緋の鏡 ~その血は呪いを呼ぶ~
第1章 血の記憶
 耳元で誰かが囁く。

――二人で逃げよう。

 小声で囁く。

――お前と一緒になりたい。

 男の声だ。

――大丈夫だ、金なら用意している。

(うるせぇ)

――見つかる前に逃げよう。

(ウゼェってば!)

――後生だから、俺と一緒に。


 目が覚めた。時計を見ると四時だった。
 ここ最近、同じ時間、同じ夢で目が覚める。
 耳元で囁きかけるような男の声。一緒に逃げようと誘いかける。
 エアコンがつけっ放しの部屋で、毎夜汗まみれになって目が覚めるのだ。

(またかよ、ちくしょー)

 暑いからおかしな夢を見るのだと思っていたが、どうも違う気がしてきた。この夢を見始めて、もう一週間近く経つ。同じ時間、同じ夢。あまりにも気味が悪かった。

(せっかく気楽なバイトも見つけて、菜緒子《なおこ》が就職決めるまで、のんびり過ごそうと思ってたのに……毎日寝不足で体ダリ~)

 はぁ、と深いため息をついた。

 氷室(ひむろ)克弥(かつや)、大学の四年生。
 不動産会社の内定を早々と手に入れ、大学最後の夏休みを謳歌しようと考えていた。

 一方、恋人の吉岡(よしおか)|菜緒子は現在就職活動中。
 正直、いきり立っている。励まそうとしても、「克っちゃんはもう決まってるから余裕なのよ!」と怒鳴る始末だ。

 確かにそれは当たらずとも遠からずで、友達にもやんわりとだが同じようなことを言われた。
 今、克弥の相手をしてくれる友達はほとんどいないに等しかった。

 そんな折、都合のいいアルバイトの貼り紙を見つけた。 それが十日前の話だった。

 アンティークショップ『浪漫屋』。

 骨董屋だった。骨董に興味があるわけではなかったが、仕事の内容と勤務時間、自宅からの距離などを総合的に判断すると、絶好のアルバイト先だった。

 さらに店長の伊倉(いくら)は気のよさそうな初老の男で、暇な時は好きに時間を潰してくれたらいいと言い置いた。

 とはいえ一人きりの店番に喜んだのは最初の一日だけだった。客はほとんどこないし、当然伊倉はいない。

 雑誌かゲームでもしようかとも考えたけれど、雇われているのに遊ぶのもどうかと思う。
 ダレきれるほど、克弥は怠惰な性格ではなかった。しかもまだ二日目だ。

 悩んだ末、掃除を始めた。
 伊倉は一人身のようで、店の中はあまり綺麗とは言えなかった。

 さらに克弥を雇った事情が、入院している父親の介護であり、掃除に手が回る状態ではなかった。
 とりあえず、雇われているのだから掃除くらいしようと、棚や床を拭いたり掃いたりし始めた。
 商品については触らないほうがいいだろうと判断。当座はこれで時間が潰せると思った。

 そんな時、ふと小さな手鏡を見つけた。
 手の中に収まってしまうほどの大きさだ。朱の地の中に花鳥風月が彫り飾られていて、とても綺麗でかわいらしい。それを見た時、克弥は閃いた。

(そうだ。もうすぐ菜緒子の誕生日だ。これ、どうだろう?)

 値段を見ると、けっこうな額に驚いた。

「げ。こんなに小さいのに、二万もするの? こりゃ無理だな」
「なにが無理なんだい?」
「あ、店長。お帰りなさい」

 病院から戻ってきた伊倉に挨拶をする。伊倉は手に持っていた箱を克弥に渡した。

「これ?」
「暑いからねぇ。一緒にどうかと思ってね」

 アイスクリームだ。

「いただきます!」

 椅子に腰かけ、二人でアイスを食べ始めると、伊倉が口を開いた。

「で、なにが無理なの?」

「あ、えっと、もうすぐ彼女の誕生日なんですよ。で、あそこにある手鏡がかわいかったから、プレゼントにどうかと思ったんですが、高くて無理だなぁって」

「あぁ、そうなの。あの手鏡は良家の庭から出たらしくてね。上質で品があって、価値が高い。でも克弥君が欲しいなら、まけるけど」

「ホントですか?」
「五千円でどう?」
「えぇ? それは悪いですよ! 四分の一じゃないですか!」
「あはは、克弥君は知らないからそう言うんだ。これでも元は取れてるよ」
「え!」

 伊倉はおかしげに笑った。

「この世界はもともとそういうものだし、特にあの手鏡は事情があってね。タダであげてもいいんだけど、そうしたら貰い物を譲るみたいになって、誕生日プレゼントの意味がなくなるでしょ?」

 伊倉はそう笑って言った。バイト料と相殺するからと、手鏡を綺麗に包装して克弥に渡してくれた。

 それがバイト開始四日目の事だった。

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