おとなり契約結婚〜幼馴染の小児科医が推しを盾に結婚を迫ってくる件〜

「ちぃ、おかえり」
「香月くん!」

 最寄駅に到着し改札を出た千春は突如として現れた香月から声を掛けられ小さく叫んだ。
 
「迎えに来なくていいってメッセージ送ったじゃん……」
「コンビニ行くついで」
 
 香月は迎えに来た口実として、コンビニのレジ袋を千春に見せた。千春は呆れて物が言えなくなった。わざわざ駅前まで来なくてもコンビニなら家から歩いて三分の場所にある。

 千春はそれでも文句を言わず香月の隣に並んだ。帰宅途中に香月が突然現れるのにはもう慣れっこだった。

 すっかり日が暮れた住宅街を二人で歩いていく。先ほどまで煌びやかな世界にいたのに、あっという間に日常に戻されていく。

 梅雨が終わりかけの七月。五時過ぎはまだ日暮れには早い。アスファルトからの熱気で眩暈がしそうだった。

「楽しかったか?」
「うん!すっごく!」

 バッグの中に大事にしまってあるパンフレットは寝るまでに三回見返そうと心に決めていた。
 
「ちぃは本当に黄金塚が好きだよなあ……」
「うん、大好きだよ」

 黄金塚歌劇団に出会ったおかげで、千春の人生は大きく変わった。
 演目の舞台として描かれる中世の世界史は得意になったし、脚本の原作として使われた古典文学も頑張って読破した。
 劇場へ通うために一生懸命働いてお金を稼ぎ、体調に気を配る。日常のすべてが黄金塚のために費やされる。
 
(黄金塚さえあれば、香月くんがいなくても平気だよ)
 
 心の中では饒舌に語ることができても、実際に口に出すことはなぜかはばかられるのだった。

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