた。




春の終わりの生暖かい風がかすかに吹いている。


空は灰色の雲が沸き上がり、渦巻いて流れていく。

本館(パラス)の屋上は遠く城下の街や港までが見渡せて、その向こうの水平線もよく見える。

出入り口の近くではバルがイギーとフランツを両脇に従えて立っている。彼らのいるあたりには、ヴァラが結界を張った。物理的な障害物が飛んで来ようと何かの魔術がかけられようと、何ものをも通さない鉄壁の結界だ。

ヴァラは屋上のほぼ中心にいる。イギーを手招きで呼び寄せ、何やら指示を出す。

イギーは腰帯につるした長剣を抜き、ヴァラに言われた位置に突き刺し、それを押さえておく。

ヴァラの手には彼女の身長の一・五倍ほどの長さの細い麻ひもが握られている。イギーの抑えている剣の柄に先端を縛り付ける。そしてもう一歩の先に自分の護身用の短剣(バゼラード)の柄を縛り付ける。ピンと麻ひもを張り、石床の上で短剣の切先で円を描いてゆく。ややひもを短くして、さらにその内側に小さめの円を描く。

イギーに礼を告げて結界の中に戻ってもらい、ヴァラはさらに小さい円の中に方形を描く。それぞれの位置に記号や文字を書き入れてゆく。

夢の中で何百回と見た魔法円。手帳を見ずとも一か所も間違えることなく描き切る。



にわかに、一陣の冷たい風が吹く。


「なにもこんな天気が悪い日に解呪を始めようとしなくてもいいのでは? 王女殿下よ」

女にしては低く、男にしては高い声。この声は以前、宝物庫で聞いたことがある。

胸壁(きょうへき)の凸部分に立つ濃い灰色の長衣姿の魔術師カジミアが、ヴァラを見て不敵な笑みを漏らす。

「天気など関係ないわ。それとも、お前の魔術は天気に左右されてしまうのかしら?」

ヴァラが嫌味を言うとカジミアは鼻で笑い飛ばした。

「は。(くちばし)の黄色いひよっこが、口だけは一人前なようだ」

「生きている年数や魔術を使う経験から言えばお前が私を軽んじるのは仕方のないことね。でも……私利私欲のために勝手に他人の事情に首を突っ込んできて、法外な対価をねだろうとするような魔術師には、いくら魔力が強くとも敬意を払うことはできないわ」

ふいに魔術師の足元から稲妻が横走りして、ヴァラの足元近くで爆ぜる。


「きゃっ!」

ヴァラは一歩後退して顔をかばった。結界の中からバルたちが身を乗り出す。

「あまり生意気な口を利くものではない。王女殿下の魔力は、私の足元にも及ぶまい」

「な、なにを根拠にそう思うの?」

「この数年間、いまだに呪いが解けぬではないか」

「お前は自分なら解けると思っているみたいだけれど、それこそ間違いよ」

「間違いなものか。お前がかの魔術師の血をついているのならば、私も同じだ。お前より私のほうがはるかに魔力は強い」

ヴァラは大きく息を吐く。キッと魔術師を睨みつけて冷静に言う。

「ではお先にどうぞ。試してみたらいいわ」

ヴァラの申し出は意外だったらしく、魔術師は眉間にしわを寄せた。

「なに?」

「解呪したいなら、してみればいいと言っているのよ。どれだけの知識と経験と魔力で解くのか、私はひよっこらしくおとなしく見学しておくわ」

「……いいだろう」

魔術師はにやりと笑んだ。


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