君を忘れてしまう前に






 ひとしきり泣いた後、みつきにサラとのことを打ち明けると、そうだったんだ、と随分あっさりした返事が返ってきた。
 拍子抜けはしたが、みつきがあまりにも自然に受け入れてくれたので胸の苦しさが少しだけ楽になった。
 話もそこそこに、次はポピュラーの校舎で授業があるというみつきは「またゆっくり話聞くね」とだけ言い残し、慌ただしく去って行った。

 みつきを見送った後、クラシックの校舎の真新しい廊下を抜ける。
 もう少しで次の授業が始まるからと、たくさんの生徒達が構内を行き来する中、昇降口まで来た時だった。

「仁花さん」

 背中から声が聞こえたので振り向くと、そこには和馬くんがいた。
 肩にはヴァイオリンを引っ掛けている。

「あれ、和馬くん。今からレッスン?」

「いえ、さっき終わりました。仁花さんは?」

「私も今までレッスンだったんだ」

「次は授業ですか?」

「ううん、空き時間だからポピュラーの校舎で練習しよっかなって思ってたとこ」

「そうですか。じゃあ僕もポピュラーの校舎で練習しよっかな」

「え」

 クラシックの校舎の方が綺麗だし、設備も整っている。
 わざわざ離れた古い校舎まで来て練習なんかしなくても……という私の気持ちが伝わったのか、和馬くんは私をリードするように少し前を歩き出した。

「外、気持ちが良いからちょっと散歩したくて」

「そっか。今日は天気がいいもんね。散歩したくなるの分かるよ」

「ほんとですか? 嬉しいな」

「何が?」

「仁花さんと同じ気持ちで」

 和馬くんが校舎の扉を開けると、隙間から陽の光が漏れ、和馬くんのほんのり明るく染まった茶色の髪をキラキラと照らした。
 まるで陽の光そのものになったようだなとぼうっと見つめていると、振り返った和馬くんは緩やかに口角を上げた。

「仁花さんにそんなに見られたら、僕どうしたらいいか分からなくなっちゃいます」

「ごめん、髪が綺麗だなと思って! 見過ぎちゃった!」

 余裕がなくなるってどういうことだ!?
 あたふたする私を見て、和馬くんはおかしそうに笑いながら大きく扉を開いた。
 お先にどうぞ、と言うように穏やかな視線で校舎の外を指し示す。
 和馬くんの前を通る時に妙な緊張を覚えつつも外に出ると、柔らかな風がふわりと頬をくすぐった。

「わあ、さっきまでこんなに気持ち良かったかな? 外」

「仁花さんの気分が変わったからじゃないですか」

「そうかな、そうかも」

 春風がそよぐ校舎の中庭を二人で並んで歩く。
 眩しく光り輝く陽射しが、私の心の隅々まで燦々と降り注いだ。

「こんなのんびりした気分、久しぶりだな」

「たまにはこういうのもいいですよね」

「ほんとだね」

「仁花さん、昨日のラインなんですけど」

「あ、ごめん」

 しまった。
 昨日はサラとのいざこざがあってから他に何も手が付かず、和馬くんに返事を返すのをすっかり忘れていた。

「コンサートが終わったら、一緒にどこかに遊びに行きませんか?」

 コンサートが終わったら……か。
 私は小さく頷いた。

「いいよ」

「ほんとですか?」

 和馬くんは目を丸くさせた。

「どこか行きたいとこありますか? もし良かったら僕探しときますけど」

「じゃあ、お願いしてもいいかな?」

「やった! 分かりました、探しときます。楽しみにしててくだいね」

 和馬くんがあまりに無邪気に笑うので、私もつられて微笑んだ。
 太陽のように笑う子だ。
 この中庭をくまなく照らす陽の光がとても似合う。
 どこか冷たい雰囲気を醸し出すサラとは正反対だ。
 冷たい夜の月と暖かい昼中の太陽のように二人はまったく違う性質を持っている。

 やっぱり何をしていても、私の頭には常にサラの存在がこびりついて離れない。
 あんなことがあったのだ。
 サラへの想いなんて早く忘れてしまった方がいいのに、まだそれを良しとしない自分がどこかにいる。
 私は、どれだけしつこいヤツなんだろうか。
 自分で自分が嫌になる。

「……サラさんとはどうですか」

 和馬くんが、絶妙なタイミングでピンポイントな質問をして来る。

「ちょっと……。あんまりちゃんと喋れてなくて」

「そうですか。サラさん大変そうですもんね。あ、香音さんの方が大変か」

「待って、どういうこと?」

「香音さん、今、酷い腱鞘炎らしくて。本当はすぐにでも手術しないといけないくらいの」

「香音さんが……?」

「サラさんも何度かコンサートの出演に関して香音さんと話し合ってたみたいなんですけど、今回のコンサートの成績次第でパリの音楽院に推薦して貰えるって話があるらしくて。それで無理やり出るみたいですよ」

 公開練習の時にミスタッチを繰り返していた香音さんが脳裏に浮かぶ。
 あれは、腱鞘炎の影響だったのだ。
 普通に動かすだけでも痛いはずなのに、細かい動きが続く演奏をするには想像を絶する痛みが伴うだろう。

「すっごい根性ですよね。サラさんもかなりフォローしてるみたいですけど。あ、この辺は実際、演奏見てる仁花さんの方が知ってるか」

「そう……かもしれないね」

 言葉が出ない。
 香音さんはステージに上がっている間、手首の状態が悪いことを微塵も感じさせなかった。
 それどころか見る度に演奏のレベルが格段に上がっていた。
 サラだってそうだ。
 皆、色々なものを抱えながら日々練習を重ね、ステージに上がって演奏しているのだ。
 それなのに。

『私も香音さんのようになりたかった』

 できない言い訳ばかりを並べて、逃げて、香音さんに嫉妬していた自分が死ぬほど恥ずかしい。
 誰よりも努力しているといつのまにか勘違いしていたのだ。
 そのくせ、最近は恋愛のことばかり考えて真剣に音楽とも向き合わず。
 一番、何もしていないのは私だ。
 選抜試験にもギリギリ合格できたレベルなのに。
 余裕で合格しているサラや香音さんでさえそれだけ頑張っているのに、私なんか今のままじゃ全然足りない。
 足りなさ過ぎる。
 もっと、もっと頑張らなければ。

「和馬くん、ありがとう! ごめん、先に行くね」

「あ、」

 和馬くんに手を振って、ポピュラーの校舎へと駆け足で向かう。
 今は一刻も早く練習がしたかった。



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