月へとのばす指
久樹は心の中で嘆息した。通常であれば何の不自然もない理由のはずだが、連日「医療費申請の用紙が欲しい」「残業申請用の用紙が切れた」とわざわざ管理職が足を運んでくるのは、たぶん自然ではないだろう。自分でも薄々わかってはいたが、しかたなかった。
この時間にこの部屋へ来なければ、唯花が出勤しているかどうか、確かめようがなかったから。
女子社員が用紙を出してくるのを待ちながら、久樹の目は部屋の奥、部長席と課長席に一番近い机に釘付けだった。
この一週間空席だったその位置に、今日は彼女が座っている。久しぶりに見る唯花は、心なしか、以前より痩せているように感じられた。体調を悪くして欠勤していたのだから、それも当然といえばそうなのだが。
「お待たせしました、藤城次長」
用紙の束を手に、女子社員が戻ってきた。
「あ、ああ。ありがとう」
受け取ったものの、久樹は立ち去りがたい思いでその場にとどまってしまう。唯花はといえば、ここに久樹がいるのはおそらくわかっているだろうに、まったくこちらを見ようとはしない。机にある書類を取っ替え引っ替えして、確認している。
せめて目だけでも上げてくれないか、とひそかに願っていると、そのタイミングで唯花が顔を上げて総務課長の方を見た。何か質問しているようだ。
「あの、まだ何か?」
先ほどの女子社員が、明らかに胡散臭そうな口調で久樹に尋ねてきた。他の社員も数人、こちらを見て首をひねっている。
「い、いや何でもない。失礼」
急に居心地が悪くなり、久樹は逃げるように総務部の部屋を後にした。慌てて廊下に出て、ふうっと息をつく。
唯花の出勤は確認した。痩せたようだがそれなりに元気そうでもある。
だがそこからどうするか、の手だては、無いに等しい。
なにぶん彼女の携帯番号も何も知らないのだ。
彼女の自宅を知ることができたのは、まったくの偶然だった。なんと弟の功貴が知っていたのだ。
唯花が欠勤した初日、総務部の辺りを久樹が何度もうろついていたことは噂になっていたらしい。それを聞きつけた功貴が翌日、わざわざ営業部を訪ねてきて、住所を知りたくないかと申し出たのだった。
『なんでおまえがそんなこと知ってんだ』
『いいじゃないか。言っとくけど法に触れることはしてないからな。ちゃんと然るべきルートから聞いたんだよ』
『…………』