人魚な王子

第2話

 そうやって僕は奏を見ているのに、奏は買ったばかりのストローを吸っている。
これも知ってる。
奏がよく飲むやつだ。
僕も気になって、前に一人で飲んでみたけど、正直あんまり好きじゃない。

「奏は、このジュース好きなの?」
「え、なんで?」
「よく飲んでるから。僕も飲みたい」

 彼女の手に触れる。
僕は背を丸め、紙パックを持つ彼女の手を引き寄せると、白いストローの先をくわえた。

「美味しいね」

 にこっと微笑んで、彼女の目を下からのぞき込む。

「奏のことは、全部好き」
「私も」

 顔を近づける。
僕の唇はもっと柔らかな唇に触れ、舌を絡めた。
彼女が逃げようとするのを、抱き寄せて離さない。

「も……。むり……」

 彼女のささやくような声に、もう一度軽く口づけてから離した。

「僕のこと、好き?」

 額を合わせて、彼女の黒い目をのぞき込む。

「好き」

 はにかむように赤らんだ頬で、彼女はそう答えた。

「よかった。じゃあ、付き合ってくれるってこと?」
「私は、もうそのつもりだったけど」

 僕の腕の中で、赤らめた頬の奏がうつむく。

「よかった」

 昼休み終了を知らせる予鈴が鳴った。
僕はもう一度彼女にキスをしようと、顔を近づける。

「もう教室に戻らなくちゃ」

 それは明確に拒絶されたので、すぐに顔を離す。
手を差し出したら、彼女はすぐに僕の手に自分の手を重ねた。
そっと繋いだ手の、指と指を絡める。
慌ただしくなった校内を、僕たちは同じ教室に向かって歩き出す。
僕は奏のくるくるした短い髪の毛先を見ている。

「今日も授業終わったら、部活だね」
「ホントにご飯、あれだけで大丈夫なの?」
「うん。平気」
「何か、お弁当的なもの作ってきてあげようか? ゼリーとかパンばっかりだよね」
「ふふ。奏もちゃんと僕のこと見てくれてたんだ」
「当たり前でしょ?」
「おにぎりも好きだよ」
「じゃ、おにぎり弁当」

 ここに来た時は迷路のようだと思っていた校内にも、すっかり慣れた。
階段を上り、廊下を歩いて自分たちの教室に近づく。
最後の角を曲がる手前で、僕は繋いだ手を引き寄せ、彼女の指先にキスをした。

「奏の方こそ、ちゃんと寝てご飯食べて、体を休めなきゃいけないんだから。そんなことしなくていいよ」

 彼女の可愛らしい目が、まっすぐに僕を見つめた。

「ねぇ。宮野くんって、本当はなにが好きなの?」
「奏だよ」
「じゃなくて、食べ物!」
「んー。刺身?」
「さ、刺身か。さすがにお刺身の手作り弁当は、ハードル高いなぁ」
「気持ちだけで十分だから」
 もう一度頬を寄せ、その髪にキスをする。
「奏のその気持ちだけでうれしい」
「うん」

 不意に彼女との視線がぶつかり合う。
奏はついと背を伸ばした。
彼女の柔らかな唇が、僕の口元近くに触れる。

「早く教室戻らないと、授業始まっちゃうよ」

 奏は軽やかな足取りで、僕を残し追い越してゆく。
くるりと振り返ったスカートが、はらりと翻った。

「また部活のあとでね」

 奏に少し遅れて教室に入ると、彼女は他の生徒としゃべりながら、もう席につこうとしていた。
僕はまだ彼女の触れた感触が残る口元を隠したまま、自分の席に戻る。
すぐに次の授業の先生がやって来て、僕はいつものように机に寝転がった。

「宮野! 寝るのはいいけど、耳だけは聞いてろよ」
「はーい」

 いくら先生にそう言われたって、退屈な話しなんて聞いていられるわけがない。
僕と奏は付き合いだした。
彼女は僕のことを好きだと言ってくれたし、僕も彼女が大好きだ。
それなのに……。

 自分の左手を広げ、じっとそれを見る。
もう人魚ではない僕の手は、爪は丸く短くなり、指と指の間にあったヒレもない。
びっしりと細かい鱗で覆われていた肌の表面も、今はむき出しのつるつるだ。
これが人間になるってこと? 
真実のキスを奏と交わしたはずなのに、僕には僕にかけられた魔法が、きちんと動いたような気がしない。
なぜだ。
3列向こうの席にいる奏を見る。
彼女は小さな机の上に教科書とノートを広げ、熱心にメモをとっていた。
彼女が僕に嘘をついているとは思えない。

「ちゃんとキスだけじゃなくて、今度は『付き合って』も言ったのになぁ……。あっ!」

 僕はぱっと起き上がると、後ろを振り返った。
すぐ真後ろに座っている岸田くんと目が合う。彼の眉間に、くっきりとしわが入った。

「なんだよ」
「……。ううん。何でもない」

 今はまだ授業中だった。
もう一度前を向いて、机につき伏す。
奏の「好き」は岸田くんが一番で、僕が二番だからかな。
そうなのかな。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
奏は先生に言われた通り、教科書のページをめくっている。

 ようやく放課後になって、僕は一番に奏に駆け寄った。

「部活行くでしょ? 一緒に行こう」

 彼女の帰り支度が終わるのを、待ちきれない。
鞄を背負い一緒に教室を出たとたん、彼女の手を取り、廊下を急ぐ。

「ねぇ、なになに? どうしたの?」

 僕は早く奏に確認したくて、彼女と手を繋いだままぐんぐん進む。
放課後の廊下は、通常教室じゃないところだと、人が少ないことを知っている。
そしてこのルートが、プールへ向かうには一番近い。
僕は辺りに誰もいないことを確認して、彼女を壁に押しつけた。
両手を壁につき、彼女をのぞきこむ。

「ね、本当に僕のこと好き?」
「なに? ずっとそうだって言ってるじゃない」

 はにかむように微笑んで、奏はぱっと横を向いた。

「私のこと、そんなに信用できない?」

 僕の腕から抜け出そうとする彼女に、ぎゅっと体を押しつける。
僕にとってそれは、とても大事なこと。

「僕と岸田くんと、どっちが好き?」

 とたんに奏は、ムッと眉を寄せた。

「ねぇ、なんでそんなこと聞くの」
「前に、岸田くんが好きだって言ってたから」
「それはそうだけど……」

 奏はうつむいた。
その頬に触れると、ぷいと顔を背ける。
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