ひとりでママになると決めたのに、一途な外交官の極上愛には敵わない
 大使夫妻がその場からいなくなってすぐ、櫂人さんの知り合いの男性が声をかけてきた。
 軽く挨拶をした後、込み入った話をしたい様子だったため、私は化粧室へ行くと告げてその場を離れた。

 久しぶりに英語を話したおかげか、自分でも驚くほど気持ちが高揚している。

 ブランクはあったけれど思ったよりも会話力は鈍っていなかったことがうれしい。なにより英語を使ってコミュニケーションを取ることが楽しかった。 
 やっぱり自分は英会話が好きなのだ。

 それだけじゃない、料理のこともだ。
 この二年間、祖父を手伝い、必死に子育てをしながら、少ない時間をやりくりして勉強してきた。大変だったけれど、きちんと努力が成果になった気がしてうれしくなる。

 そうだ。化粧直しのついでに祖父に一報入れておこう。
 喜んでくれるかな。新規のお客様が英国大使だと知ったら、きっとびっくりするよね。

 はやる気持ちを押さえつつ足早に大広間を横切り、エントランスホールに出たところで「待って」と後ろから聞こえた。

 振り向いた瞬間目に飛び込んできたあでやかな桜色の着物に、思わず「あ」と口から声が出る。

「少しお話してもよろしいでしょうか」
「……はい」

 平静を装いつつ返事をしたものの、胸の中がざわざわと波立つ。いったいなんの用だろう。
 内心身構えながら、北山さんが口を開くのを待った。

「あなた、もしかしてあのお弁当屋さん?」
「え?」

 予想外の質問に目を丸くした私に、彼女は小首をかしげる。

「本省まで配達に来てくれた人じゃないんですか? あの『おか』なんとかってお店の」
「おかもと、でしょうか?」
「そう、それだわ!」

 北山さんが顔の前でぱちんと手を打った。その拍子に指先でピンクベージュのネイルがきらりと輝く。その瞬間、あのときのことがよみがえった。

「もしかしてあのときの……」

 北山さんは眉根を寄せ、「やっぱり」とつぶやいて大きな息を吐き出した。
< 54 / 93 >

この作品をシェア

pagetop