君を忘れてしまう前に

番外編(ある女の話)

※和馬が遊び散らかしているある女視点のお話。
本編17話の夜あたり。




















 人差し指を目の前の肩に置く。
 弧を描くように撫でると、肌のツルリとした感触がした。
 年下だからなのか、それとも持って生まれたものなのか。
 こいつは男の癖に酷く肌のキメが細かい。

 一方のわたしは、もうすぐ28歳を迎える上に、今日は少しばかり寝不足気味。
 いつもよりも肌のコンディションが悪い、というよりも控え目に言って〈最悪〉なだけに、辛い現実を突きつけられた気分だ。

 視線を男の肩から首筋、顔の方へとゆっくり移す。
 ベッドサイドの間接照明に照らされ、暗闇の中でぼんやりと浮かんだ艶めかしい肌が妙に情欲をそそった。

 さっきもしたのに。
 つい先程まで、ここで繰り広げられていた情事が脳裏を過ぎる。

「何?」

 男の閉じられていた瞼が静かに開く。

「ううん、何もないよ」

 少し潤んだ、真っ黒な瞳。
 スッと伸びる鼻筋。
 ぷっくりとした色味の良い唇。

 こんなに顔の作りが整った人物は、この世界には他にいないと思う。
 一度見たら、誰もが忘れられなくなってしまう罪な男。
 その男は、私の返事を聞くなりすぐにまた瞼を閉じた。

 長い睫毛に嫉妬しつつ、再び肩に視線を戻す。
 人差し指で腕をなぞりながら、その指を男の下腹部に乗せる。
 引き締まった身体にキュッと力が入ったのを見計らい、割れた腹筋をここぞとばかりに撫で上げた。

「くすぐったい」

 ケラケラと小さな笑い声をあげる。
 子どもみたいで可愛い。
 私もつられて一緒に笑う。
 この時間が、ずっと続けば良いのに。
 そう思った途端に、男はくるりと背を向けた。

 私の心が読めるのか。
 ベッドのきしむ音が耳に響いて痛い。
 やっぱりこいつは、私に捕まえられるのが嫌らしい。

「ねえ、今日は何してたの?」

 一向に振り向きそうもない背中に声をかけた。
 普段は、何をしているのか分からないこの男。
 本来なら他愛のない会話になるはずが、私にとっては貴重な情報収集の機会になる。

「いつもと同じ」

 この一言から分かる、今のこの男の気持ち。
 眠い。
 面倒くさい。
 これ以上は聞くな。
 大方、こんなところだろう。
 知り合って1年、伊達に身体だけの関係を続けていた訳じゃない。

 はっきり言って、こいつは最低なやつだ。
 普段はやたらと頭がキレるけど、男女のこととなれば、人をどれだけ泣かしたって平気な男のなのだ。

 外で他の女と歩いている場面を何回か見たことがある。
 その場で、こいつと目があったことも。

 わたしの気持ちなんか、知り合った時から分かっている癖に。
 何度もそう思った。

 だけど、わたしを選んだのは間違いだったな。
 わたしは他の女みたいに、計算されたしおらしい態度で付き合って欲しい、なんて死んでも言わない。
 だってそんなことを求めてしまったら、二人の関係はすぐに壊れてしまう。
 あくまで都合の良い存在でいる。
 それが、この関係を円滑に続けていく要だ。

 都合の良い存在でも良いじゃないか。
 この、現実のものとは思えない綺麗な顔をずっと隣で拝めるのだから。
 そう思っているわたしも、実は最低な女なのかもしれない。 

 再びベッドがきしむ。
 身体が揺れ、隣を見ると既に男はベッドから立ち上がっていた。
 床に散らばった服を拾い、淡々と着る。
 それから携帯電話を眺めて、ジーンズのバックポケットに入れた。
 いつもなら気にも留めない携帯電話を、今日は一緒にいる間何度も確認していた。
 何度も、何度も。
 
「帰るの?」
「うん」

 目的を果たせば、いつもすぐに帰る。
 そんなことは分かっているはずなのに。

「じゃあな」
「待って」
「何?」

 男はリビングの扉を開きかけたところで、面倒臭そうにこちらに振り向いた。

「あのね……」

 これは聞いてはいけない一言な気がする。
 でも今日を逃すと一生聞けない気がした。

「だから何?」
「もしかして、好きな人できた?」

 男が鼻で笑う。

「おれが? 何で?」
「何となく……そんな気がしたから。ちょっといつもと雰囲気が違う気がして」
「へぇ、おれの何を知ってんの?」
「そういうつもりじゃないよ。ごめん、わたしの勘違いだった。気にしないで」
「でも、まあ当たってるよ」
「え?」
「どろどろに甘やかして、だめにしたくなる人ならいるから」
「え……、うそ、ちょっと待っ……」
 
 驚くわたしを置いて、男はいつもと変わりなく部屋を出ていく。
 いつまた見られるか分からないその姿を、ちゃんと最後まで目に焼き付けておかなければならないのに。
 別れの合図のように、玄関の扉の閉まる音が聞こえる。
 結局、初めての心の揺れにわたしは視線を上げることが出来なかった。

 いや、初めてというのは間違いかもしれない。
 ずっと知らないふりをして来た、というのが正解だと思う。
 今まで誤魔化して来たけれど、それもどうやら限界が近付いているらしい。
 もしかしたら、あの男がこの部屋に戻って来ることはもう無いかもしれない。

 だからと言って、わたしから連絡してもそれは無駄な行為に終わるだろう。
 返事が返って来たことなんて、ただの一度も無いのだから。

 頭まで、深くベッドにもぐる。
 あの男の匂いがふわりと香った。
 触れ合った時の肌の感触が今もまだ残っている。
 次々に生まれる、このどうしようもない想いが報われることも満たされることもない。

 わたしがもし、あの男の心を掴んだ人になれたなら。
 ついさっき触れたあの腕に、優しく抱き締めて貰えるのだろうか。
 じわりと目頭が熱くなり、ぎゅっと瞼を閉じた。

 わたしだけだと、一度で良いから言ってくれないだろうか。
 ただの一度だけで良いから。
 そして、その魔法の言葉でわたしにほんの少し夢を見させて欲しい。
 それ以上は、決して何も望まないから。


 心の奥にひた隠しにしてきた想いが溢れ返る。
 わたしがこうなってしまえば、この関係を続けるのはもう無理なのかもしれない。


 どんよりと重い眠気が全身を襲う。
 あいつとした後は、いつもこうだ。
 疲れが溜まっていたのもあり、いとも簡単に身体の力が抜けていく。
 良い機会だ。
 このまま眠ってしまえば、今のこの想いをまだもう少しだけ誤魔化すことができる。

 眠りに落ちる瞬間、男が部屋を出て行った時の光景が蘇った。
 あの時は出来なかったけど、今なら出来る。
 すぐにこのベッドを下りて、玄関を出るあの男を抱き締めに行こう。

 大丈夫。拒否されたらどうしよう、なんて怖がる必要はない。
 これはわたしの願望から生まれた夢の中だから。
 身体にそっと手を回して、背中にキスをして、頬を寄せて。
 固く閉じてしまった私の唇が解《ほぐ》れたら、迷わずこう告げるのだ。

 『あなたが好きよ。正直に言えば、凄く』







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