愛しのディアンヌ
「父の秘書のデニーロだよ。故郷に戻るように言いに来ているに違いない。いつものことだ。ホテル住まいをしていたならばホテルに来る。どこに隠れていても嗅ぎつける」

 この建物の東の小路の幅は狭い。先刻から路上で御者と行商人何か言い争っている。

「ああっ、大変。秘書さんの馬車が荷馬車の通行を妨げていますよ!」

「招かれざる客た。邪魔な奴だな」

る。
 黒塗りの四輪馬車の御者は太っており、そいつは大声で、後ろから来た荷車の農夫に向かって下がって迂回する様にと喚き立てている。見ているだけでムカつくような横柄な態度だった。

 デニーロという男は、一階の共同玄関にある呼び鈴を引き続けているようだが、どんな男なのか、ここからも見えない。ルイージが眉根寄せたまま気難しげに呟いている。

「ここ半年は全く現れなかった。ついに、ここにいる事がバレたんだな」

「他の馬車が通れなくて可哀想です……。あたし、見にいきます」 

「ディアンヌ! あいつとは会わないほうがいいんだよ。無視しろ!」

「だけど、二人は親子なんだもの。いつまでも無視する訳には……、とにかく要件だけでも聞いた方がいいわ。それに、馬車をどこかに移動させてもらいましょう」

「必要ない!」

「でも、あたしは気になります。出ないと、デニーロ氏は帰ってくれないわ」

 リンリンという鐘の音を耳にすると落ち着かなくなる。だから私はドアのノブに手をかけようとすると、強引に背後から腕を引かれていた。肩を掴まれてクルリと抱き寄せられていた。

 この瞬間、ルイージに情熱的に口付けられていたのである。魂を奪われるかのようだった。思ったよりも柔らかなルイージの唇の感触を感受した私は、鳩のように目をパチクリさせて固まっしまう。全身の毛穴が泡立っている気がする。喉元が震えてしまう。

 見上げると。彼は、羽のように優しく微笑んだ。
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