月へとのばす指

 今日もいつものようにエレベーターホールへ一直線に向かおうとしたが、受付カウンター前に立つ人物の姿がちらりと視界に入り、思わず足を止めた。そんな唯花の様子に受付担当の一人が気づいたらしく、カウンター前の人物に対してこちらを指し示す。
 振り返った人物の顔を見て、唯花は軽く目を見張った。


 他の社員に混ざって一階フロアに足を踏み入れた瞬間、久樹は驚きとともに歩みを止める。正しくは、受付カウンター前にいる、二人の人物を目にして。

 館野唯花、そして──弟の功貴だった。

 距離があるから会話の内容は聞こえないが、見る限り、やたらと楽しそうだ。二人とも、自分が見たこともないような表情をして──唯花の方は特に、見たことがない優しげな微笑みを浮かべて、功貴と話をしている。

 いったい、何だっていうんだ。苛立ちとともに足を前に進め、受付カウンターめがけて直進した。
 近づいてくる足音に気づいたらしく、まずは功貴が振り返った。次いで唯花の視線がこちらを向く。

「あれ、兄貴じゃん。……なにその顔」

 功貴の訝しげな目に、不意をつかれる。どうやら苛立ちが顔に出てしまっていたらしい。表情をあらため、咳払いをする。

「いや別に──おはよう、久しぶりだな」
「そうだっけ。まあ、そうか。最近実家帰ってないから」

 功貴は入社以来、社が所有する独身寮に入っていた。だがこの秋に結婚するため、近々退寮して引っ越すのだと母親から聞いている。引っ越しの日は手伝いに行ってやりなさい、という指示付きで。

 基本、過保護気味の母親であるが、弟に対しては特にそれが出ている。幼い頃は女子に間違われるほど可愛らしい顔立ちだった、加えて言うなら自身によく似ていた功貴に対しては。

 功貴は昔から、良くも悪くも無邪気でもあった。高校生になってもその性質は変わらず、顔だけではなく中身も可愛いと、親戚や学校の女子から絶大な人気を誇っていた。

 その扱いは近しい家族であっても変わらなかった。両親や妹は自分より弟の方が好きなのかもしれない、と思ったことも数知れないぐらいに、弟を可愛がっていた。今思えば、弟は次男であるために、久樹ほど将来に関するプレッシャーを与えられることなく育った。それゆえの、良い意味での気楽さやおおらかさを身に着けており、醸し出す雰囲気が誰にとっても心地よかったのだろう。
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