紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
 私はカウンター越しに玲哉さんにたずねた。
「あのう……。私、もう少しここにいてもいいですか」
「家に帰らないのか?」
「はい」
 迷いはなかった。
 もう、あの家には帰らない。
 何不自由ないけど、自由もない家。
 自分の気持ちを押し殺して、じっと息を止めていなければならない場所。
 それだったら、生きたまま土の下に埋めてもらったって同じだ。
「かまわないが、一つ条件がある」と、玲哉さんが手を拭いてこちら側へ来た。
「何ですか?」
「俺の妻になれ」
 ――はい?
「どういうことですか?」
「契約における重要事項を二度言わされるのは嫌いだ」
「すみません。言葉は聞こえたんですけども、『妻になれ』という意味が分からないんです」
「言葉通り、文字通りだ」
「妻ですよね」
「だから、そうだ」
「どうしてですか?」
 玲哉さんは私と向かい合って、じっと目を見つめてきた。
 ちょっと照れくさくて目を伏せようとすると、顎に手を添えられて顔をのぞき込まれた。
「昨日、わざと俺にめちゃくちゃにさせて、死ぬつもりだったんだろう」
 心の奥を見抜かれていた。
「俺が君を突き放していたら、君はどうなっていたか分からなかった。だったらいっそのこと、他の男に渡すくらいなら、俺が君を受け止めてやりたかった。あれが俺なりの責任の取り方だった」
 それはつまり……。
 私のことを愛してくれたってことですか?
 なのに、彼の言葉は期待外れだった。
「俺のせいにして死なれてはかなわないからな。だから、俺に最後まで責任を取らせろよ」
 なんだか、あんまり納得できない。
 聞きたいことはそんなことじゃないのに。
 なんだか急に心の温度が冷めていく。
「でも、いくらなんでも急すぎますね。心の準備ができてませんよ」
「書類の準備なら整ってるぞ」と、玲哉さんがリビングの窓際に置かれたライティングデスクの引き出しに飛びついた。「俺は経営コンサルタントであり、弁護士だぞ。書類なら何でも揃ってる。なんなら、これもあるぞ」
 離婚届の用紙も出される。
「いつでも契約解消可能だ。ビジネスは常に出口戦略を用意しておくべきだ」
 ――違うの。
 大事なのはそんなことじゃないのに。
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