紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
◇
ふわりと空を飛んでいるような心地から目覚めると、そこは狭い空間だった。
――ここはどこ?
「俺のマンションだ」
えっ……、何?
眉間にしわを寄せた男の顔がすぐ近くにある。
退こうとしても無駄だった。
私はエレベーターの中でお姫様のように抱きかかえられていたのだ。
車から私を出してここまで連れてくるのは大変だっただろう。
中身は子供だけど、さすがに体は子供じゃない。
「あの……」
「ここまで来て騒ぐなよ」
「いえ、あの、降ろしてください」
逃がさんとばかりにしっかりと抱き直す。
「着いたぞ」
エレベーターの扉が開く。
しんと静まりかえった廊下に男の足音だけが規則正しく響く。
まるでさっきのセダンでドライブの続きを楽しんでいるかのように軽やかに一番端のドアまで連れてこられた。
立ち止まった男が顎をクイと振る。
「カードキーを出してくれ。スーツの右ポケットだ」
え、あ……。
「違う、そっちは左だろ。右も左も分からないのか」
だって、こっちから見たら右だし。
だからもう、降ろしてくれればいいじゃないですか。
なんとか手探りで鍵をつかんで渡そうとすると、顎でドアを指す。
「手が塞がってるんだ。タッチして開けてくれ」
解錠してレバーハンドルを下げると、ドアの隙間に靴を差し入れて男が私を部屋へと招き入れた。
入ってすぐのリビングは角部屋で、東側から北側まで連なるパノラマビューの窓には、鮮やかな順光の空にくっきりと映える東京タワーの展望台が真正面にあった。
隣の寝室にはキングサイズベッドが置かれていて、男はその上に私を無造作に投げ出すと、翼を広げるようにスーツを脱いだ。
ベッド脇の壁に近づくとクローゼットの扉が音もなく開き、そこに吊されているのはすべてスーツだった。
私はベッドの上で体を起こしてたずねた。
「毎日スーツを選ぶのが趣味なんですか?」
「逆だ。服を選ぶ時間がもったいない。季節ごとに上から下までまるごとプロにコーディネートしてもらって、それを二十パターン用意して毎日順番に着るんだ」
「カジュアルウェアは別の部屋にあるんですか?」
「ない」
え?
「俺はいつもスーツだ。休みの時は上を脱いでシャツになれば邪魔にはならないだろ。ふだん寝る時は下着だけで何も着ない。ここは二十四時間空調だから季節は関係ないからな」
そういう問題じゃないと思うけど。
でも、言われてみれば部屋の中はずいぶんとシンプルだ。
大きなベッドの他は丸いコーヒーテーブル。
その上にはデジタル時計だけ。
リビングにもローテーブルとソファセットくらいで、観葉植物もテレビもなかった。