いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
3
バルの資料によると、カジミアは二百年前に王家に呪いをかけた魔術師の二番目の娘の家系の血筋らしい。
その家系からは魔力の強い人物は排出されなかった。しかし先祖返りなのかどうか、カジミアは幼いころから稀有な力を発揮していた。魔術に対して理解が低い家族の中で、彼は恐れ、忌み嫌われていた。
十代の初めに家出してからは、近隣諸国を渡り歩き、詐欺の片棒を担いだり魔術で呪詛や呪殺を請け負ったりしながら生活してきたのだ。
彼には自信があった。
顧客には王侯貴族も多くいた。あるときに藍の国にかけられた呪いの伝説を耳にして興味を持った。
そんな時にその国のよこしまな大貴族――クラム侯爵から自分は呪いをかけた魔術師の家系であり、報酬を支払うから呪いを解いてほしいと依頼された。
彼は自分の魔力に並々ならぬ自信を持っていたし、血筋のみが呪いを解けると聞けばがぜん試してみたくなり、依頼を受けることにした。
ところがどうだろう、この国には同じ血筋の魔女の血を受け継ぐ王女がいて、王家は彼女の力にすべてを期待しているという。
王女は数年前から毎日少しずつ、夢の中で二百年前の呪いを解くための方法を見ていて、まだすべての呪を解明していないという。
それを聞いた時、カジミアは哄笑が止まらなかった。
何をのんびりと! 呪いなど、早く解いてしまえばいいものを。
魔女の血筋であっても魔力がなければ何の意味もない。
それならば自分が先に解いて、法外な対価を求めてやろうか。
今、カジミアは藍の国の城の上で、肩で息をついている。
呪いとは呪った本人にしか解くことはできないが、もしも呪った道筋が見えればほかの者にも解除することはできなくもない。
他の誰かによって呪いが解かれれば、呪者には呪いが倍になって跳ね返ってくる。カジミアは今までに多くの人々を金の対価のために呪ってきた。
時には誰かが呪ったものを解除し、呪い返しをした経験も豊富だった。
それなのに。
「……」
彼は王太子とその護衛たちとともに佇み、自分をじっと観察している王女を一瞥した。彼女は無表情で彼を見守っている。
彼の予測では、今頃はすでに解呪に成功し、王女を見下して嘲笑を浴びせ、王太子に対価を要求しているころだった。
しかし……
解けない。
いくら過去に解呪した術を用いても、一向に解けない。なぜ解けていないとわかるのかというと、手ごたえがまるで返ってこないからだ。
「もうそろそろ、教えてあげたらどうだい?」
バルがヴァラにそっと囁く。ヴァラはふう、とため息をつく。
「まだ思い上がりを改めてはいなそうだけれどね……」
ヴァラはゆっくりと魔術師に近づいて手にした手帳をひらひらと振って見せた。
「これは私が二年ほど見てきた夢の内容を書き留めたものよ。たとえお前がここに書かれてある通りにしたとしても、呪いを解くことはできないわ」
「なぜ?」
「血筋かもしれないけれど、選ばれてはいないから」
「選ばれる? 血筋こそ、選ばれた証《あかし》ではないか?」
「部外者が知らない事があるの。魔術師エドセリクの予知夢のこと」
「なんだ、それは?」
カジミアは眉を顰めた。
「王家の呪いを解けるのは、七番目の息子の七番目の娘のみ」
「は?」
「つまり、血筋だけではないの。七番目の息子の七番目の娘、つまり私にしか解けないということよ」
「……」
カジミアはヴァラが描いた魔法円を睨視《げいし》した。
「今朝、竜に会った来たわ」
「なに? 竜だと? ばかな。近隣諸国でもここ数百年は目撃されていない」
「でも、会ったのよ、今朝。恵与も授かったわ。ひよっこの私が、ね」
「……」
「わかったでしょう? ヒューにかけた呪を解いて。解かないと、私が無理やり解いて、お前は呪詛返しで痛い目を見ることになるわ。悪いことは言わないから、クラム侯からせしめるだけせしめたら、速やかにこの国を出なさい。そうでなければ私がお前を捕縛するわ」
「お前に何ができる?」
「何ができるか見ていく? 私の番ね。バル!」
ヴァラは振り返り兄に合図を送る。王太子は頷き、王冠を手に取る。同様にイギーは王笏を、フランツは宝珠を布の上に置いたまま手に取る。
ヴァラは魔法円の南側に立つ。
西南にはカジミアがかたずをのんで見守る。
ちょうどその対極、北東にバルたちが立つ。
右手を掲げ、東に当たる方角から正面の北に当たる方角へ人差し指と中指をそろえてかざし、呪文を唱え始める。
光の方角から、闇の方角へ。夢で幾度となく見た魔法円、文字、記号。幾度となく聞いて暗唱できるまでになった呪文。やり方の手順も、すべて頭の中にある。初めて唱えるのに、もう何百回も唱えているように口になじんでいる。
初めて耳にする呪文と見たこともない手法にカジミアは驚愕する。
彼が知らない古代文字の呪文。
ヴァラは使い慣れているかのように唱え続ける。
そしてヴァラは呪文を唱えながらゆっくりと左回りに魔法円の周囲を歩く。
「ばかな……」
目の前で繰り広げられる光景を、魔術師はまだ訝《いぶか》しんでいる。
一周回ったところでヴァラは護身用の短剣を再び取り出してそれで右手から宙に文字を描く。
それは彼女が生まれた時に祖父のエドセリクが作らせて呪をかけて持たせた、柄頭に親指の先ほどの大きさのローズカットの紫がかった赤いガーネットが装飾されている短剣だ。
護身用とはいってもその目的で用いられたことはなく、もっぱら儀式用ナイフとして使われている。もっとも、その頻度さえ高くはないのだが。
「なっ……」
カジミアは瞠目した。
流れるような動作で宙に描かれた古代文字。
それは魔術を扱うものにしか見えていないはずだが、その半数は彼でさえ知らないものだった。
どくり、と心臓が鳴った。
私ではない。
この呪いを解けるのは、私ではない。
彼は思考より先にそう感じた。
「あっ!」
魔法円から五馬身ほど離れた結界の中から、三人の驚きの声がほぼ同時に漏れる。
パキ。
硬質なものが割れる音。
三つのレガリア—―王冠、王笏、宝珠――に着けられたそれぞれの大きな紅玉が一斉にひび割れる。
ヴァラは最後の呪文を唱える。石の床を短剣の切先でひっかいて描いた魔法円は、跡形もなく消え去った。
「えっ? なに?」
イギーが間の抜けた声を上げる。
「ちょっ……ヴァラ? なに? どうなった? レガリアが壊れたけど!」
イギーが青くなって狼狽する。
フランツは手の中の宝珠の紅玉が真っ二つにひび入っているのを見て呆然としている。
バルは王冠の紅玉が二つに割れて布の上にぽとりと落ちたのを見て感嘆すると間もなく、くすっと笑った。
「なんだか二百年の呪いも……終わりはあっけないな」
あはは、とバルの高笑いが曇り空に響いた。
「カジミア」
ヴァラは魔術師を振り返る。
彼女はやり遂げたというような高揚感も勝ち誇った様子も一切浮かべない無表情のままで、彼をまっすぐに見据えた。
「ヒューを返して」
カジミアは汚辱を受けたような悲痛な面持ちでヴァラを睨んだ。しかし彼女はすこしも怯まない。
「もし呪を解かないのなら、五倍くらいにして返すわ」
「言わずもがな、もうお前たちに用はない」
カジミアは思い切り背後に飛びのいた。
彼は再び胸壁の凸部分に飛び乗ったと思うと濃い灰色の長衣を翻し、そこから宙に飛び降りた。
「あああああ、おい! ヒューはどうしてくれるんだっ!」
イギーが叫ぶ。
ヴァラは呪を唱え、三人の周りの結界を解いた。
イギーが王笏を布にまいてフランツに渡し、カジミアが飛び降りたあたりの胸壁から地上を覗き込んだ。
「あ……? あいつ、どこへ?」
その高さから落ちれば、常人ならば転落死している。しかし地上のどこにもつぶれた魔術師の姿は見当たらなかった。
「大丈夫、愚かではないようだから、自分の利益にもならないことはし続けないはずよ」
背後からイギーの腕を引いてヴァラが苦笑した。
「ヴァラ!」
バルが呼びかける。
ヴァラとイギーは振り返る。
バルは穏やかな微笑を浮かべて、あごで合図を送る。
「戻ろう。キミのねむり姫を起こさないとね」