吸血鬼令嬢は血が飲めない


「ーーーどこへ行かれるのですか、レギナお嬢様。」


首筋がひんやりしました。
暗い水底のような囁きは、すぐ耳元から。
いつの間に現れたのか、今最も会いたくない執事スアヴィスが、わたくしの顔のすぐそばまで唇を寄せていたのです。

「ギャアァーッ!?」

純粋にビックリして、わたくしは令嬢らしからぬ叫び声を上げてしまいました。
スアヴィスは人形のような無表情を崩さぬまま淡々と続けます。

「…それは、お嬢様の食後にお出しする血の袋ではありませんか。
あぁ…私の下処理のために運んでくださったのですね?
ありがとうございます、お優しいお嬢様。
さあ、こちらへ渡していただけますか…?」

スアヴィスは相変わらずの据わった目…もとい、静かな怒りに燃えた目で、わたくしの腕の中のラクリマを凝視しています。

わたくしは恐怖のあまり、全身から汗を噴き出させます。
しかし大人しく渡すわけにはいきません。

「こ、この娘を傷付けてはダメと言ったわ!
わ、わ、わたくしの命令が、聞けないの!?」

「お嬢様のご命令とあらば喜んで遂行いたします。
……ですが、“内容による”と申し上げますか。」

言いながら、スアヴィスの冷たい手指が、ゆっくりとわたくしの背中を撫で、それからコルセットの辺りへと移動します。決して逃すまいと、冷たく大きな手に力が込められます。

「ひっ…!」

どうしよう。一度この男の歯牙に捕まっては、本当に逃げられなくなってしまう。


「ーーーワンッ!!」

退路を絶たれパニックになるわたくしの目の前で、なんということでしょう。
猟犬ニクスが大きく吠えたかと思えば、わたくしを捕えるスアヴィスの前腕に噛み付いたのです。

「!」

不意打ちに驚き、わたくしから手を離すスアヴィス。
ニクスは牙と敵意を剥き出しにし、スアヴィスの腕を決して離そうとしません。

もっとも、スアヴィスは吸血鬼の中でもとても強い部類。なぜならゲーム本編の中ボスですもの。犬であるニクスの噛みつきでは、彼には大した傷は付けられません。

それでも注意を引けただけで充分。
わたくしは蝙蝠の翼を大きく広げ、その場で高く飛び上がります。

「お嬢様…!」

スアヴィスは珍しく余裕の無さを見せています。
わたくしは構わず、彼の腕に食らいつくニクスを呼びました。

「ニクス!いらっしゃい!」

お利口なニクスは、スアヴィスの腕からパッと口を離します。くるりと方向転換し、今度は空中に浮かぶわたくしへと高くジャンプしました。

腕二本はラクリマを抱いているために塞がっている。
わたくしはドレスの中から、鞭のようにしなる長い尾を出現させ、ニクスの体に巻きつけてキャッチしました。

「…レギナお嬢様っ!!」

スアヴィスはいよいよ怒り心頭です。
いつもの冷淡さは掻き消え、代わりに血走った恐ろしい眼をこちらへ向けています。

普段のわたくしなら竦み上がってしまうところ…。
けれど今、腕の中で眠るラクリマを守れるのは、自分だけ。わたくしは奥歯と、控えめに尖った牙をギリリと噛み締める。
そして、いつもならわたくしを見下ろす位置関係であるはずのスアヴィスへ、高みから見下ろしたまま叫びました。


「この分からず屋!!
付いて来ないでちょうだい!!」


その時のスアヴィスの、顔…。
10歳の頃、わたくしが初めて血を拒絶した時と同じ。深い深い絶望に叩き落とされたかのような表情で、わたくしのことを見るのです。

ズキズキと良心が痛みましたが、茫然自失の今こそチャンスです。
わたくしは身を翻し、スアヴィスが立ちはだかる城門の方向ではなく、灰色の霧の中に聳え立つバートランド城の中へと飛び込むのでした。
ここは一時退却。城内のどこかに隠れて作戦を練り直すのが得策ですわ。
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