君を忘れてしまう前に


 香音さんと話したのはこれが初めてだ。
 わたしのことを知らないはずの香音さんが、こんなふうに声をかけてくれるなんて素敵な人にもほどがある。
「尊い」と何度も心の中で呟きながら鍵を受け取ったわたしの手は、緊張して小さく震えていた。

「あ、ありがとうございます」

 振り絞った声に、香音さんは優しい笑みを返してくれた。
 その背中から後光が射し、どこからともなく賛美歌が聴こえてくる。
 どうやら、香音さんの正体は女神さまだったらしい。
 自然と胸元の前で両手を組んでいた。

「女神さま……」
「仁花? なにしてんのここで」 

 どこからかサラの声がして、現実に引き戻される。
 目の前にいる香音さんが後ろを向くと、廊下の奥からサラが歩いてくる姿が目に入った。
 サックスブルーのハーフジップニットに、白のワイドパンツ。
 よく見たら、ジップを全開にしてルーズな雰囲気が漂っているのに、手には黒の上品なヴァイオリンケースを持ったサラは相変わらず悔しいくらいかっこいい。
 サラは「よ」とわたしに声をかけると、当たり前のように隣に並んだ。
 嬉しい反面、昨日のことを思うと気まずい。
 朝からなんとなくサラに会うのを避けていたから、ここで鉢合わせたのはちょっとした誤算だ。

「練習室がどこも満室で困ってたら、香音さんに声をかけてもらってさ」

 もらったばかりの鍵をサラの前でチャリンと揺らす。

「じゃあ、今日はこっちで最後までいんの?」
「そうだよ」

 サラはいつもと変わらない態度で接してくる。
 昨日の出来事はショックだったけど、サラにとってはただの雑談だったわけだから当然だ。
 ひょっとしたら、話の内容も忘れているかもしれない。

「サラくんも練習だよね」
「はい」

 香音さんの問いかけに答えるサラは、いつもよりも落ち着いていた。
 わたしの前では、もっと雑で砕けている。
 香音さんの前だからだ――そんなふうに思っても仕方がないけど、自分ではどうしようもない。
 これは叶わない恋なのに。
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