紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
「ゆっくり。静かに。吸おうとしなくていいんだ。落ち着いて、ゆっくりでいい」
 ――あれ?
 この声は、もしかして……。
 玲哉……さん?
 私に優しい声をかけてくれているのは玲哉さんだった。
 こんなところまで来てくれたの?
 私を連れ戻しに来てくれたの?
「ゆっくりでいいんだよ。自分の呼吸を意識して。静かにゆっくりでいい」
 私の呼吸を落ち着かせるようにゆっくりと言葉をかけてくれる。
「約束しただろ。必ず探しにいくって。俺はしつこいんだって。俺を誰だと思ってるんだ?」
 ――冷徹な経営コンサルタント?
 ううん……。
 大事な旦那様の胸にもたれかかって、私はゆっくりと静かに深く息を吸い込んでいた。
 母が立ち上がりる。
「さ、あなた、行きましょうか」
「ん、そうか……」と、慌てて父も立ち上がる。「大丈夫か?」
 父を無視して、母が玲哉さんに告げた。
「わたくしは当分の間海外で休養します。投資ファンドとの出資契約については夫に委任しますから、早急に締結できるように詰めておいてくださいな。いいですね」
「分かりました。そのように進めます」
「娘のことも、よろしく頼みますよ」
「もちろんです」
 両親が出て行った個室でソファに並んで座ったまま私は夫の胸に顔を埋めていた。
「どうしてここが分かったんですか?」
「宮村さんに連絡したら、ホテルでご両親と待ち合わせていると教えてくれたんだ。ラウンジの人には止められたけど、宮村さんとスクラム組んで突破した」
「でも、どうして来てくれたんですか?」
「俺もなんて言ったらいいのか分からないんだ。いつも君に話せと言っているくせに、大事なことは言葉では表せないな」
 だけど、と玲哉さんは言葉を継いだ。
「言いたいことは心の中にあったんだ。たしかに、間違いなく、君に伝えたい気持ちがあったんだ」
 私の肩を抱く手に力がこもる。
「君を失って初めて君の痛みを感じた」
 言葉では伝えられない痛み。
 悲しみ、つらさ、寂しさ……。
 言葉にした瞬間、それは私の心の中にあるものとは別の虚像として外に映し出されるだけだ。
 相手はそれを受け取って分かったような気になるだけで、その痛みは私の中から消えるわけではないし、何も伝わっていないんだ。
 玲哉さんも、そして、私だって、お互いのことを何も理解できていない。
 ただ寄り添うだけ。
 だけど、私の居場所はそこなんだって、今なら分かる。
 私たちが夫婦でいる理由はそれだけなのかもしれない。
 だけど、お互いの痛みを感じ合えるなら、それだけで充分なのかもしれない。
 私は玲哉さんに抱きしめられながら、あらためて旦那様の優しさにもたれかかっていた。
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