水縹のメロディ
第2章 夏~summer~

2-1

 本当に雨にはいつも困らされる。

 夏紀の住んでいる地域は数日前に梅雨入りし、けれどこの日、朝は晴れていた。
 だからもちろん、夏紀は傘を持たずに家を出た。それから会社で仕事をして、帰りの電車に乗るまでも傘は必要なかった。

 雨が降ってきたのは、夏紀が電車を降りる直前だった。
 周りの人たちは、みんな傘を持っている。長いのだったり折り畳みだったり、とりあえず濡れないように、と足早に去っていく。

 駅には売店があって傘ももちろん売っている──けれど。
 田舎の駅の売店は夕方六時閉店で、夏紀が帰宅する午後八時にはシャッターが閉められてしまっていた。駅前にある他の商店ももちろん閉店しているので、傘を買うという選択肢は夏紀には無かった。

 もちろん、家に電話して迎えに来てもらう、という選択肢はあるけれど。プロヴァンスまでの道には急なところがあって、両親ともに雨の日は車での迎えを拒否していた。小降りならまだ来てもらえるが、強い雨だと来てもらえない。バスはあっても別方向にしか走らなかったし、タクシーは見たことがない。

 止むまで待つしかないのか、仕方なく濡れて帰ろうか。
 夏紀が一人悩んでいると、後ろからコツコツと足音が聞こえた。まだ人が残っていたのか、この人もきっと足早に去っていくのだろう、と思ったとき、足音は夏紀の隣で止まった。

「傘、なくなるんだけど」
「……え?」
「うち、傘屋じゃないからさ」

 ゆっくりと声のほうを見て、夏紀は驚いた。
 そこに立っていたのは、ずっと探していた人──傘を貸してくれた青年だった。

「カサイナツキ。名前の割に、傘を持つのが嫌い」
「──どうして知ってるんですか」
「さあね」

 青年は夏紀を見つめていた。けれどそれは優しい目ではなく、どことなく冷めているように感じた。口角は上がっているけれど、目は笑っていなかった。

 夏紀は再び外を見て、どうしよう、と思った。

「今度もし見かけたら、もう貸さないから」

 青年はそう言いながら、持っていた傘を夏紀に付きだした。

「俺があんたに傘を貸すのは、これが最後」

 青年は冷たい視線のまま、夏紀をじっと見た。

「い、良いです、こないだのだって返せてないのに……」
「俺、女が濡れるのは見たくない。それに、貸したままにはならない。前に貸した傘も、これも、一緒に俺のところに戻って来る」
「……その自信は何なんですか?」
「とりあえず、ここ置いとくから」

 夏紀が傘を受け取らないので、青年はそれを壁に立てかけた。
 雨は降り続いたままで、止みそうにない。
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