人魚な王子

第2話

 プールに戻ると、男子50m自由形の、最終組が出発したところだった。
今は予選なので、後のオープン競技を含め、決勝の10人に残るような成績を出さなければならない。
岸田くんは第2レーン。
25秒を切るようなレース展開だ。
誰の目で見ても、確実に前回の大会より全体的なレベルは高い。
岸田くんは24秒60でゴールしたけど、この組では5位だ。
先の19組、第2レーンで泳いだ選手に0.22秒差で負けている。
前回大会で優勝した岸田くんですら、この順位だ。

「なんだよ。そんなんじゃダメじゃないか」

 俺はおにぎりのビニールをペラペラとめくると、それにかぶりついた。
おにぎりの海苔は、パリパリしてるより、しっとりしている方が好き。
このビニールとやらは、海にいるときにはかなり迷惑していたし大嫌いだったけど、陸に上がってその便利さを知った。

 岸田くんとも、学校のプール前広場でケンカしてから、ずっと話せていない。
それでも僕が彼に負けるのはいいけど、他の人に岸田くんが負けるのは嫌だ。
そう思える僕は、やっぱり彼のようになりたかったんだと思う。

 僕の出場予定である、50mの男子バタフライが始まった。
予選6組、エントリー数60種目。
30秒台後半から始まったレースは、28から27秒代で徐々に順位を上げていく。
見下ろすプールに、真っ直ぐ引かれたレーン。
その中を、たくさんの人たちが泳いでいく。
今日だけは僕は、その人間の中の一人になる。

「なんだ。たいしたことないな」

 そうつぶやいたら、いずみは力強くうなずいた。

「ぶっちぎりの予選通過、待ってるよ」

 観客席を出て、ロッカールームへ向かう。
泳ぎ終えたばかりの岸田くんが、更衣室前の廊下に立っていた。
彼とは出来るだけ、直接顔を合わせたくない。
だけど本当は、誰よりも今話したい。

「宮野。頼んだぞ」
「余裕だね」

 この大会のレベルなら、10位入賞で決勝レースに出られるのは、僕と岸田くんしかいない。
彼はうつむいたまま、片手を上げた。
僕はそれにどうすべきなのかを、もう知っている。
彼のいつもサラサラした髪は、水に濡れていた。
パチンと強く重なり合った手は、一瞬だったかもしれないけど、僕にはきっと、永遠の記憶になる。

 水着に着替えた僕は、静かに息を吐き出した。
初めて水着を履いた時は、気持ち悪くて仕方なかったのに。
この二本足も、すっかり見慣れてものだ。
このロッカールームは、学校のプールと同じような臭いがする。
僕はこの臭いを嗅ぐたびに、きっと全てを思い出す。

 プールサイドへ出た。
男子50mバタフライ、5組、50種目。
僕は最終組に入れられていた。
合図の笛が鳴り、飛び込み台の上に上がる。
戦うのは、自分のタイムだけだ。
合図が鳴り、水に飛び込む。
50mだから、このプールだとターンなしの全力疾走。
楽勝過ぎる。
僕は約束通り、25秒87の、トップで予選を通過した。

 分刻みのスケジュールは進む。
観客席に戻っても、みんなそれぞれのタイムスケジュールで動いているから、全員がそろうことはなかなかない。
いずみだけがずっと残って、電光掲示板に表示される記録の、全員分をノートに付けていた。

「お疲れ」

 いずみはそう言って、ニッと片方の眉を上げた。
その自信に満ちた表情は、まるで自分が泳いできたみたいだ。

「余裕すぎた」
「うん。カッコよかったよ。次もこの調子でよろしく」

 入れ替わりの激しいプールで、岸田くんが400mの自由形に姿を現した。
今度はタイム決勝2組。
彼は50mを泳いだ後で、すぐ400mを泳ぐ。
選手層の薄いうちのような学校では、こんなハードスケジュールも仕方がない。
4分21秒41、全体3位で終わった。
電光掲示板に、決勝レース最終結果の名前が上がる。
『岸田 智』の文字が光った。

「岸田くん、3位入賞した!」

 そこにいた部員たちは、うれしそうな声を出す。
男子400の自由形は参加者が少ないから、これでこの競技はお終い。
岸田くんに残っている個人競技は、200の個人メドレーにだけになる。
順位争いには無関係な、公式記録を残したい人のためのオープンが控えているから、本当の決勝出場者の名前が出るのは、その後だ。

 休憩を挟んで、100mバタフライ、オープンのタイム決勝。
5組42種目。前回大会の記録を持っている僕は、もちろん最終組中央第4レーンだ。

「Take your marks」

 審判員の腕が上がる。

「ピッ!」

 合図が鳴った。
僕は一呼吸置いて、全員が飛び込んだのを見届けてから、水に入る。
100mだから、このプールではターン1回のやつ。
54秒28の、2位との2秒26差で楽勝。
問題なし。
プールの壁につかまったら、会場から大歓声が上がった。
僕にはそれは、遠い世界から響く波音のように聞こえて、プールから上がって色んな人に、「すごいですね、おめでとうございます」って言われるまで、なんのことだかさっぱり分からなかった。
大会新記録だったらしい。
観客席に戻るまで、ちらちら見られていたのは、そういうことか。
ようやくみんなのところへ戻れたけど、もうそこに奏も岸田くんもいない。
やっぱりいずみだけが座っている。

「奏は?」
「次の個人メドレーに行った」

 視線をプールへ戻す。
彼女の言った通り、奏の女子200m個人メドレーが始まった。
タイム決勝3組。
彼女は2組第5レーンだ。
2分38秒58。全体8位。
好成績だったと言う人もいれば、そうじゃないと思うこともあるのかもしれない。
15人が泳いでの8位入賞。
奏の表情は明るくはない。
僕は最後に、どうしても彼女の笑顔が見たい。

「さぁ、行こうか」

 僕にはまだ、次のレースが待っている。
この仲間たちの間で、決勝を泳げるのは二人だけしかいない。
奏の200m個人メドレーのすぐ後で、岸田くんの同じレースがある。
僕は今日は、彼とロッカー前で一言交わしただけで、他では会えていない。
< 51 / 62 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop