人魚な王子

第3話

 会場の雰囲気が一変する。
男子200m個人メドレーの決勝レースが始まった。
長水路が得意な岸田くんは、過去の公式記録から最終組に入っている。
その最終組の登場に、会場が沸き立つのが分かる。
岸田くんの鍛え上げられた足が、飛び込み台の上に上がった。

「ピッ!」

 合図がなって、全員がきれいに飛び込む。
このレースが彼個人にとって、最後の試合だ。
水しぶきを上げ、一直線に水面を泳いでいく。
会場は大歓声に包まれていた。
10人での決勝レースに、俺はぐっと拳を握りしめる。
岸田くんは、予選タイム通りの5位から先に抜けられない。

「ねぇ! こんなところで負けてちゃだめだろ!」

 たった50mの、決められた4種類の泳ぎ方での勝負。
彼は得意とする最後の自由形で、そのスピードを取り戻した。
最後のターンを決める頃には、遅れを取り戻し、先を泳ぐ他の2人に並ぶ。
第3、第6レーンの選手との、荒れた試合になった。
ほぼ横並びになってしまったいま、誰がトップを泳いでいるのか、全く分からない。
ほぼ3人が同時に、ゴールに着いた。
この会場にいる全ての人々が電光掲示板を見上げる。
2分10秒63。
岸田くんの手は、その誰よりも早くゴールに触れていた。
歓声があがる。
プールから出てきたばかりの岸田くんと、二階席の僕を目が合った。
それは本当に、間違いなく彼と視線がぶつかったんだ。
僕は彼に向かって、大きく手を振る。

「岸田くん、おめでとー!」

 彼はそれにふっと笑うと、大騒ぎしている2階席の仲間に向かって手を振った。
岸田くんは僕に怒ったけど、きっと僕のことを嫌いじゃない。
それは僕だって、彼のことを本当に嫌いじゃないことと、一緒だ。
プールサイドから戻ってきた彼は、僕にニッと微笑む。

「じゃ、後はよろしく」
「任せろ」

 パンと気持ちいい音を響かせ、ハイタッチを交わす。
そんなこと、任されなくても大丈夫。
この僕が負けるわけない。
時間が来て、プールサイドへ向かう。
100mバタフライ決勝。
一緒に泳ぐ予定の選手たちが、僕をジロジロ観察してくるけど、もうそんな視線にびくびくしたりしない。
長い笛がなった。
出番だ。

「Take your marks」

 台の上にあがる。
僕はただ、じっと光る水面を見ていた。
「ピッ!」という合図と共に、そこへ飛び込む。
僕は泳ぎながらずっと、ルールブックのバタフライの項目を暗唱していた。
スタートはうつぶせ、飛び込み後は深く潜りすぎないこと。
水中でのサイドキックは許される。
両腕は水中を同時に後方へかき、水面上を同時に前方へ。
全ての足の上下動作は同時に行ない、交互に動かしてはならない。
頭は水面上に、出ていること! 

 壁に手を着き、ゴールタッチ。
僕はすぐに水から顔を出し、電光掲示板を見上げた。
23秒98。
表示の最後のところに、『NEW』の印がついている。
高校生新記録での優勝だ。
会場のどよめきをかき消すように、僕の居場所である2階席の一部が騒いでいた。
僕はそこへ向かって手を振る。
彼ら全員が、僕に向かって手を振り返してくれた。
泳いでいてよかった。
心からそう思える。
僕はようやく、この世界に認められた気がした。
みんなが盛大に喜んでくれたけど、僕にとって本当に大事なレースが、この後に控えている。

 最後のレースは、4人が100mのクロールで泳ぐフリーリレーだった。
男女混合で泳ぐこの競技は、事前に学校で計測した、クロールの早い4人が選ばれていた。
僕と奏と、岸田くんと岸田くんの次に早かった男子の松下くん。
水着姿の奏がすぐ真横に立っていて、僕は彼女に話しかけたいけどずっと声をかけられないでいる。
僕と奏が同じチームになるなんて、思わなかった。

「宮野。優勝よろしく」

 松下くんは僕の肩に手を乗せると、そう言った。

「俺、優勝とかしたことないから。仲間に入れてくれ」
「もちろんだよ。任せといて」

 そんなこと言われたら、僕だって大人しくしてはいられない。

「はは。お前が言うと、安心感あるな」

 彼は恥ずかしそうにそう言うと、照れたように笑った。

「あの時は、悪かったな」

 彼が小声でつぶやくのを、僕はどうにか聞き逃さずにいた。

「なにが?」
「なんでもねーよ!」

 立ち去る松下くんの向こうに、立っている奏を見つけた。
僕は彼女の様子をこっそりとのぞきこむ。
奏の表情は硬くて、緊張しているのか、まだ僕に怒っているのかが分からなかった。
彼女とはあれから、もうずっとしゃべっていない。
目も合わない。
すくなくとも僕は、彼女の笑った顔を見ていない。
だからきっと、これは僕が彼女にあげられる最後のプレゼントになる。
それを喜んでもらえるのなら、僕はなんだってする。
きっと他には、してあげられることはもうないから。

「奏と一緒に泳ぐのに、負けるわけないじゃないか」

 第一泳者は奏。
次に松下くん、岸田くんと続き、最後は僕だ。

「何があっても、大丈夫だから」

 飛び込み台に上がった彼女の背に、そう声をかける。
反応はない。

「僕のこと信じて」

「Take your marks」

 審判員の腕が上がり、僕は彼女から距離をとる。
もう返事すらしてもらえない。

「ピッ!」

 彼女が飛び込んだ。
固唾を飲んで、彼女の泳ぎを見守る。
大丈夫。
奏はきっと、分かってくれる。
5組38種目の4組目第4コース。
僕たちの敵はここにはいない。
本当にタイムを争うことになるのは、一緒には泳がない最終組に残っている10チームだ。

「どれだけ抜けばいいの?」

 奏はこの組の3位でターン。
僕は隣にいる岸田くんに聞いた。
奏と松下くんが交代する。

「ぶっちぎりの一位で」
「分かった」

 松下くんは順位を下げ、4位に追いつかれた。

「いいか、失格だけはするなよ!」

 そう言い残して、岸田くんは飛び込む。
僕はすぐに台に上がり、彼の泳ぐ背を視線で追いかけた。
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