紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 あくまでもなめらかに車を発進させつつ、駆け出し俳優が演じる不良の口調みたいに彼がたずねた。
「で、どこにいくんですか?」
 吐き出すように私も言葉をぶつけた。
「帰れないところへ連れていってください」
 道路に出る手前で一時停止をしたところで、彼のため息が返ってきた。
「それは依頼主の関係者としての業務命令ですか?」
「できるなら、それでお願いします」
「分かりました」と、流れるように左へハンドルを切る。「コンサルタント業務の付帯サービスということで承りましょう」
 六月の午後はまだ日が高くまぶしい。
 東京タワーが正面に見える坂を上りながら彼がたずねた。
「具体的に、行きたいところはあるんですか?」
「どこでもいいです。久利生さんの都合のいいところで」
「私は事務所に戻るところなんですけれどもね」
「じゃあ、それでいいです」
「事務所は自宅です。個人事務所なので」
「それなら、その方が都合がいいです」
 赤信号でもないのに坂の途中で車が止まった。
「降りてもらえますか。業務ではないようなので」
 静かな声が車内を漂う。
 感情を見せない男。
 私も自分の感情を見せるのははしたないことだとしつけられて生きてきた。
 良家のお嬢様という仮面をかぶらされて、心は常に深い森の泉のように奥ゆかしく穏やかでなければならなかった。
 でも、私だって人間だ。
 好き嫌いはあるし、私の中には常に押さえ込まれた感情の嵐が渦を巻いている。
 だけど、それを他人に見せることは許されなかった。
 悲しみはもちろん、喜びですら苦い薬として飲み込まされてきたのだ。
 ただ、この男は私とは違う。
 相手を説得し、その場を支配するために感情を完璧にコントロールする術を身につけている。
 心は磨き上げた鏡みたいに滑らかで、そこに自分自身の感情を映しながら絶えず自分の状態を把握し、ノイズを打ち消すように常に修正しているのだ。
 駐車場で見せたうんざりしたような表情も、ぶっきらぼうな口調も、ただ単に私を追い払うためのわざとらしい演技だったんだろう。
 この男から感情を引き出さなくちゃ。
 何も始まらないうちに、私の人生が終わってしまう。
 どうしたらこの男を怒らせることができるんだろう。
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