君を忘れてしまう前に
朝、すっきりと晴れ渡った空を見上げながら、一度大きく深呼吸して大学の門をくぐる。
朝日を浴びた緑が、やわらかい絨毯のように輝く中庭を歩いていると和馬くんの姿を見つけた。
和馬くんは、クリーム色の校舎の壁にもたれながらスマホを眺めている。
たくさんの女の子達から声をかけられる度に、ワイヤレスイヤホンをしたまま軽く挨拶をする様子は完全なるモテ男だ。
今まで学内でほとんど会ったことがなかったのに、昨日の今日で早速ばったり会うなんて偶然だな、と思いながら手を振ってみる。
すると和馬くんはすぐにこちらに気づき、ワイヤレスイヤホンを片方だけはずして会釈した。
「おは、」
「古河くん、おはよ!」
わたしの声に被るようにして、背後から女の子達の明るい挨拶が聞こえてくる。
もしかして、和馬くんはわたしの後ろにいる子達に会釈したんだろうか。
昨日、ちょっとしたやり取りを交わして知り合い気分になっていたから恥ずかしい。
顔を伏せて、和馬くんの前を通り過ぎようとした時だった。
「仁花さん、おはようございます」
「あ、和馬くん! おはよう」
今、気づいたと言わんばかりに顔を上げて和馬くんに挨拶を返す。
和馬くんは不思議そうな表情を浮かべながら、もう片方のイヤホンもはずしてケースにしまった。
「さっきこっち見てませんでした?」
「わたしに気づいてなさそうだったから……」
「挨拶したじゃないですか」
「後ろの子達にしてなかった?」
「違いますよ、仁花さんにしました」
和馬くんが首を傾げて微笑むと、ゆるいウェーブのかかった前髪が少しだけ揺れる。
全部、見られていたらしい。
恥ずかしさを紛らわせたくて軽く鼻をすすると、和馬くんの小さな笑い声が聞こえてきた。
「和馬くんこそどうしたの。ここで誰かと待ち合わせ?」
「いや、待ち合わせじゃないんですけど」
きまりが悪そうに視線を落とす和馬くんを見てピンときた。
和馬くんは、香音さんのことを待っていたのかもしれない。
昨日、わざわざ練習室まで訪ねてきたくらいだから、なにか伝えたいことがあるんだろう。
「そうなんだ。じゃあ、行くね」
「ぼくも行きます」
「誰か待ってたんじゃないの?」
「待ってました、さっきまで」
「もういいの?」
「いいです」
和馬くんがわたしの隣に並ぶ。
誰かを待っていたのに、どうしてわたしと一緒に校舎に行く気になったのかは分からないけど。
和馬くんがいいと言っているから、あまり気にしなくてもよさそうだ。
わたし達は、クラシックとJ−POPの校舎をつなぐ廊下に向かって歩き出した。