愛しのディアンヌ
5 ルイージの暗い過去
 ガサガサ。二匹の巨大なゴキブリが汚い壁を這いずり回っている。

 俺は、こんな牢屋に入れられて猛烈にムカついていた。

 こんな場所、一分だっていたくない。マットレスには血や汗のシミが染み付いている。
 
 糞尿を入れる簡易便器。壁には南京虫を潰して貼り付けたあとが点在している。

 留置された者達の憤怒と怨念が部屋全体に張り付いているかのように見える。

『ルイージ、おまえはヴァレンチノ人なんだな。なんで、こんな仮面をつけるんだよ? 綺麗な、お顔を見せる方が人気が出ると思うぜ』
 
 そう言い捨てるとルネはニヤニヤしたまま立ち去った。
 
 子供の頃から暗い場所は苦手だった。
 
 忘れたい過去が蘇り胸クソが悪くなってしまう。そして、闇の中に呑み込まれそうになる。
 
 私生児の俺は、世間から見下されて蔑まれてきた。
 
 俺の父はパオリーノ。父の正妻はカーラ。彼等には二人の息子がいたのだが、最初から夫婦仲は冷めていた。

『我が愛しのシーラ! 君は運命の乙女だよ!』

 俺の父親は田舎の子爵で、たまたま、農村を通った際に村娘達の収穫の様子を馬車からみかけて一目惚れしたという。母は美少女だった。

『いいえ。旦那様。いけません』 

 当時十六歳の母にはハンサムな恋人がいたというに、父は、半年かけて求愛した。

 母は愛人になりたくなかった。しかし、貢物に目が眩んだ母の家族が懇願したのである。

『シーラ! お願いだよ。パオリーノ様の愛を受けておくれよ。悪い話じゃないじゃないか。あたしらを助けると思って妾になっておくれ』

 俺の祖父母は地代が払えずに困窮していた。父は、貧乏人の弱みに付け込んだのだ。幼い妹達に苦労させたくない。その一心で母は父に囲われる生活を選択したという。

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