月へとのばす指

 だからあちらとしては相当乗り気でいるのだと、父親は言外に匂わせている。確かに先々のことを考えれば、女性側のいわゆる適齢期が三十歳ぐらいまで、と考える人間は多いだろう。高井相談役のようにある程度以上の年齢であれば、なおのこと。

 相手側の事情や言い分はわかったが、久樹としては正直、その気にはなれそうになかった。淑やかそうな美人だし、女性が文武両道であることに気が引けるほど、時代遅れな感覚でもない。だが。

「お話はわかりました。ですが、会う気にはなれません」
「どうしてだ。一度会うぐらいすれば」
「そうするとお断りしにくくなるでしょう。どうせ断るのなら、会う前の方があちらの傷も浅いはずです」
「断るのが前提なのか。……噂は本当のようだな」
「え」
「秘書の女の子たちから聞いているぞ。次長には意中の相手がいると」

 ぐっと詰まる。ひっそり広まっているような気はしていたが、父親の耳にまで届いていたとなると、さすがに気恥ずかしい。

「あの、それは」
「社内の子らしいな。総務の館野さん、真面目そうな美人だと聞くが」
「……はあ」

 名前まで知られていては、うなずかざるを得ない。父親はなにやら思案するように首をひねった後、ため息をつくように「そうか」と応じた。

「私は別に、おまえに政略結婚を押しつけるつもりはない。だが……一般家庭のお嬢さんが我々の世界に入るのは、簡単ではない。周囲の反応もあるが、そういった目や、習慣の違いに、相手が耐えられるかということだ。おまえにもわかるだろう」

 父親が言うことは理解できる。叔父の一人がかつて、一般女性と結婚しようとした時に騒ぎが起きたことを指しているのだ。可愛らしいが美人とまでは言えず、性格の良さが取り柄のような女性だったらしい。結論を言えば、周囲からの重圧に女性が耐えきれず精神を病んでしまい、婚約破棄の事態となった。叔父はそのショックを長年引きずり、去年ようやく、親戚の未亡人と結婚した。

「よく見極めなさい、何が最善なのか。見合いの件も含めてもう一度、考えてみることだ」

 戻っていい、と父親の許可を得て、社長室を出る。写真と釣書は、気が進まなかったが持って行かないわけにもいかなかった。

 営業のフロアに戻ると、エレベーターホールで意外な人物に出くわした。

「功貴」
「よう。どうやら招待状は受け取ったみたいだな」
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