人魚な王子

第3話

「やっぱりそうだったんだ」
「今はもちろん、宮野くんが一番だよ」
「本当に?」
「疑うの?」
「疑ってないよ」

 そう。疑ってない。
疑ってはいないんだ。
僕は彼女のことなら、なんだって許すし、なんだって受け入れる。

「ねぇ、奏からキスして」

 そうお願いしたら、しばらく横目でチラチラと周囲を確認してから、ようやく奏はこっちを向いた。
そのままぱっと顔を近づけ、ちゅっと唇に触れる。

「これでいい?」
「まだ足りない」

 今度は僕の方から彼女に口づける。
舌を絡め、しっかりと思いが届くように。

「ねぇ。ちょっと、もう……」
「なに?」
「もうだめだから」
「いやだ」

 さらに深く強く絡ませる。
僕にかかった魔法は、まだ解けていない。
人の気配がして、ふと顔を上げた。
誰もいなかったはずの廊下に、岸田くんといずみが立っている。

「お前らさぁ。浮かれてんのは分かるけど、もうちょっと時と場所を選べよ」

 奏はぐいと僕を押しのけた。
彼女の顔は真っ赤だ。
やっぱり岸田くんに見られて恥ずかしかった? 
すれ違いざまに、岸田くんの「あーうぜー。俺も彼女ほしー」という言葉と、大きなため息。
そんな彼の隣にくっついていたいずみは、振り返って僕たちに言った。

「よかったね! おめでとう!」

 いずみは最後に、べーっと赤い舌を見せる。

「なにあの、『べー』ってやつ」
「何でもないよ! 早く行こう。遅刻しちゃう」

 奏は僕を置いて、先に走って行ってしまった。
まだ彼女との感触が残る唇に触れる。
確かに思いは通じ合って、キスもしたはずなのに、それでもやっぱり人間になれた気がしない。
僕は人魚のままだ。
奏は本当は、僕を好きじゃないってこと?

 水着に着替えプールに入った僕は、ビート板にぷかぷか浮かんで、ずっとそのことを考えている。
ギラギラした太陽は、今日も激しく照りつけていた。

「なぁ宮野。バタフライのコツ教えて?」

 時々他の水泳部員がやってきて、そんなことを聞くから、分かったような分かってないことを答える。
本当はもっと大事なことを考えなくちゃいけないのに、ここにいてはそんな暇もない。
僕はお気に入りのビート板をプールサイドに置くと、ぽちゃりと頭まで水に沈めた。
そこから一気に25メートルを泳ぎきると、そのまま水中でターンをし、元の場所まで戻ってくる。
顔を出したら、ちょうどいずみが何かの棒みたいなものを、プールの水の中に突っ込んでいた。

「宮野くん。変わったよね」

 何をやってるのかと思ったら、水温を測っているらしい。
いずみは泳がない代わりに、いろんなことをしている。

「全然変わってないよ。なんで変わらないのか、不思議なくらいだ」
「え、変わったよ」
「どこがどんな風に変わった?」

 そう言ったいずみを、僕は水中から見上げた。
いずみは僕の本当のことを知っている。
だからいずみには、僕のどこが変わったのか、分かるかもしれない。

「なんてゆーか、丸くなったっていうか。その、愛想もよくなったし、他の人ともちゃんとしゃべるようになったし。コミュニケーションもとれるようになったっていうか……」
「人間っぽい?」
「あはは。まぁ、そんな感じかな。奏と付き合い始めてから、ようやく落ち着いた感じ」

 いずみはいつものように、ノートに何かの記録をつけている。
僕は置いてあったビート板を手に取ると、再び水に浮かんだ。
彼女はこそりとつぶやく。

「人間になれてよかったね」
「……。それだけどさ、僕には自分が、変わったような気がしないんだ」
「は? なにそれ。意味分かんないし。人間になれなかったってこと?」
「奏は、本当に僕のことが好きなのかな」

 彼女はプールサイドにしゃがみ込んだまま、持っていたノートを胸に抱え込んだ。

「なにそれ。奏のこと、もう飽きちゃったの?」
「飽きる? 飽きてはないよ。ただ分からないだけ」
「ふ~ん。そうなんだ。私は普通に、宮野くんのこと好きだよ」

 いずみの言葉に、僕はびっくりして彼女を見上げる。

「好き? 僕のこと? いずみが?」

 彼女は、その長くて黄色い髪をかき上げた。

「そりゃ最初は……。怖いって思ってたし不気味な感じだったし。ヤだなって思ってたけど、今はそうじゃないって分かったから」

 人間じゃないって分かっている僕のことを、いずみは好きだって言うの? 
僕が応えられずにいると、彼女は横顔を向けたまま言った。

「だって、変わったもん。私は今の宮野くんの方が好き」

 彼女はすっと立ち上がると、そのまま行ってしまった。
ストップウオッチを片手に、他の選手のタイムを計りに行く。

 いずみが僕を好き? 
僕は変わった? 
人魚のままなのに? 
真実のキスを交わすのは、一人じゃなくてもよかったんだっけ。

 何やら騒がしい動きがして、滅多に来ないコーチが、普通の服を着た知らない人間を連れて、プールサイドにやって来た。
ビート板に浮かぶ僕に向かって、手招きをする。

「おい宮野。ちょっとこっち来い。お前に取材の依頼が来てるぞ」

 強い日差しの下、焼けるように熱いコンクリートの上なんて、歩きたくもないんだけど。
それでも先生の言うことには従わなくてはいけないから、僕はプールから上がると、彼らに近づいた。
知らない人間は2人もいる。

「なに?」
「水泳雑誌の編集部の方だそうだ。お前の話を聞きたいって」

 2人のうち1人は、首から大きな機械をぶら下げていた。
僕も見たことはある。
カメラとかいうやつだ。
大きなレンズをつけたそれを、僕に向けて何かしている。

「話って、なに?」

 僕には答えられないことが多い。
もう1人の人が色々聞いてきたけど、すぐに返事を返さないでいると、先生が全部代わりに勝手に答えてくれるから助かる。
岸田くんが呼ばれた。

「彼はどんなチームメイトですか?」
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