だって、君は俺の妻だから~クールな御曹司は雇われ妻を生涯愛し抜く~
「落ち着け、先走るな」

「私は落ち着いていますよ。それに話すことなんてありません。この結婚は契約の上に成り立っていて、それを解消する出来事があった。それだけです」

 感情が振り切れて、自分でも驚くほど声も表情も無機質になる。

 私の回答に久弥さんは眉をひそめた。怒っているというよりどこか悲しげだ。

「俺は」

 そこで彼のスマートフォンが鳴った。今ここで話す時間も余裕もない。それもわかったうえで私はわざとこのタイミングを狙って切り出したのだ。

「朝のお忙しいときにすみません。お仕事に行ってください。ひとまず私はここを出ていきますから、これに記入をして提出されたらまたご連絡いただけますか?」

 ふいっと彼から視線を逸らす。

 久弥さんは肩から私の両頬に手を移動させ、懇願めいた表情で額を重ねてきた。

「瑠衣、それだけじゃないんだろう。なにがあった?」

 刹那、心の中を見透かされたのかと思った。動揺しそうになるのを必死に抑える。

「とにかく一度話そう。仕事が終わったらここで待っていてくれ。少なくとも俺は、別れる気はない」

 なぜ?

 そう尋ねようとする前に唇が重ねられる。久しぶりの口づけに胸がざわつき、息が苦しくなった。

 おもむろに唇が離れ、久弥さんは切なげな面持ちで私を一度抱きしめる。

「今日は絶対に早く帰ってくる。だからどこにも行くな」

 名残惜しそうに久弥さんは玄関を出て、ひとり残された私はその場にへたり込んだ。指先で唇を押さえ、うるさい心臓を落ち着かせようと躍起になる。

 まさかキスされるとは思ってもみなかった。気持ちが傾きそうだった自分が情けない。

『久弥とは別れなさい』

 昨日、病室で告げられた光子さんの言葉で、すっと頭の芯が冷える。そうだ。私は久弥さんとの関係をきちんと終わらせないとならないんだ。

 そこから私は感情のスイッチを切り、身支度を整え始めた。
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