紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 玲哉さんが先に婚姻届に記入する。
 ペンを渡されて、仕方なく私も署名した。
「初めての二人の共同作業だ」
 言葉だけはそれらしいけど、こんなのただのお役所仕事じゃない。
「あと、これは君に預けておく」
 玲哉さんが離婚届にも署名して、私の欄は空白のまま渡された。
「どうしてですか?」
「続けたくなくなったら君の意思を尊重する。ビジネスは常にフェアであるべきだ。俺の人生の師の教えだ」
 そんなの私には関係ないし。
 婚姻届に署名しちゃったけど、なんだか本当に離婚届も同時に必要かも。
「コンサルタントの人ってまわりくどくて面倒ですね」
「なんだと?」
「そんなことより、一番大事なことを忘れていませんか」
「……なんだ?」
「ちゃんとプロポーズしてください」
 虚を突かれたように、玲哉さんが一瞬目を伏せる。
 耳が真っ赤だ。
 ためらいがちに顔を上げて、彼がつぶやく。
「勘違いするな。これはただの契約だったはずだぞ」
 私は人差し指を立てた。
「契約には手続きが必要です」
 お、おう……と、玲哉さんは口ごもった。
「お役所仕事かもしれませんが、規則は規則ですので、ご協力ください」
 私は手のひらを見せて両手を差し出した。
「では、契約手続きをお願いします」
「分かったよ」と、彼は軽く頭を振った。「二度は言わせるなよ」
「はい」
 私は耳に手を当てた。
「紗弥花、俺と結婚してくれ」
 彼はしっかりと私を抱きしめてくれた。
 そして、優しいキスの後に私の目をじっと見つめて彼がささやいた。
「俺だけの花になってくれ」
 私は彼の鼓動を聞きながら胸に顔を埋めて答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 最悪の出会いからまだ二十四時間も過ぎていないのに、私たちは将来を誓い合っていた。
 生まれて初めて自分で決めたことだけど、不安も後悔もなかった。
 どうなるかなんて誰にも分からない。
 だから、自分で決めればいい。
 そんな私を受け止めてくれる人がいる。
 ――玲哉さん。
 私の大事な旦那様。
 リビングの窓から見える東京タワーがすっかり高くなった日差しを受けて輝いていた。
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